第8話 君主が女優を兼ねるとき


 ――君主は庭師がごときもの――

 との考え方がある。
 なにかの物語で、どこかの王が、云っていた。
 曰く、

 ――君主とは、庭師が蟲を駆除するように、佞臣(ねいしん)を排除する者である。

 と――

「――で、実際のところは、どうなんだい?」
 と、康子に訊いてみる。

 だって、康子も君主なので――

 すると、康子は、
「当たっているところもあるけれど、私の意見は少し違う」
 と云った。

「じゃあ、きみは、どんな意見なんだい?」
「君主が常に庭師でいては、シャショクが暗(くら)む」
「シャショク?」
「国のこと――よい君主とは、社禝(しゃしょく)を明るく保つ者――」

 気負った様子はなかった。
 だから、言葉に説得力がある。

 この日、康子は「カフェの心象風景」で店番をしていた。
 白いエプロンが似合っていた。

 あの夜、大広間でみた豪奢な衣装も似合っていたが――
 ここでみるウエイトレスの姿も、よく似合っている。

 とはいえ――
 喫茶店で店番をしたり、大広間に君臨したり――
 実に忙しい身であることだ。

     ◆

 即位は16歳だった。

「なりたくて、なったわけではない」
 と、康子は云う。

「じゃあ、なんでなったんだい?」
 と訊くと、
「周りが決めたことだから――」
 康子は、つまらなそうに首を振った。

「即位は生まれたときから決まってたんだろう」
「そうでもない」
「え? 君主って、そういうものじゃないのか?」
「違う――少なくとも私の場合は違った」

 そもそも――
 康子が、どういう君主かというと――
〈場を張る者〉たちの君主である。

     ◆

〈原母場(げんもば)〉というものがある。
 とてつもなく巨大な〈場〉のことだ。

「人が張る〈場〉とは比べ物にならない」
 と、康子は云う。

「どれくらい、違うんだい?」
 と問うと、
「地球儀と地球くらい――」
 と云う。

〈原母場〉は深遠だ。
 さながら、個別の宇宙のようでもある。

 が、僕たちの宇宙とは繋がっていない。
 この世の果てを、いくら駆け巡ってみても――
 僕たちが〈原母場〉に辿り着くことはできない。

「〈場〉の世界に至るのは〈心〉だけ――身は決して至ることはない」
「心だけ?」
「そう――〈場〉の世界は思念の世界――こちらの物理の及ばぬところ――」

 僕は苦笑した。
「きみの云うことは、いつも難しい」

「何度か行くうちに、わかるようになる」
「何が?」
「〈場〉の世界が、どういうものか――」
「何度も行けるようなところなのかい?」
「あなたなら行ける」
「僕が?」
「あなたは〈場を感じる者〉――〈場を張る者〉の力を借りれば、いつでも〈場〉の世界に至る。現に何度も至っている」
「本当かい?」
「本当――ただ、そのことに気付いていなかっただけ――」

〈原母場〉は無数にある。
 僕が知らず知らずのうちに訪ねていた〈原母場〉は、東涯宮(とうがいきゅう)が治める世界らしかった。

 東涯宮というのは、日本語を母語とする者たちが設立した行政機関である。
 設立は、およそ2000年前――ちょうど日本史の黎明期にあたる。

 偶然ではないだろう。
 こちらの世界で日本国の原形が出現したときに――
 あちらの世界でも、東涯宮の原形が出現したに違いない。

「不思議な気分だよ。きみたちの世界でも、日本語が使われているなんてね」
「あなたこそ、不思議なことを云う」
「なんでだい?」
「人は言葉なしでは生きられない。そして、言葉は容易には成り立たない。二つの世界とで言葉が共有されることは、ごく自然なことだと思うけれど――」
「共有されているのは日本語だけかい?」
「まさか――英語、ロマンシュ語、ラテン語、古代ケルト語――ありとあらゆる言葉が共有されている」

 東涯宮の主(あるじ)が、康子である。
 一千万人以上の〈場を張る者〉たちを、康子は一手に束ねている。

 康子みたいな魔術師が一千万人以上もいるなど、すぐには信じがたい。
 が、
「実際には、その数倍はいる」
 と、康子は云う。

「東涯宮領に住まう全ての者が、私に忠誠を誓っているわけではない。例えば、この前の老人――」
「老人?」
「あなたを連れて行こうとした――」
「ああ……」
 恰幅の良い老人だ。康子のことを、

