第9話 人の心を喰う


 真に無惨をみたいなら――
 世にも可憐な生娘(きむすめ)に――
 戦装束(いくさしょうぞく)まとわしめ――
 思うさまに嬲るがよい――

 そんな生娘に、

 ――お前なら、なれる。

 と云われたことがあるそうである。

 康子のことである。

「誰だい、そんな酷いことを云ったのは?」
 と訊いてみたのだが――
 首を横に振るだけであった。

 口元は艶やかに、ほころんでいる。

「そんなことを云うヤツの話なんか、まともにきく必要はないよ」
 と云うと、
「なぜ?」
 と云う。

「だって、そんなことを云うヤツは、人非人(にんぴにん)に決まってるじゃないか?」
「そうかしら?」
「そうさ」

 康子は納得がいかないようだった。
「なぜ、そう云い切れるの?」

「なぜって云われても……」
「あなたも男でしょう?」
「男だね――」
「――なら、あなたの心にも闇はあるはず――男が抱く心の闇が――」

 決めつけられたので、ムッとした。

「男は、みんな人非人だって云いたいのかい?」
 と抗議をすると、
「そうではない――」
 と笑った。
「――あなたの闇を、私はみないで済んでいる。けれど、みないで済んでいる――ただ、それだけのこと――」

 その笑みは予想していなかった。
 笑った康子をみていたら、ムッとした自分が子供じみて感じられた。

「男というものは――」
 と、康子は云う。
「――結局、女を辱めることでしか満たされない」

「酷い云い方だな」
「そう思うようになる。幼い頃から女優をやっているとね――」

 康子は「女優」を自称する。
 そんな女は、そうはいないに違いない。

 が、康子は、事も無げに自称する。
 それが、また、よく似合った。ごく自然な自称であった。

 ――君主が女優を兼ねるとき――

 と、康子は云う。
 実態は違う。

 ――女優が君主を兼ねている。

 であった。
 魔術師が女優をやっていると考えるから、おかしくなる。
 女優が、たまたま魔術師だった。

     ◆

 TVで下品な映画をみていたら――
 ちょっと気持ちがクシャクシャしてしまったので――
 レンタルDVDショップへいくことにした。

 街を歩いていると――
 気が付いたときには、隣に康子が並んでいた。
「どうしたの? 恐い顔をして――」
 などと訊く。

「そっちこそ、どうしたんだい?」
 と問うと、
「あなたの姿をみかけたから、ついてきたの」
 と云う。

「それなら、もっと早く声をかけてくれよ」
「だって、今日のあなたの顔、恐かったんだもの」
「恐い? きみに恐いものなんてあるのかい?」

「もちろん――」
 と口元を緩める。
「――恐いものだらけ――」

「嘘だろう?」
 と切り返したが――
 康子は、それ以上は、のってこなかった。
 代わりに、
「今日は、どこの喫茶店に入るの?」
 と問う。

「残念ながら、そんな気分じゃないんだ。TVで映画をみていたら、急に落ち着かなくなってね」
「どんな映画だった?」
「お姫様が騎馬武者に連れ去られていく映画だよ」
「それで落ち着かなくなったの?」
「ああ――」

 気持ちがクシャクシャというのは、ハラワタがムスムス蒸れてくる感じである。
 脳裏に煙りが立ち込める感じと云ってもいい。

「だから、口直しに純愛映画のDVDでも借りようかと思ってね」
「効果があるかしら?」
「試してみるさ。どうせ、本なんか読める気分じゃないんだし……」

 気付いたら、レンタルDVDショップの前に着いていた。

「どうぞ――」
 と云って、康子が扉を指し示した。

     ◆

 DVDの詰め込まれた棚が狭い店内で押し合っている。
 その隙間を、僕らは進んだ。

「きみは、僕らの世界でも女優なのかい?」
「『僕らの世界』?」
「きみら魔術師の世界じゃなくて、こちらの世界という意味だよ」
「なぜ、そんなことが気になるの?」
「だって、もし、ここに、きみの作品があるんなら、みてみたいと思ったからさ」

