随筆の心象風景 〜魔術幻想舞踊〜


 東京駅に11番ホームは存在しない。
 初めから存在していない。

 1番ホームから10番ホームまでと、12番、13番ホームとがあった。
 11番ホームだけがない。

 11番線はある。
 番線はあってもホームはない。
 11番線は業務用で、客が乗降するためのホームは必要なかった。

  第1話 東京駅の11番ホーム


     ◆

 桜の話は僕から切り出した。

「中学や高校の頃は正直、わからなかったんだよね」
「何が?」
「桜の良さが――だよ」
「それほど綺麗なものではないんじゃないか――と云うこと?」
「いや……」

 僕が云いたかったのは、

 ――なぜ桜が、こうも人々に愛されるのか?

 ということだった。

  第2話 桜の話


     ◆

「――じゃあ、今度は場の話を私がしようと思う」
 と、康子は云った。

「場の話?」
「そう。場の話――不思議な話よ。本当のところは誰にもわからない」

「場」とは物理の本に出てくる場のことである。
 電場、磁場、重力場、量子場――
「世界は場で溢れている」
 と、康子は云う。

  第3話 場の話


     ◆

 出会ったときから薄々、気付いてはいたが――
 康子は相当に変わっている。
 その印象は、出会って20年、そのままだった。

 が――
 先日、見知らぬ老人に話しかけられ、改めて意識するようになった。

  第4話 康子(1)


     ◆

「きみに、どうしても訊いておきたいことがあるんだ」
 と、僕は云った。

「なに?」
「きみと僕とが最初に会ったときのことだよ」
「また、その話?」

 康子は困惑した素振りをみせた。
 この話を持ち出すと、決まってみせる素振りである。

  第5話 康子(2)


     ◆

「あなたは、自分が自分であり続けるために、何が必要だと思う?」
「それは記憶だろう」
「――その記憶が乱れるとき、人は容易に自分を見失う。ちょうど、先ほどまでのあなたが、そうであるように――」
「僕が?」

 不意に康子が、

 ――ふふ

 と笑った。
 一瞬だけ、悪魔の微笑みにみえた。

  第6話 記憶


     ◆

「僕はゴーレムなのかい?」
「そうは云っていない。ゴーレムにも横顔はあると云っている」
「横顔?」
「あなたの云う横顔――ゴーレムの意外な側面――例えば、普段は、どんなところで、どんな人たちと、どんな風に暮らしているか――横顔こそが、存在に命を吹き込み、存在の心を象(かたど)っていく。ユダヤ伝承のゴーレムだけが、ゴーレムではない」

 康子は微笑(ほほえ)んでいる。
 僕を諭しているようにも、からかっているようにもみえた。

  第7話 ゴーレムの横顔


     ◆

「喫茶店の店番は、ともかく――」
 康子は、グラスのコップを一つひとつ丁寧に拭いながら、云った。
「君主も女優も、本質は同じと思っている」

「同じ?」
「社禝を維持するか、芝居を維持するか――社禝も芝居も実態はかわらない。それをわからない君主が多すぎたから、民主制にとって代わられた」
「君主が女優だなんて、ずいぶん謙虚な君主だね」
「それは違う」

 康子の瞳は、山路に湧く泉のように澄んでいた。

  第8話 君主が女優を兼ねるとき


     ◆

 不意に――
 康子が僕を振り返った。
「女優の仕事というのはね――」
 と云う。

 僕は康子の視線を正面に受け止めながら、康子の次の言葉を待った。
 康子は云った。

「――人の心を喰う仕事――」

  第9話 人の心を喰う


     ◆

 その日――
 いつものように「カフェの心象風景」に赴くと――
 店の様子がおかしい。
 酷く荒れていた。

 テーブルや椅子の類いが倒され、食器やコップの類いが割られている。
 床には花瓶の破片が散らかっていた。

 が――
 僕の度胆を抜いたのは、それではない。

 店の内壁に磔にされていたものがある。
 遺骸である。

  第10話 遺骸


     ◆

 康子は天を仰いだ。
 曇った表情を隠すかのような仕草であった。

「間違いなく、あの男の仕業でしょう」
「――温湯浸(おんとうしん)にござりまするか?」

 カジワラさんの問いに、康子は答えなかった。
 無言が否定を意味しないことは明らかであった。

  第11話 温湯浸(1)


     ◆

「あれが温湯浸かい?」
 と、僕は尋ねた。

「そうよ」
 と、康子は答えた。

「やっぱり、きみの仲間なんだろう?」
「そうではない」
「随分、仲良さそうに喋っていたじゃないか」

 康子は機嫌を損ね、天を仰いだ。
「あなたは彼の本性を知らない」

  第12話 温湯浸(2)


     ◆

「太平天国の栄光――という言葉を、きいたことはある?」
 と、康子は云った。

「太平天国の栄光? なんだい、それは?」
「文字通りの意味――かつて、太平天国が勝ち取った束の間の栄光のこと――外なる思想を、内なる思想と履き違えることで満たされた虚栄心――」

  第13話 太平天国の栄光(1)


     ◆

「もしかしたら――」
 康子は、ゆっくりと言葉を切りながら、云った。
「康善は『太平天国の栄光』を求めたのかもしれない」

「また、その話か――」
「人は、長年にわたって親しんできた規範を踏み外すときに、無類の充足感を得る。それは快感と云ってよいほどの充足感――」

  第14話 太平天国の栄光(2)


     ◆

 気が付くと――
 僕は新幹線のホームにいた。

 東北新幹線の先頭車両が、僕の目の前にあった。

 いつか、みたはずの光景だった。
 が、しかとは思い出せない。
 つい最近のようにも、ひどく昔のようにも思えた。

  第15話 再び、東京駅の11番ホームへ(1)


     ◆

「正直に云うとね、自分のことは、どうでもいいと思ってる。むしろ、別のことが気になっててね」
「別のこと?」
「たぶん、きみと同じだよ」

 康子の小さな目が大きく見開かれた。

「きみは知りたがっている――なぜ、康善が姉と通じたか――そして、なぜ、きみを裏切ったのか」

 康子は唇を噛んだ。
 その動揺が、なぜか、手にとるように伝わってきた。

  第16話 再び、東京駅の11番ホームへ(2)


     ◆

 東北・上越新幹線のホームの上で――
 神咲康子(かんざきやすこ)は、男の背中を見送った。
 かつての自分の側近で、今は謀叛の廉(かど)で罪人となった男の背中を――である。

 その背中が人集(だか)りに埋もれると――
 康子は、溢れ出る涙を、もう一度、拭った。

  第17話 終話にかえて



 あとがき(2006年12月、記)



 目次
 第1話 東京駅の11番ホーム
 第2話 桜の話
 第3話 場の話
 第4話 康子(1)
 第5話 康子(2)
 第6話 記憶
 第7話 ゴーレムの横顔
 第8話 君主が女優を兼ねるとき
 第9話 人の心を喰う
 第10話 遺骸
 第11話 温湯浸(1)
 第12話 温湯浸(2)
 第13話 太平天国の栄光(1)
 第14話 太平天国の栄光(2)
 第15話 再び、東京駅の11番ホームへ(1)
 第16話 再び、東京駅の11番ホームへ(2)
 第17話 終話にかえて

 
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