第11話 温湯浸(1)


 ――どうせなら一緒に来ない?

 と、康子に誘われて――
 一度は、その気になったものの――

 はたして、本当に一緒に行ってよいものか、気になった。

 これまでの康子は、何となく、僕を〈場〉の世界から遠ざけようとしていた。

 なのに、突然、僕を誘った。
 どうしたことだろう?

 もちろん――
 僕の思い過ごしかもしれなかったが――

     ◆

 気が付くと――
 僕らは草地にいた。広大な草地である。

 例によって、康子が〈場〉を張ったらしい。

「行きましょう」
 と、康子の声がした。

 僕は、声がした方を振り向き――
 息を飲んだ。

 康子の姿体に目を奪われたからである。

 細身が法衣に包まれていた。
 法衣は乳白色で、ゆったりとした作りになっている。

 よくみると、生地が透き通っていた。
 法衣を通し、躰の線が艶やかに浮かび上がっている。

 法衣の下は濃青の革服らしい。
 革には細かな編目が付いていて、それが鎖帷子(くさりかたびら)を思い起こさせた。

 康子は、僕の視線が釘付けになったことを、すぐに感じとったらしい。
 が、とくに反応は示さず、素知らぬ顔で、僕に訊いた。
「その衣装は、どう?」

(え?)
 と思って、我が身を見返ると――

 僕は、とんでもないものを身に纏っていた。
 鎧である。
 中世中国風の鎧だった。

 もちろん、本当に中世中国風かどうかは知らない。
 僕は歴史学者でも民俗学者でもない。中世中国の風俗など、知らない。

 ただ――
 明らかに古代風でもなければ日本風でもなかった。
 流線形を基調とする銀の大鎧である。

「状況が逼迫(ひっぱく)している。しばらくは、その格好でいてもらう」

 康子は涼しい声で、云った。

「こんなの、いつ着せたんだい?」
 と恨みがましく問うと――
 康子の口元が僅かに緩んだ。
「ここは〈場〉の世界――あなたの衣装を、どう描こうと、私の思いのまま――」
「思いのまま?」
「お望みなら、裸にしてあげてもよいけれど――」

 小悪魔の笑みが弾けた。
 それを愛らしいと、僕は感じた。

     ◆

 康子に促されるままに――
 僕は歩いた。

 康子は早足だった。
 遅れずに着いていくのに苦労した。

 大鎧は思ったよりも重くなかった。普段の服と少しも変わらない。
 たぶん康子の手妻だろう。

 草地を抜け、砂地に至った。

 前方に人の群れがみえた。
 随分といる。百人はいるようだった。

 その群れを目指し、康子は、さらに歩を早めた。

 群れの人々は、皆、思い思いに大鎧を纏っていた。
 手には、剣や手槍などを握っている。

 群れの人々は、僕らの姿に気付くと、気付いた者から順に向き直り、腰を落とし、片膝をついた。
 皆の顔が見分けられる距離になる頃には、全員が片膝をつき、僕らの到着を待っていた――いや、康子の到着を、だ。

「お待ち申し上げておりました」
 先頭の武者の一人が言葉を発した。

「大儀でした」
 と、康子が言葉を返す。
「は――」

 武者の声には聞き覚えがあった。

(あ――)
 と思った。

 カジワラさんである。「カフェの心象風景」のマスターだ。
 虎を象った大鎧を纏っている。
 口髭が、いつもの三倍は伸びていた。

 が、カウンター越しの穏やかな笑みは、今も、そのままであった。

「余(よ)を狙った者が、この〈場〉に紛れたことは相違ないのですね?」

 康子は「余」と自称した。
 声も、心なしか、いつもよりも低くて太い。

「はい」
 と、カジワラさんは答えた。

 康子は、白く長く細い指を下顎に添えて云った。

「――にもかかわらず、それらしき影を感じさせない。恐らくは、何者かが結界を張り、行方をくらましている」
「デンシュにさえ、張源(はりもと)を感じさせ申し上げぬほどの結界なれば、並々ならぬ力にござりまする」