 康子は笑って首を横に振った。
「残念だけど、ここでは、みられない」
 と云う。

「じゃあ、どうすれば、みられるんだい?」
「〈場〉の世界にきてもらえば――」
「じゃあ、今度、連れてってくれよ」
「私の演技をみるために?」
「ああ――」
「後悔するかもよ」
「なんで?」
「あなたは私の素顔を知りすぎている」
「素顔を知ってると、何か困ることがあるのかい?」

 康子は答えなかった。

 通路の両側には、おびただしい数のDVDが迫ってきている。
 そのグロテスクな壁に挟まれて、康子は歩いている。

 僕は康子の背中についていった。
 細い背中の柔らかそうな感触が、白いブラウスごしに感じとれた。

 その背中の向こうに――

 ――アダルト・コーナー

 の看板がみえた。

 その看板の下から――
 太った中年男性が、ちょうど何枚ものDVDケースを抱え、出てきたところである。

 康子の細い背中が止まった。
 その背中からは、いかなる動揺も読み取れなかった。
 むしろ、しっとりと微笑んでいるように感じられた。

 不意に――
 康子が僕を振り返った。
「女優の仕事というのはね――」
 と云う。

 僕は康子の視線を正面に受け止めながら、康子の次の言葉を待った。
 康子は云った。

「人の心を喰う仕事――」

(また難しいことを云い始めたぞ)
 と思う。
 しかも、レンタルDVDショップの中などで――

 でも――
 実は、そうやって抽象的な言葉を投げかけてくる康子が、そんなに嫌いではない。

(むしろ、好きなんだろうな)
 だから、ついつい相手にしてしまう。

「きみの云いたいことは、少しはわかるよ」
 と、僕は応じた。

「本当に?」
「『人の心を喰う』って云うのは、つまり、男の気持ちを手玉に取るってことだろ?」
「そうではない。『人』というのは物語の中の人――」
「物語の中の?」
「物語が描き出す虚構の人物――」
「じゃあ『喰う』っていうのは?」
「虚構の人物に成りきるということ――その虚構の人物の心を飲み込み、噛み砕き、擦り潰し、自分のものにする――つまり、喰う――」
「なんだか恐ろしい云い方だな」
「当然でしょう」
「当然?」
「あなたは、人がモノを喰うところを、みたことがある?」
「もちろん、あるさ」
「じっくりと、みたことがある?」
「じっくりと?」

 康子は横を向いた。
 横顔の康子は、どこか冷たい。

 その冷たい横顔が口を開いた。

「今度、じっくりと、みてみるといい」
「なんで?」
「多分、気味が悪くなるから――」

 そう云われると――
 そんな気もしてきた。

 昔、人が飯を喰うシーンだけを、延々と流す映画があった。
 口元だけを映す。顔や手は映さない。食べ物が口に吸い込まれていく様子だけを映す。
 たしかに、気味が悪かった。

「人は、モノを喰うときに、卑しくなる。けれど、モノを喰わなければ、生きてはいけない。それが人の悲しみ――」
「それは、あくまで食べ物のことだろう? 台本に書かれている役どころと一緒にするのは、どうかと思うなあ」
「そうかしら。私には大した違いには思えないけれど――」

 そう云えば、いつかの老人が云っていた。
 康子は人の心を喰う、と――
 あの老人は、このことを云っていたのか。

 が、
「いいえ」
 と、康子はソッポを向いた。
 不機嫌そうに、うつむいている。

「あの老人は、違った意味で云ったはず――」
「違った意味?」
「もっと浅ましい意味――」
「どういう意味だい?」

 が、康子は答えない。
 答えたくなかったのであろう。何か都合が悪かったに違いなかった。

 答えないものは仕方がない。
 僕は話題を変えた。

「人はモノを喰う――それが人の悲しみだと、きみは云ったね」
「ええ――」
「でも、僕はそうは思わない」

 康子は僕の方を振り向き、小首を傾げた。
「では、どう思うの?」

「僕には、悲しみじゃなくて喜びに思えるんだ」
「なぜ?」
「だって、食べてるときは純粋に嬉しいじゃないか」
「そう?」
「きみは嬉しくないのかい?」
「いいえ、嬉しくないことはない」
「それでも、きみは食べることが悲しみだと云うのかい?」
「ええ――」
「なんで?」