 ――人の心を喰う。

 と評した。

「彼は私に忠誠を誓ったわけではない。だから、私によって安寧が保証されないかわりに、彼は私の都合を考えずに振る舞ってもよい」
「あの老人は、きみを恐れていたね」
「私には東涯宮に忠誠を誓った者たちを守る義務がある。彼らとの間に諍(いさか)いを引き起こせば、東涯宮は武力に訴える」
「それで、あの老人は、きみを恐れていたのか――」
「東涯宮の秩序を乱す者は、決して許されない」

 康子には欠けているものがある。
 生活感だ。

 それが、なぜのか、ずっとわからなかった。
 が――
 ようやく、わかった気がする。

 それは、康子の職分に依るようだ。

 君主の玉座は、生活感を磨り減らす。
 以前、康子は

 ――私には敵が多い。

 と云った。

 君主ならば無理もない。
 君主は、多くの臣下に囲まれつつも、その内実は孤独である。
 臣下というのは、せいぜい、

 ――敵ではない。

 といった程度なのだ。
 だからこそ、

 ――君主は庭師――

 の思想が生まれる。

「君主の立場が嫌になったりはしないのかい?」

「なぜ?」
「だって、こちらの世界では、専政君主制は、とっくの昔に否定された。人は皆、平等で、誰もが政治に参加でき、誰もが国家元首になれる、ということになっている。きみも知らないわけじゃないだろう?」

 康子は、いつものように穏やかに笑った。
「たしかに、知らないわけではない――」

「――けれど――」
 と、康子は云った。

「――人は、〈場〉の世界では平等ではない」
「平等ではない?」
「あらゆる点で、平等ではない。例えば、寿命に差がある。数十年で滅ぶ者があれば、数百年を生きる者もある」
「数百年?」
「数百年を生きる者は、数十年で滅ぶ者よりも、重い責任を負う。そういう者が東涯宮の重職につく。東涯宮の主(あるじ)は、その最たる者で、私の前任は在位800年を数えた。少なく見積もっても、その倍は生きている」
「きみも、そんなに生きるのか?」

 康子は澄まして頷いた。
「おそらくは……」

 僕は恐る恐る尋ねた。
「きみは、いったい幾つなんだ?」

 康子は、穏やかな笑みを浮かべたままで云った。
「私は、まだ30年も生きていない」

 ホッとした。

 ――300歳

 などと云われたら、どうしようかと思った。
 が……。

 ――30年も生きていない?

(嘘だろう?)

(だって、僕らは知り合って20年……?)

     ◆

 不意に――

「あなたのことを見直した」
 と、康子が云った。

「え?」
 と問い返すと、
「私の立場を、そんなふうに気遣ったのは、あなたが初めて――」
 と云う。

「そんなに珍しいことなのかい?」
「珍しい」
「僕は当然のことを気遣ったまでだよ。だって、僕なら、そんな立場は、死んでもイヤだからね」

 康子は声に出して笑った。
 朗らかな笑い声だった。

「どうやら、あなたは君主の本分を正確に理解した。専政君主制の欠点は、人々の不満を、ときに力で捩じ伏せなければならないところにある」
「きみも、ときには力で捩じ伏せるんだね」
「できれば、そういうことはしたくない」
「何か工夫をしているのかい?」
「人々の不満を、なるべく小さく保つように工夫している」
「どうやって?」
「そこが難しい。思いきった工夫を採っている」
「どんな工夫なんだい?」
「例えば、こんな工夫――」

     ◆

 気が付くと――
 僕は畳の上の座っていた。

 畳といっても、室町期の書院造とは、かなり違う。
 板の間に二枚ほどが敷かれている。

 僕から少し離れたところには、布が掛かっていた。
 薄紫色のグラデュエーションが鮮やかである。

 その布の手前に――
 女性が座っていた。

 あちらを向いているので、顔はわからない。
 が、十二単を纏っている。平安期の女流貴族であることは自明であった。

 それで、あの布の壁が、几帳(きちょう)であるとわかった。
 几帳は、平安期の女流貴族が用いた移動式の壁である。

 どこからともなく、匂いが漂っていた。
 色気があって、品のある匂いである。

 おそらくは、香(こう)だ。
 この女流貴族が薫きしめたものであろう。

 不意に――
 女流貴族が呟いた。
「御自分でさえ、お決めになれないものを、どうして私(わたくし)などが決められましょう」

 康子の声である。

(またか)
 と思った。
 またしても、康子が〈場〉を張ったのである。
(いったい、どういうつもりだ?)

