「ゴーレムを知ってるかい?」
と、僕が尋ねると――
康子は怪訝な顔をした。
「外国のおとぎ話に出てくる巨人だよ。土の塊で、できている――」
と付け足すと、
「ああ――ゴレムね」
と頷いた。
喫茶店での会話である。
この日は、いつもの「カフェの心象風景」ではなくて――
駅前の喫茶店だった。
「そのゴーレムが、どうかしたの?」
との問いに、
「いや、別に……」
と、僕は答えた。
「……ただ、可哀想なヤツだな、と思って――」
「なぜ?」
「だって、人間なんかに命を吹き込まれ、しかも最後は人間の都合で土に帰された。可哀相じゃないか。彼にだって心はあったろうに――」
康子は微笑(ほほえ)んだ。
「なぜ、ゴーレムに心があったと、あなたは思うの?」
「命があったんだ。心があったって、おかしくはないだろう?」
「命があるからといって、心まで宿るとは限らない」
「それは、そうだけど――」
僕は背もたれに寄りかかって云った。
「――あいにく、僕は唯心論者でね。野に咲く菜の花にも心があると思っている」
康子の微笑は乱れない。
「その菜の花の心は、何が生み出しているの?」
「菜の花の命だよ」
「では、命が心を生み出しているというわけ?」
「そうだよ」
「面白い考え方――」
康子は口元を尖らせた。
それが癪に触ったので、
「ご大層なことを云ってるつもりはないさ」
と抗議をすると、
「そうなの?」
と云う。
「どうせ、心のことは、きみの方が詳しいんだろ? 何しろ、人の記憶をいじるくらいだからね」
康子は苦笑した。
「まだ、怒っているのね」
「別に怒ってないさ」
康子は、ジャスミンの紅茶を音もなくすすった。
僕も、ウィンナー・コーヒーをすする。
「――たしかに、私は記憶を操作する。けれど、記憶が操作される経緯(いきさつ)は、わかっていない。もちろん、心が生み出される仕組みも、わかっていない」
「なのに、きみは記憶を弄(いじ)れるのか?」
康子は身を引き、窓の外を眺めた。
パラパラと音がする。
通り雨だ。
道ゆく人が、足早に駆けていく。
「こう云えば、伝わるかしら――」
康子は、僕の方に向き直った。
「あなたが精神科で処方してもらっている薬があるでしょう?」
「あるね」
「あの薬が、なぜ、人の心に作用するのか――あなたは考えたことがある?」
不思議なことを云う。
精神科で処方される薬は、「抗精神病薬」とか「向精神薬」とかという。
心に効く薬など、さぞかし珍しいに違いないと思いきや――結構、ありふれたものらしい。心臓や腎臓の薬などと並んで何種類も紹介されている。
もちろん、僕自身は、
――なぜ、人の心に作用するのか?
など、考えたことはない。
けれど、そんなことは、医者たちが、とっくの昔に考えているに決まっている。
ところが、
「そうではない」
と、康子は云う。
薬が、なぜ、人の心に効くのかは、少なくとも心臓や腎臓ほどには、わかっていない。
が、妙に効く。
だから、使っている。
「それだけのこと――」
と、康子は云う。
「ちょっと信じられないな。あれだけ、たくさんの本が書かれているというのに……」
「あなたの云う本は、多分、薬が、どう効くかについて書いてある。どう効くかということと、なぜ効くかということとは、違う」
「どう違うんだい?」
「なぜ効くかを知るためには心の仕組みがわかっていないといけない。けれど、心の仕組みをわかった者はいない。この先も、おそらく、わかる者は出てこない」
「きみのような魔術師であってもかい?」
「私だって、無知で無力な一人の存在にすぎない。私は、精神科医が薬を処方するように、記憶を操作している」
康子は窓の外に視線を流した。
通り雨は、早くも小降りになっていた。
「でも、きみは、たしかに僕の記憶を操作した。あれは完璧だったよ。僕は、本当に自分を見失ったからね」
「ごめんなさい」
と、康子は応じた。
もちろん、抗議をしているわけではない。
それは康子もわかっている。
わかっていながら、
「埋め合わせはしようと思っている。何でも云って――」
と苦笑した。
「本当に何でもいいのかい?」
と念を押すと、
「いい」
と云う。
「じゃあ、僕は、きみの横顔が知りたい」
と、僕は云った。
◆
「横顔?」
「プロフィールだよ。その人の意外な側面――例えば、普段、どんなところにいて、どんな人たちと、どんな風に暮らしているのか――プライベートと云ってもいいね」