 康子は天を仰いだ。
 曇った表情を隠すかのような仕草であった。

「間違いなく、あの男の仕業でしょう」
「――温湯浸(おんとうしん)にござりまするか?」

 カジワラさんの問いに、康子は答えなかった。
 無言が否定を意味しないことは明らかであった。

 ひと呼吸をおいて――

「兵は、いかほど集りましたか?」
 と、康子が問うた。

 カジワラさんは改まって答えた。
「急なことゆえ、御当家・直参(じきさん)を含め、およそ三百――」

「それで十分――」
「いかがなさりまするか?」
「まずは、結界の張源(はりもと)を突き止める」
「は――」

 カジワラさんは短く頷くと、音もなく振り返った。
 右手で合図を送ると――瞬く間に馬が出現した。

 数頭、数十頭、数百頭――

 無から有が生じる様を目の当たりにし、僕はポカンと口を開けた。
 魔術の世界に慣れるには、一朝一夕では無理である。

 僕らの元に、二頭の馬が連れて来られた。
 一頭は康子のものに違いない。もう一頭は……。

「乗って――」
 と、康子が左手で示した。

「馬なんか、乗ったことないよ」
 と抗弁するすると、
「大丈夫、乗れる」
 と、康子は云う。

 その瞬間にも――
 康子はヒラリと馬上の人になっていた。

「今の動きを心の中でイメージしてみて――」
 と云う。

 そんな風に云われると、できるような気もした。
 ここは魔術の世界である。どうにかなるに違いない。

 恐る恐る康子の真似をしてみる。
 すると――
 難なく、馬上に跨がることができた。

「ね、できたでしょ?」
 と、康子は笑う。

 康子が手伝ってくれたのだと、僕は直観した。

     ◆

 三百の人馬は、静かに、だが急いで、砂地を進んだ。
 先頭を康子が行く。そのすぐ脇を僕が進んだ。カジワラさんは僕の真後ろだ。

 ――デンシュのお傍を離れぬように――

 出発前に、カジワラさんが僕に念を押した。
「デンシュ」というのは康子のことらしい。

 どういう字を書くのかと訊くと、

 ――殿主

 と教えてくれた。

 すっかり武者ぶりが板についているカジワラさんだが――
 僕に相対するときは、いつもと変わらない――あのカフェのマスターのカジワラさんである。

 馬の旅は初めてだった。
 が、いたって快適だ。手綱を握っているだけで、何もする必要がない。
 車の運転よりも楽だった、車を運転したことはないけれど――

 小一時間ほど馬を進めると――
 砂の色が変わってきた。
 薄い灰色だったものが、濃い褐色になっている。

「そろそろに、ござりまするな」
 と、カジワラさんが云った。

 康子は振り返ることなく応じた。
「気を付けて――いつ切り掛かって来ても不思議はない」
「御意――」

 それから間もなく――
「きた――」
 康子が馬を止めた。

 僕の馬も止まった。
 僕が止めたのではない。康子が止めた――おそらく――

 前方に人影がみえた。
 男が一人――砂の上の立って、こちらの様子を窺っている。

「戦う意志はないようにござりまする」
 と、カジワラさん――

「参りましょう」
 康子は馬を進めた。
 三百の人馬が、それにならった。

 これだけの数の騎馬武者が近付いていっても、男は微動だにしなかった。
 両手を胸の前に合わせ、ニコニコと笑いながら、僕らの到着を待っている。

 男は人民服のようなものを身に付けていた。
 ひと昔前の中国の政治家たちが着ていたヤツだ。

 互いに顔がみえるまでに近付くと――
 男は無言で両膝をつき、跪いた。

 その様子をみ、康子は馬を止めた。

 三百の人馬が、康子に従った。

「何者か?」
 と、カジワラさんが問う。

 が、人民服の男は答えない。
 代わりに、顔を上げ、康子を見上げて笑いかけた。
「よくぞ、お越し下された」

 笑みは、どちらかと云うと、ニヤけた笑みだった。
 ひと目で、

 ――嫌なヤツ

 と思った。

 年頃は三十ほどか。
 顔立は日本人で、意外にハンサムである。が、ニヤけた笑みが、端正な容貌を著しく歪めていた。
(誠意がない)
 と、僕は思った。

 康子は馬を降り、男に相対した。
「今日は、東涯宮主として参ったのではありませぬ。女優・神咲康子として参りました」
「それは、それは、ありがたきかな――」

 人を食ったような返事であった。
 まさに、劇作家が舞台女優を値踏みするかのような視線を送ってくる。

 どうやら――
 この男が、

 ――温湯浸

 であるらしかった。
 康子、曰く、

 ――私の芝居を書く男

 である。

 が――
 男は、僕には一瞥もくれず、名を名乗ることもしなかった――そうすることが、さも当然のように――

 カジワラさんが苦い顔を作っている。
 男の態度が我慢ならないようだ。
 そして、その無礼を許す康子にも、納得がいかない様子である。

 康子が、男に問うた。
「今しがた、この〈場〉に逃げ込んだ者がおります。私の結界を破り、私の命を狙った者です」
「それは一大事にござりました」
「何か事情を御存じではありませぬか?」

