東北・上越新幹線のホームの上で――
神咲康子(かんざきやすこ)は、男の背中を見送った。
かつての自分の側近で、今は謀叛の廉(かど)で罪人となった男の背中を――である。
その背中が人集(だか)りに埋もれると――
康子は、溢れ出る涙を、もう一度、拭った。
その様子を――
駅員が興味深そうに眺めている。
先ほどから、なかなか傍を離れようとせぬ駅員に向かって――
康子は云った。
「そうやって、いつまで装っているつもりなの?」
駅員はニヤリと笑った。
「失礼だな。きみに助け舟を出してあげたのに――」
温湯浸(おんとうしん)が――
いつもの云い草を、表に出した。
(無体なことを――)
と、康子は思った。
哀れな駅員の〈心〉が喰われてしまっている。
「子供は助かりそうなのか?」
駅員は一旦、帽子を取って――
ゆっくりと冠(かぶ)り直した。
「わからない」
と、康子は応じた。
「おいおい――きみが、あの男にみせた夢の中では、たしか、そういう設定になっていたはずだぞ」
「助かるのではない。一週間後に息絶えることになっていた」
「そうだったかな」
「あとで、よく見返してみることね」
「なぜ、そう書いた?」
が――
康子は答えぬ。
「情けのつもりか?」
それでも――
康子は答えぬ。
「やれやれ――」
駅員は、再び帽子を手に取り、天を仰いだ。
「――まあ、よい。この駅に11番ホームを作ってしまうくらいだからな」
康子は答えぬ。
駅員は云った。
「東京駅の11番ホーム――それが、あの男への、せめてものメッセージだろう? これは作られた記憶である、というメッセージ――」
「なぜ、ここに現れたの?」
「云っただろう? きみに助け舟を出すためだ。みていられなかったのでね」
「人の涙が楽しい?」
「ほほう――」
駅員は傀儡(くぐつ)のように身を屈めて、
――くっくっくっく
と笑った。
「やはり、あの涙は芝居ではなかったか」
「無粋な」
「わずか数分で拵(こしら)えた人形に、それほどまでに入れ込むとはな」
「あいかわらず、私の気分を害することしか云わないのね」
「そうさ。私は、いつだって、きみを嬲(なぶ)っていたいのでね」
「それが、私の芝居を書く狙い?」
駅員は肩をすくめて笑ってみせた。
「半分は、そうかな」
「あなたの書く芝居には、もう金輪際、出ないようにしてもよいのだけれど――」
「それは無理だ。きみが出たいと思うような芝居を書く作家は、他にはいない」
「うぬぼれないで――」
「『うぬぼれ』とは酷いな。『確たる自負心』と云ってほしいね」
「用がないのなら、早く私の前から消えなさい」
「気になったことがある」
駅員は、右手の人さし指を、鼻梁の前に真っ直ぐに立てた。
「卑猥な問いなら受け付けない」
康子は視線を合わせず、横顔で拒否の意志を示した。
が――
「なぜ、きみは、その〈身〉を一度も晒さなかった?」
「え?」
康子の研ぎ澄まされた眉が、わずかに顰(ひそ)められた。
「きみが、自分の〈身〉を、あの男の前に晒したのは、ただ一度――それも、たった今のことだ。あれほど、きみのために働いた男に、これは、あまりに惨い仕打ちではないかね?」
康子は、小さな口角を僅かに歪めた。
(察しのよいこと――)
たしかに――
康善が姉の躰を犯したのは――
その〈心〉を、康子が喰っているときであった。
(見抜かれていたか――)
「きみの、その美しい躰を、一度でも、みせておいてやれば――あの男だって、みすみす実の姉の〈身〉を犯すこともなかったであろう。もちろん、あの男の欲の淀みを巧く活かした真天国どもの奸計をこそ、褒めてやらねばならないが――」
駅員はニヤニヤと笑った。
「推量にすぎない」
反論する康子の口調に、勢いはなかった。
「あの男は、姉を求めたのではないよ。きみを求めた。きみが、その〈身〉を晒さないから、あの男は連中の唆(そそのか)しに抗(あらが)えなかった」
「そこまで、わかっていながら――なおも、しつこく問い糾(ただ)す意味は何?」
駅員は、わざとらしく口元に軽薄な笑みを浮かべた。
「きみという女を理解したい――東涯宮の君主としてではなく、一人の女優としてでもなく、一人の女としてのきみを――いや、今の場合は、一人の少女としてのきみを、と云ったほうが、よいかもしれないな」
「そうやって、いつまでも私を痛めつけていることね」
駅員は笑った。
「今回の筋書きは実に単純だ。きみは康善の求愛を拒み、そこを真天国の連中に付け込まれ、康善の劣情に火がつき、力づくで犯された――あの男の姉の〈身〉を、きみが喰っているときに――」
康子は気色ばんで横を向いた。
後ろ髪が、ふっと妖しく揺れた。
駅員は追い討ちをかけた。
「そういう意味では、きみが偽りの夢の始まりを、この東京駅の11番ホームに置いたことは、実に興味深い。あの狼藉は決して許さぬ、というきみの情念が、無残にも暴かれてしまった証左なのだよ。何とも不様な告白ではなかったかね、東涯宮主ともあろう者が――」
