第10話 遺骸


 若く美しいということと、強く逞しいということとは――
 本質的に不可分なのだということを――
 康子は感じさせてくれる。

 今さら指摘するまでもなく――
 僕は康子を、若く美しい女性だと思っているのだが――

 康子の美しさには、二種類あると考えている。

     ◆

 一つは人間としての美しさ――
 内面の美しさである。

 それは、おもに言葉による美しさだ。

 康子は言葉を大事にする。
 何かを無造作に口走るということがない。

 康子の言葉には、必ず、何らかの意図が込められている。
 それは、ときに人を傷付け、貶(おとし)めることがあるけれども――
 概して――
 人を守り、慈しみ――
 ときに優しく包み込む。

 康子は、何事かを語るとき――
 口元に微笑を浮かべる。

 それは一見、冷笑にもみえるのだが――
 真に冷笑かどうかは、見る者の心づもりによる。

 僕に云わせれば――
 それは、康子の慈悲が滲み出た笑み――菩薩の笑み、聖女の笑み――であり――
 それが、こちらの心づもりによっては、夜叉の笑みにも、悪魔の笑みにもなる――

 おそらくは――
 そこに他意はない。

 康子とは――
 まず、そうした女性である。

     ◆

 康子の、もう一つの美しさは――
 外見の美しさである。
 人形としての美しさと云ってもよい。

 康子は女優だから――
 我が身を男の視線に晒すことには長けている。

 康子は、その気になりさえすれば、徹底的に人形になり切ることができる。
 自分の人間性を、平気で捨て去ることができる。

 男が女優に何を求めるか――
 康子には、よくわかっているのだろう。

 そこには、迷いが感じられない。
 男の視線に応える自分を、卑屈に思う様子もない。
 むしろ、その視線を逆手にとる。
 康子が人形になり切るとき――康子の理性は研ぎすまされている。

 それに気付かない男は――
 容赦なく煮え湯を飲まされる。

 僕も飲まされた。

 とはいえ――
 そんなに酷い「煮え湯」ではなかったけれど――

     ◆

 その日――
 いつものように「カフェの心象風景」に赴くと――
 店の様子がおかしい。
 酷く荒れていた。

 テーブルや椅子の類いが倒され、食器やコップの類いが割られている。
 床には花瓶の破片が散らかっていた。

 が――
 僕の度胆を抜いたのは、それではない。

 店の内壁に、磔にされたものがある。
 遺骸である。

 白い法衣を纏った――
 女の遺骸であった。

 遺骸はYの字を描いていて――
 鉄鎖が左右の手首を縛めており、女の脇の下を無惨に暴(あば)いている。
 暴かれた脇の下には銀の刃物が突き入れられ、切っ先は背中に飛び出る勢いであった。

 白い法衣の下には、青い革服が透けている。
 法衣も革服も、左右に、はだけられていて――
 剥き出しの胸の膨らみが、赤黒い血の糸を垂らしている。

(無惨だ)
 と思った。

 その女の遺骸は、男の明確な意図があって、そこに晒(さら)されている。
 それを察知することで、僕は、
(無残だ)
 と思った。

 が――
 不思議と、僕の心が揺れることはなかった。
 このときの僕には、それが、なぜか禍々(まがまが)しいものには感じられなかった。
(不埒な男どもがやったこと――)
 と思っただけである。
 その女の顔を確認するまでは――

 確認した途端に――
 声がもれた。

「康子……!」

 前髪が顎先まで垂れていたので、すぐに、それとはわからなかったが――
 無惨な遺骸を晒していたのは、他ならぬ康子その人であった。

 僕が、いかに度胆を抜かれたかは、康子の素性を知る者なら、わかるだろう。
 このように、不埒な男の手に易々とかかるような康子ではなかったはずである。

(なんで、こんなことに……)
 僕は遺骸に取りすがり、血まみれの躰を揺り動かした。

 が、ピクリとも動かない。

 僕は、なす術もなく、ひたすらに前髪をかきあげ、康子の顔立を凝視した。

 少し面長で、小さめで――
 細い眉は形よく、それが苦悶にしかめられ――
 半ば開かれた唇からは、青く透明な液が溢れ出ていた。

(バカな……)
 と思った。

 剥き出しの腑(はらわた)に冷気を吹きかけられた心地がした。

 と同時に――
 その無惨な康子の躰に、僕は、魔の美を感じとっていた。
 男の獣性をけしかける美――である。

 それと相反する美もあった。
 悲の美である。

 一刻も早く磔から解き放ってやり、この腕で力一杯に抱擁してやりたい――
 そんな美である。

 二つの美に挟まれて――
 僕は途方にくれた。
 この世の全てが味気ないものに感じられた。
(生きてたってしょうがない、康子のいない世の中なんて――)