「なぜ、そんなことが気になるの?」
「だって、きみは、そういうことを話してくれないじゃないか――もう随分と長い付き合いになるのに……」
「そんなに気になる? 私のプライベートが?」
「なるね。人は横顔まで含めて、人だからね」
康子は天井を見上げた。
そして、しばらく思案顔をしたあとで、呟くように答えた。
「……一人、暗がりの中で、ひっそりと眠るように暮らしている――」
「そうなのか?」
「――と云っても、多分、信じないでしょうね」
康子は笑った。
いたずらっ子のようだった。
「たしかに、信じないね」
と、僕が応じると、
「では――」
と、康子は云った。
「――巨大な宮殿の中で、大勢の官吏たちに囲まれて、日々、政(まつりごと)に明け暮れている――と云ったら?」
「どちらかというと、そっちを信じるね」
と、僕は笑った。
もちろん、苦笑だった。
もうヤケッパチである。気にしてもしょうがない。
(また、いつもの煙幕が始まったぞ)
くらいに思っていた。
が、
「――いいでしょう。今度、私の横顔をみせようと思う。いずれ、隠すほどのことではないのだから――」
康子の笑みは、これまでの笑みとは違っていた。
◆
その夜――
夢をみた。
僕は学校の教室にいる。
級友たちに囲まれている。
この光景を、僕は知っている。
初めて精神科に連れていかれたときと、よく似ていた。
級友たちの目は脅えていた。
すぐに担任がやってきて、僕の右腕をガシリと掴んだ。
隣のクラスの担任もきて、僕の左腕をガシリと掴んだ。
校庭に連れ出された。
朝礼台の前には、大勢の生徒たちが整列していた。
最初は、たしかに生徒たちだった。
が、次第に格好が変わっていく。
ガクランが官服に――
セーラー服が戎装に――
僕は、朝礼台の真ん前に突き出された。
両脇の教師たちは、いつの間にか、教師たちではなくなっていた。
古代中国の将軍たちのようである。
顔には幾筋ものシワが刻み込まれ、白い髭が豊富に蓄えられている。
もちろん、見覚えのない顔だ。
見上げると、朝礼台はなかった。
そこは校庭ではなかった。
天井は遥か上方に霞がかかり、壁は四方で揺れている。
(蜃気楼か?)
と、僕は思った。
後ろを振り向き、ギョッとした。
何百、何千という人々が、僕を背中を注視していた。
竜の体躯を象った鎧を纏う者――
シンプルなデザインの朝服を纏う者――
どれも漢文の教科書などでみたことのある服装だった。
将軍たちが、僕の髪の毛を掴み、僕の顔を宙に据えた。
突き出された先には、校舎ほどの高さあろうかという巨大な台(うてな)が設(しつら)えられていた。
台の上には、カーテンのようなものが引かれている。
絹のカーテンである。
玉座だ。
あの奥に、誰か偉い人が座っている。
古代中国の皇帝が座っていたとしても、不思議ではなかった。
「痴(し)れ者が――」
と声がした。
少女の声だった。
絹のカーテンの向こうからだ。
最初は僕に向けられた言葉だと思った。
が、違った。
将軍たちが僕の腕を離し、床に平伏した。
少女の声は穏やかだ。
「誰(たれ)が、かように引っ立てよと申したか――」
聞き覚えのある声――
「埋め合わせどころではなくなった――」
と、少女は云う。
絹のカーテンが開いた。
玉座の主は――
――康子
やはり、きみか――
◆
康子は、長い階(きざはし)を一段ずつ降りてくる。
装束は豪奢を極め、みるからに重そうだった。
それを、ものともせず――
康子の足取りは落ち着いていた。
康子が階を降り始めると――
僕の背後で、衣の擦れる音がした。
何百、何千もの人々が、一斉に跪く音だった。
康子は笑っている。
笑みは、いつものように穏やかだ。
喫茶店でみせる笑みと、少しも変わらない。
「気分はどう?」
と、康子は訊いた。
「これは夢かい?」
と、僕は問うた。
「わからない――」
と、康子は首を振る。
「――夢と現(うつつ)は相対だから――」
「僕には夢にしか思えないよ」
「では、そうなのでしょう。仮に、そうでなかったとしても、大した過ちではない」
「真理など存在しないという話かい?」
「そう――真理らしきものはあっても、真理は存在しない――そういう話――」
康子は、自分の頤(おとがい)に、右の人さし指を添えた。
康子の袖がフワリと揺れた。
近くでみると、思ったよりも地味な衣装だった。