 男は短く頭(かぶり)をふった。
「いいえ、存じませぬ」

 男の云い草には、ひたすら軽薄な印象をもった。
 舌の動きが滑らかすぎて、奇術師や詐欺師を思わせる。

 カジワラさんは、ついに我慢ができなくなったようだ。
「隠しだてをすると、ためにならぬぞ」
 と、声を荒げた。

 が、男は全く意に介さない。
 ニヤけた笑みには自信が漲っていた。

「されば、申し上げよう」
 男は、嫌らしい笑みを打ち消そうともせずに、カジワラさんに向かって云った。

「実は某(それがし)――さる御方より、言伝(ことづて)を預かっております」
「言伝だと?」
「さよう――」
「いかなる言伝か?」
「宴のお招きにて、ござそうろう――」

「宴?」
 男の言葉に、康子が鋭く応じた。

「はい。他ならぬ、チュウカ宮の公子様のお招きにござりまする」
「チュウカ宮の――コウショウ殿ですか?」
「いかにも――」

「戯れ言を申すな!」
 カジワラさんが一蹴したが――

 それを左手で制し、康子は云った。
「わかりました。では、喜んでお招きにあずかりましょう」

     ◆

 男の案内で、僕らは再び馬を進めた。

 男は一人、悠然と前を歩き――
 僕らは、その数十メートル後ろを、男の足取りに合わせて進んだ。

 チュウカ宮が催す宴の席に向かうためである。

「チュウカ」というのは、

 ――中華

 と書く。

 東涯宮が日本語を母語とする者たちの行政組織であるように――
 中華宮は中国語を母語とする者たちの行政組織であるようだ。

「もっとも、私たちのところほどには、まとまっていないけれどね――」
 と、康子は云う。
 中華宮が治める〈原母場〉は、いつの世も戦乱が絶えないのだそうだ。

「――ために、我らにも火の粉が飛んで参ります」
 と、カジワラさんが言葉を継いだ。

「火の粉?」
「太平天国を御存じですか?」
「太平天国? あの歴史の教科書に出てくる?」
「そうです」

 知らないこともない。
 中国・清の時代――南方で大規模な反乱が起こった。
 反乱軍の思想の中核を占めたのは、キリストの教えであった。
 賊徒たちは皆、キリスト教の信者たちだったと伝えられる。

「その太平天国の残像を追い求める連中が、今もいるのですよ」
「残像?」
「彼らは瞬く間に勢力を拡大し、今や飛ぶ鳥も落とす勢い――中華宮は鎮圧に手を焼いておりまして――」

 どうやら、中華宮の治める〈原母場〉では、現在、戦乱が起こっているらしい。
 窮地に立った中華宮は、東涯宮に援軍を求めたそうだ。

「……それで援軍を送ったのか――」
 と、僕が呟くと――
 急にカジワラさんが黙ってしまった。
 まるで、僕が何かいけないことを口走ったかのように――

 慌てて、
「つまり、そういうことだろう?」
 と、康子に訊くと、
「ええ――」
 と、康子は頷いた。

「簡単に云えば、ね――」
 と――

 康子もカジワラさんも、いつになく硬かった。
 どうやら僕の発言が二人を硬くしたようである。
 理由は、全くわからなかったが――

     ◆

 前方に巨大なテントがみえたところで――
 男は立ち止まった。

 白く丈夫そうな布地で張られたテントである。

「あれなる幕舎に、公子様がおいでです」
 と、男は手招きをした。

 テントの頂上には、風変わりな漢字で、

 ――中華

 と書かれた旗が翻っていた。

「いかがなさりまするか?」
 カジワラさんが小声で康子に訊いた。

「参るしかないでしょう」
「罠にござりまする」
「肝心なのは、誰の罠か、ということ――」

 康子の言葉に、カジワラさんの目線が心持ち上向いた。

「あの男の罠ではない、と?」
「そうかもしれませぬ」

 表情を崩さずに、康子は頷いた。

「いかなるお考えにござりまするか?」
 カジワラさんが問う。

 康子は何も答えない。

 カジワラさんは、すぐに恭しく頭を下げた。
 それが、二人の主従関係を明示した。

「くれぐれも御油断なきように――」
「あなたも――」
「は――」


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