 本気で死ぬことを考えた。

 そのとき――

     ◆

「初めて知った――」
 と声がした。
 背後からである。

 振り返ると――
 康子だった。

「あなた、私のことを、そう呼んでたのね、心の中では――」

 いたって元気そうである。
 カウンターに頬杖を突き、暢気な笑みを浮かべていた。

 慌てて壁をかえりみる。
 無惨な遺骸は、そのままになっていた。

 カウンターに向き直る。
 無邪気な幼天使の笑みが弾けていた。

 今日の康子は若作りだ。
 15、6にしかみえない。

 夏の白いセーラー服を纏っていた。
 群青のスカーフが胸元を華やかに飾り立てている。

 眩しい生と性とが、そこにはあった。

「これは、いったい、どういうことだよ!」
 僕は躍起になって問うた。

 躍起になったのは――
 きまりが悪く、苦し紛れの怒気が込み上げたからである。

(やられた)
 と思った。

 康子の遺骸に思わず取りすがった様子をみられていたのかと思うと、頬から炎が吹き出る。

 それを知ってか知らずか、
「驚いた?」
 などと、康子は問うた。

 頬杖の笑みには、どこまでも屈託がない。
 それが、また癪に触った。

「驚くも何も、きみが本当に殺されたかと思ったよ!」
 と、僕――
「ごめん」
 と、康子――

 僕の声は、ほとんど怒鳴り声だったが――
 康子は、少しも意に介さなかった。

「ふだんは、そうやって『きみ』と呼んでいる。だから、気付かなかった」
「何のことだよ?」

 康子は頬杖を突いたままクスリと笑う。
「あなた、私の骸(むくろ)を指して『康子』と呼んだでしょう?」
「だから何だよ」
「怒らないで――」
「わけを説明してくれよ。きみら魔術師にとっては些細なことでも、僕にとっては、そうじゃないんだから!」

 康子は頬杖を解き、ゆっくりと上体を起こした。
 夏のセーラー服の白色は、夏の入道雲の白色だった。

「私を狙って、狼藉者が押し入って来るときいたので、ちょっと、からかってみたの」
「からかってみた?」
「きりがないから普段は相手にしないのだけれど――たまにはね」
「悪趣味だな」
「それ――否定はしない」

 夏のセーラー服の少女は、冷ややかに笑った。

「――だから、これは何なんだよ?」
 と、壁の遺骸を指し示すと、
「キブンで描いたもの」
 と云う。

「キブン?」
「『祈り』に『文』と書く」
「〈祈文〉か?」
「単に〈祈(き)〉と云うことも多い」
「魔術の呪文みたいなものか?」
「そう思ってもらってもいい――私たちが〈祈文〉で描く事物や事象は〈場〉の世界に実体をもたらす――その骸(むくろ)にも実体があるでしょ?」