東洋風とも西洋風ともとれる衣装である。
絹のようで、絹ではない。いかにも軽そうな素材で編まれている。
きっと、天女の羽衣は、こんな感じに違いない。
「ゴーレムの話を覚えている?」
と、康子は訊いた。
「ああ――」
と、僕は応じた。
康子は云う。
「ユダヤ伝承の告げるところによれば、ゴーレムが生を得たのは、額に『真理(emeth)』と書かれた羊皮紙を貼られたことによるとされる。けれど、最期は『真理(emeth)』の綴りの頭文字が掻き消され、『死(meth)』を得た」
また、難しい話を始めた。
サッパリである。
本当は――
康子の衣装に気をとられ、話を、よくきいていなかった。
それを見透かしたかのように、康子は云った。
「紙に書かれた真理というものは、自我の崩壊と紙一重かもしれない、ということ――」
「つまり、人はゴーレムだっていうのかい?」
康子は、音もなく立ち位置を変えた。
若い娘の顔が僕の左頬に寄って、囁く。
「――あなたは、自分がゴーレムでないと云い切れる?」
「何だって?」
僕は問い返した。
「自分が土の塊でないと云い切れる? 誰か他の者によって、命を吹き込まれた存在でないと、云い切れる?」
言葉を失った。
そんなこと、考えたこともない。
康子の顔が遠ざかった。
なおも康子は云う。
「きっと、ゴーレムだって自分が何者かは、わかっていなかった。自分の額に貼られた『真理』の文字が、果たして、彼の目には入っていたかどうか――」
康子の声は、たおやかだ。
「僕はゴーレムなのかい?」
「そうは云っていない。ゴーレムにも横顔はあると云っている」
「横顔?」
「あなたの云う横顔――ゴーレムの意外な側面――例えば、普段は、どんなところで、どんな人たちと、どんな風に暮らしているか――横顔こそが、存在に命を吹き込み、存在の心を象(かたど)っていく。ユダヤ伝承のゴーレムだけが、ゴーレムではない」
「僕はゴーレムにも心はあると云った。覚えてるかい?」
「もちろん――」
「あのとき、きみは疑わしい声をあげたよね?」
「そうだった?」
「きみは、僕の考えに本当は賛成なのか?」
「あなたは、命が心を生み出すと云った。私は、命がなくても心は宿ると思っている。紙に書かれた真理にだって、心は宿る。そこに横顔が書き添えられるだけで、人は、人たりうる――」
康子は微笑(ほほえ)んでいる。
僕を諭しているようにも、からかっているようにもみえた。
(いつか酷い目に遭わせてやりたい――)
康子のことを、である。
なぜか、そう思った。
◆
目が覚めた。
自宅のベッドで横になっていた。
◆
翌朝、「カフェの心象風景」にいくと――
康子が一人で店番をしていた。
「カジワラさんは?」
と訊くと、
「今日はお休み――」
と云う。
「きみが店番をする日もあるんだね」
と云うと、
「ごく、たまにね――」
との返事だった。
出し抜けに訊いてくる。
「私の横顔は、どうだった?」
「え?」
と訊き返すと、康子は笑った。
「みたでしょ? 昨夜(ゆうべ)――」
(やっぱり、夢じゃなかったか――)
と、僕は思った。
もう、驚かない。
多分、そうではないかと思ってはいたんだ。
つまり、
――巨大な宮殿の中で、大勢の官吏たちに囲まれて、日々、政(まつりごと)に明け暮れている。
というのが、康子の横顔なのである。
「結構な横顔だね」
と、僕は答えた。
「祈っていることよ」
康子は云った。
「何を?」
「あのようなところで、私と、あんな風に会うことが、二度とないように――」
「あのようなところ?」
「ここのこと――」
突然――
巨大な空間が広がった。昨夜、夢にみた大広間である。天井に霞がかかり、四方の壁は蜃気楼で揺れている。
ただし、昨夜と違い、大広間は無人であった。
康子が〈場〉を張ったらしい。
その広さに、僕は改めて圧倒された。
康子は、すぐに〈場〉を畳(たた)むと――
黙ってアメリカン・コーヒーを差し出してくれた。
「私も、時々、ふと思う……」
と、康子は云った。
「どんなことを?」
と問うと、
「――もしかして、ゴーレムなのかもしれないって――」
と云った。
「僕が?」
「いえ、私が――」
「きみが?」
康子は、うつむいた。
何かに怯え、惑っているような感じがした。
そんな康子の横顔をみていたら――
何も訊く気にはならなかった。
訊くのが恐かった。
対象のない怖れを、僕は感じとった。