 康子は云った。
「嬉しいから――」

「なんだって?」
「嬉しいから悲しいの。モノを喰い、悦ぶ自分が卑しいから、悲しい」

 康子らしくない云い草だと思った。
 卑屈すぎる。僕の知る康子とは、微妙にずれていた。

 康子が通路脇の棚に手を伸ばした。
 1枚のDVDを取り出している。

 ――新皇妃の末路

 というタイトルだった。
「新皇(しんのう)」とは平安期の武将・平将門のことである。京の朝廷に傲然と弓を引いた坂東武者であった。
 弓を引いた結果、兵が差し向けられ、容赦なく討伐された。愛妾の多くも、虐殺の憂き目にあったという。

「あなたがみた映画は、多分これね」
 と、康子が云った。

 そうかもしれなかった。
 パッケージに書かれた梗概によると、映画『新皇妃の末路』の物語は、ヒロインの新皇妃が嬲り殺しに合うところで、終わっている。
 感じの悪い終わり方だと思った。僕が先ほどTVでみた映画と、よく似ている。

「そんなに眉をひそめることはない」
 と、康子は云った。

「どういう意味だい?」
「物語は、しつらえられたもの――作家が女を生み出し、その女の心を喰ってみせた女優がいる。それ以上でも、それ以下でもない」

「ずいぶん思いきった割り切り方だね」
 と、僕は苦笑した。

 が、康子は笑わなかった。
 あい変わらず、冷たい横顔をみせている。

 何となく気になったので――
 訊いてみることにした。

「きみも、こういう役を演じてみたいと思うのかい?」

 康子は、僕を振り返ると、上目遣いに僕の目をみた。
「恋は、夢見心地に、まどろむ悶え――」

 艶かしい気色が立ち上っていた。

「どういう意味だい?」
 と問うと、
「女優の業(ごう)――」
 と云う。

「女優の業?」
「純情可憐の女を演(や)るならば、被虐無惨の女も演ってみたい――それが女優の業というもの――」

 なるほど――
 これは大変だ。

 たしかに、僕は康子の演技をみないほうが良さそうである。
 康子の穏やかな顔をみているとき、

 ――いつか酷い目に遭わせてやりたい。

 と感じたことがあった。
 康子の顔には気品がある。その気品は、男を変な気持ちにさせてしまう気品だった。
 そういう康子の演技を一度でもみてしまったら――
 僕は自分の理性に自信を持てなくなるに違いない。

「獣(けだもの)たる男の性(さが)を否定しても始まらない」
 と、康子は云う。

「どうしてだい?」
「人の歴史の大半は、獣たる男の性が編んできた。そこを否定するから、歯車が狂いだす。なすがままに受け入れざるをえない」
「だから、きみは君主を務めるのか、そのほうが争いが少なくて済むから――」

 いつだったか、康子は云っていた。

 ――私が芝居で女の迷いを晒すから――

 と――
 だから、社禝は安泰たり得るのだ、と――
 男たちの争いの芽を、康子が未然に摘み取っている。

 ――女優の身で購(あがな)っている。

 と云っても良さそうだ。

「――けれど、それは、かえって危険な綱渡りだと云う人もある」
「かえって危険?」
「真理の一面を突いていると、私も思っている」
「どういう真理だい?」

 康子は『新皇妃の末路』のパッケージ写真を見下ろした。
 衣装の乱れた女優が、大地に横たわっている写真である。

「女優の君主ほど、纂奪しがいのある君主はないかもしれない、ということ――」

 横を向いた康子の頬が、僅かに上気したのを――
 僕は見逃さなかった。

 いや――
 見逃せなかった。

 あのとき――
 康子は、纂奪される君主の女優の心を喰ったのかもしれなかった。


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