 たしかに、実体はある。
 先ほど、取りすがったことを思い出した。

「――だとすると、このカフェは実は〈場〉の世界なのか?」
「あれ? 気付いていなかったの?」
「ああ――」

 夏のセーラー服の少女は、小首を傾げ、短く二度ほど頷いた。
「たしかに、気付けというほうが無理かもしれない」

「いい加減、目のやり場に困るんだがね」
 と、僕が云うと――
 康子は右手の人指し指を僅かに動かし――
 女の遺骸が消えた。

 遺骸だけではない。
 倒されていたテーブルや椅子の類いも、割られていた食器やコップの類いも、全て元通りに戻っている。

 狐につままれた気分である。
 残ったのは、夏のセーラー服の少女だけである。

 その少女がカウンターの向こう側を出て、客席に寄ってきた。
 その瞬間、窓からの光を浴びて、夏のセーラー服が透き通らんばかりに輝いた。

(きれいだ)
 と思った。

(箱に入れ、飾っておきたい)
 そう思った。

 もちろん――
 あの夏のセーラー服も〈祈文〉の手妻に違いないわけだが――

     ◆

 気を取り直し――
 僕は訊ねた。
「きみを狙った狼藉者は、そのあと、どうなったんだい?」

「帰っていった」
「帰っていった?」
「狼藉者が押し入って来る前に、あそこに、ああして、骸を描いておいたから――」
「描いておいた?」
「――さぞかし困惑したに違いない」
「困惑?」
「自分が襲う前に、誰か別の者が、私を屠ったと理解したでしょう」
「何だって、そんな子供騙しな手に?」
「たぶん、私を本気で襲う気がなかったからだと思う」
「――と云うよりも、なぜ、きみが、そんな手ぬるい策を採ったのか、ということなんだけどね」
「手ぬるい?」
「きみは、いつだって、やるときは徹底的にやる。そうだろ?」

「たしかに――」
 と、康子は苦笑する。

「――けれど、私だって無用な殺生はしたくない」
「それにしたって、もう少し、やりようというものがあるだろ?」
「東涯宮の主(あるじ)としては、直に出会ってしまった刺客を見逃すわけにはいかない。だから、ときには、こんな子供騙しの手も使う」

 その説明は僕の意表を突いた。
「そういうことなのか?」

 康子が目を丸くする。
「そんなに驚くこと?」

「驚くさ。そんな配慮があったとは――君主も女優も、人気商売ということに変わりはないんだな」
「そうかもしれない」

 が、
「けれど――」
 と、康子は云う。
「――今回は、ちょっとわけがある」

「わけ?」
「実は、あの刺客は故意に追い返したもの――今、後をつけさせている。逃げ込み先がわかり次第、追っ手を差し向けるつもり――いずれ私も出向く」
「きみも?」
「今回は、私の結界が破られている。並の賞金稼ぎにできることではない。おそらく、陰で大立物が操っている」
「大立物? どんな大立物なんだい?」
「油断のならない男――今は『オン・トウシン』と名乗っている」
「オン・トウシン?」

 ――温 湯浸

 と書くそうだ。

「私の芝居の本を書く男――」
「じゃあ、きみの仲間じゃないか?」
「ところが、そうとも云いきれない」
「なんで?」
「いつ裏切るか、知れたものではないから――」
「なんで裏切る?」
「話せば長くなる」

 そのとき――
 康子の白い顔が苦痛に歪むのを、僕はみた。
 何か忌わしい記憶が脳裏をよぎったに違いない。

「どうした?」
「何でもない」

 僕は気をとりなし、改めて問い質した。
「だから、そいつを懲らしめようと云うのかい? 君主のきみが、わざわざ?」

「どうせ狙いは私一人――将軍たちを動かすまでもない」

 康子らしい云い草だと思った。

 それが康子の弱点でもある。
 康子は、肝心なときほど、我が身を他人に預けられない。
 ここぞというところで、康子は自身を恃(たの)む――恃まずにはいられない。

 そして、たぶん――
 そうすることで何度も痛い目にあっている――

 小鳥が真剣の切っ先に立っているような危うさが、今の康子にはあった。

 嫌な予感がする。
 もしかして――

 あの遺骸は――
 手足を縛められ、無惨にYの字を描いていた康子の遺骸は――
 これから起こる嫌なことの前触れだったのではないか――

「そんなふうに思うのね」
 と、康子――
「思うね」
 と、僕――

 康子は不機嫌そうに吐き捨てた。
「やはり、あなたは私を知りすぎた」

「いけないことかい?」
「良いことではない」
「なんで?」

 しかし――
 康子は答えなかった。

 代わりに、
「どうせなら、あなたも一緒に来ない?」
 と云う。

「何のために?」
「そうすれば、私のことが、もっと、よくわかるでしょう」
「邪魔じゃないのかい?」
「おそらくは――」

「じゃあ、そうさせてもらうよ」
 と、僕は応じた。

 康子のことなら、どんなことでも知りたいと思った。
 いつか、無惨な遺骸に成り果てる――その前に――


次へ

作品一覧に戻る

小説鍛練場に戻る