 はたして――
 女流貴族が振り返った。
 髪型が変わっているので、すぐには、わからなかったが――間違いない。康子である。

 が、その顔は、僕が知っている康子よりも、やつれていた。
 いつもと様子が違うのである。

 今の康子は、康子であって、康子ではない。

 そういえば――
 どことなく、老けている。いつもの瑞々しさが影をひそめていた。

 その康子が、
「そろそろ御支度を――」
 と云った。
「――口さがない者たちが騒ぎ立てます」
 と――

「御支度って何の……?」
 僕の思念が初めて声になった。

 康子は悲しげにうつむいた。
「お忘れにござりまするか? 宮さまのところへお渡りになるための御支度でござります」
「宮さま?」
「殿は院の姫君を御降嫁たまわりました」
「え?」

 康子は笑っている。
 もう、いつもの康子に戻っていた。

 顔が、みるみるうちに若返る。
 不思議だ。

「『若菜上』――」
 と、康子は云った。

(ああ――)
 と思った。

『源氏物語』の一場面である。
 主人公・光源氏が女三宮を娶るくだりだ。
 紫上という妻がありながら、朱雀院の第三皇女を娶ってしまう。

 康子は紫上に扮していた。
 夫の体面を慮り、女三宮の対(たい)へ渡るように説得する場面である。

「何の冗談だい?」
 と、僕が問いつめた。
「気に触った?」
 康子は、素知らぬ顔で訊き返す。

「いや、もう慣れたけど……」
「これが、私の工夫――」
「え?」
「人々の不満を小さく保つ工夫――」

 わけがわからなかった。

「いったい、どういうことだい?」
「私が張ったのは舞台の〈場〉――光源氏の住まい、六条院の〈場〉――『若菜上』に描かれている」
「そんな〈場〉を張ることもできるのか?」
「もちろん――」
「何のために?」
「芝居のため――」
「芝居?」
「今は、この〈場〉に、あなたと私しかいないけれど、これを何百、何千という人々に開示することができる」
「開示? なんで、そんな……?」
「君主の女優を愛でてもらうために――」
「君主の女優?」
「君主が女優を兼ねるとき、社禝は平らかに治まり得る」
「なんだって?」
「君主は社禝の主役を務めている。ちょうど女優が芝居の主役であるように――私が芝居で女の迷いを晒すから、東涯宮の社禝は安泰たり得る」
「何を云ってるんだい?」 

 ――ふふ。

 と、康子は笑った。

「今のは結果論――私は、お芝居が好き――だからこそ、夢中になって、人の目を盗んで、演(や)っていた。そうしたら、いつの間にか政(まつりごと)も好転した」
「なんで、好転したんだい?」
「いつの世も、争いは男が起こすもの――けれど、君主が女優なら、争いは起きにくい。女優の君主にとって代わろうとする者など、ほとんどいない」
「つまり、きみは女優なのか?」
「そうよ。気付いていなかったの?」
「当たり前だ。気付くわけがない」
「いつだったか、私のことを指して『きみは、毎日が春みたいだね』などと云わなかった?」

 覚えている。
 在原業平の歌に触れたときだ。

 ――人に二度の春はやってこない。

 という話をした。

「女優は春を売る――てっきり嫌味を云われたのだと思った」
 康子は笑った。

 多分、苦笑だった。

     ◆

 康子が六条院の〈場〉を畳むと――
 僕らは「カフェの心象風景」に戻っていた。

「きみは、実に不思議な女性だよ」
 ときに喫茶店で店番をし、ときに大広間で君臨をし、ときに舞台で芝居を打つ。
 こんな女性を、僕はみたことがない。

 が、
「驚くにはあたらない」
 と、康子は説く。

「喫茶店の店番は、ともかく――」
 康子は、グラスのコップを一つひとつ丁寧に拭いながら、云った。
「君主も女優も、本質は同じと思っている」

「同じ?」
「社禝を維持するか、芝居を維持するか――社禝も芝居も実態はかわらない。それをわからない君主が多すぎたから、民主制にとって代わられた」
「君主が女優だなんて、ずいぶん謙虚な君主だね」
「それは違う」

 康子の瞳は、山路に湧く泉のように澄んでいた。

「君主が女優に同じなのではなく、女優が君主に同じなの。女優は、君主のように、驕慢で尊大でなければ務まらない」

(なるほど――)
 と、僕は思った。

 康子に生活感がないのは、そのせいもあるだろう。


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