「好きに云うがいい」
「もちろん、私にはわかっているさ。〈場の世〉では、君主にして神が如き魔術師であっても、〈定命の世〉では、か弱い小娘にすぎない。男に抗えぬ細腕では、いかんともしがたいことよ」
「どこまでも無粋な――」
「無粋ついでに、まだ、あるぞ――」
駅員は言葉を続けた。
「――覚えているか? きみが、あの男にみせた偽りの夢の中で、きみは、あの男の姉に、とんでもないことを云わせていたな。きみへの感謝の言葉だ」
「細かいことを――」
「欺瞞も甚だしいとは思わなかったのかね? あの女が、きみを許すはずがない。きみは、あの女にとって、最愛の弟を誑(たぶら)かした魔女にすぎないのだから――」
康子は、精一杯に自制に努めた。
「この罪は、終生、償っていく」
「それもよい。あの男に義理立てをし、自分の記憶までも消す必要はない。私は大歓迎なのだよ。きみのような素晴らしい女優が生涯の罪を背負う。まさに私好みの境遇だ――とはいえ――」
駅員は上唇に右手を添え、云った。
「――きみには、いささか罪が多すぎる」
「それ以上、云わないで!」
康子の叱責がホームに響きわたった。
先頭車両を囲む野次馬の何人かが、康子たちの方を振り返った。
「また御機嫌を損ねてしまったな」
駅員は苦笑した。
康子は唇を噛み締めた。
一つひとつの言葉が癪に障っていた。
が、
(今は、口答えをしなうほうがいい)
分が悪すぎる。
今回は、曲がりなりにも、自分を助けてくれたのだから――
(なぜ、こんな男に助けを求めたか)
康子は、自身を呪わずにはいられなかった。
たしかに――
選択の余地はないように思われた。
たとえ東涯宮主といえども――
一人の人間の記憶を、わずか数分の間に再編することは、至難の技である。
まして――
康善の〈心〉は、真天国の者たちが、今にも取り返さんと狙っていた。
奪回を阻止するためには、この男に助力を乞うのが一番だった。
「きみが私に助けを求めてくれたのは嬉しかったよ。今の東涯宮は多士済々――その中にあって、私のことを思い出してくれたのは、光栄の極みというものだ」
温湯浸は、東涯宮に忠誠を誓った者ではない。その分、かなり自由に〈場〉を駆ける。
加えて――
中華宮の者たちとも交流があり、今回の真天国の乱でも、よく事情に精通していた。
まさに、
――打ってつけ――
の人物であった。
ただ一つ、
(かつての所業――)
を除けば――
「お互い、過去を蒸し返すのは、やめにしないか?」
と、駅員は云った。
温湯浸は〈身〉を持たぬ。
この男の〈定命の身〉を屠ったのは――
他ならぬ康子であった。
かつて――
この男は、夏のセーラ服の少女を、思うさまに蹂躙したことがある。
様々な嗜好で辱め、最後は〈身〉を貫き、絶命させた。その〈身〉の中には、康子の〈心〉があった。
その後――
康子は、我が〈身〉に戻り、己を嬲った男の〈身〉を屠(ほふ)った。
以来、この男は〈身〉をもたぬ。こちらの世に顔を出すためは、誰かの〈心〉を喰わねばならぬ。
ちょうど今、哀れな駅員の〈心〉を喰っているように――
「あのときの傷が、まだ痛むのだよ」
駅員は、自分の胸に短刀を突き刺さしてみせた。
もちろん、康子だけにみえる幻影である。
「いつまでも恨みがましく――」
「笑って許してくれたまえ」
許す気はない。
が、忘れてもよい、とは思っている。
この男が描く芝居に惹かれる自分の心根は、もう、どうしようもなかった。
「これからは、どうする――」
と、駅員が問うた。
「――太平天国の残党どもは、きみを中華宮の内紛に引きずり込もうと躍起だ」
「増援の将兵は、全て引き上げる」
「それで、借りを返したことになるのか?」
「好戦には非戦で以て応じる――それが私のやり方――」
「あの男の処断は?」
「彼は康善に還りたいと云った。私にできることは何もない」
「それでいいのか?」
康子は短く息をついた。
「本当に、どこまでも無粋なこと――」
「答えたくないなら、答えなくていい」
「もし、裁定府(さいじょうふ)が許すのなら、今後も私の傍に置きたいと思っている」
「なるほど、同じゴーレム同士、相哀れむというわけか」
「そうではない――」
康子は素早く頤(おとがい)を上向けた。
「――康善は私の直近の部将だった」
「だから、どうだというのだ? かつて自分がされたことを、今度は自分の寵臣にやり返す――英明な君主のすることではない。記憶を弄られ、屈辱に悶えた夜を、よもや忘れたわけではあるまい?」
「康善の罪は重い。けれど、私にも罪はある。無位無官に落とした今、無下に扱いたくはない」
「本当に、それだけか?」
康子が答えなかったので――
駅員は、帽子を目深に被り直し、
「――では、そういうことにしておこう」
康子の傍を離れて行った。