大通りから小路に入ったところで――
「ここにしましょう」
と、康子が云った。
地味な構えの喫茶店であった。
壁が深緑の蔦に覆われ、窓が一つだけ顔を覗かせていた。
窓の向こうは暗くてわからない。
が、窓枠の傍に植木鉢が置かれ、カーテンの役割を果たしていた。
――カラン
と音をたて、中に入る。
狭い。
テーブルが二つだけ――あとはカウンター席が五つ、六つ――
内壁の木目が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
どこに座るのか康子は迷わなかった。
二つしかないテーブルの片方に座る。
僕も、ならった。
「いらっしゃいませ――」
中年男性が寄ってきた。
マスターと思しき男性である。
口元には真っ黒な髭を蓄えている。髭の手入れが細かく行き届いていて、それが店全体を上品な雰囲気と重なった。
康子はアールグレイを注文した。
僕はアメリカンを頼む。
「かしこまりました」
マスターは愛想のよい笑顔で、軽くお辞儀した。
待っている間は、康子は無言だった。
先ほどの老人を追い払ってからは、ほとんど何も喋っていない。
なおも喋る様子がなかったので――
僕から話しかけざるを得なかった。
「あの老人は何者なんだい?」
康子は答えない。
しばらく待っても、反応はなかった。
「――じゃあ、きみは何者なんだい?」
僕は質問を変えた。
今度は、すぐに反応した。
康子は短く、
「〈場を張る者〉」
とだけ云った。
「場を張る?」
「場の話は覚えている?」
「ああ……」
覚えている。
電場、磁場、量子場、重力場――
(世界は場で溢れている)
という話だ。
「私たちの関わる〈場〉は心象場という」
「心象場?」
「人間の心象が生み出される場のこと――」
「心象が生み出される?」
康子の話すことは、いつも難しい。
「心象って何だい?」
「人が心で思い浮かべることの全て――」
「心で思い浮かべる……? 想像するってことかい?」
「ちょっと違うけど――私たちは毎日、外界の様子を心に思い浮かべながら生きている――そういう意味では、正しい」
そこへ紅茶とコーヒーとが運ばれてきた。
「ありがとう」
と、康子が言葉を発した。
品の良いマスターが丁重に頭を下げた。
珍しいことだった。
康子が店員に礼を述べるところは、みたことがない。
いつも軽く会釈するだけであった。
僕の怪訝を察知し、康子は云った。
「――ここ、私がもっているお店なの」
「ええ?」
と驚きの声を上げる。
品の良いマスターを指し、康子は云った。
「あちら、カジワラさん――」
「どうぞ、ごゆっくり――」
と髭の笑みを浮かべている。
開いた口が塞がらなかった。
「きみは、よく僕を驚かせるね」
康子は軽く首を振った。
「そんなつもりはないけれど……」
が、思い直したのか、すぐに言葉を継ぐ。
「――無理はない。今日は、あなたの心象風景には馴染みのないことばかりだったから……」
「心象風景?」
「心象場に立ち上がる情景のこと――人は自分の心象風景の中に自分の世界を組み立てる」
「心で思い浮かべる情景のことかい?」
「もっと質感に根差した情景のこと――空想や回想とは、少し異なる」
「よくわからないな」
「そう?」
一瞬の出来事だった。
僕らは、いつの間にか、青空の下にいる。
石畳の続く灰色の街路――その道端に設けられたテラスに座って、僕らは向かい合って座っていた。
遠く青い空にはパリのエッフェル塔を思い起こす建造物がたっていた。
先ほどと同じ感覚であった。
老人に連れられ本屋を後にしかけたときも、こんな感じだ。
「これが心象風景の例――」
落ち着きを払って康子は云った。
「僕は幻をみているのかい?」
「そう思ってもらってもいいけれど……」
康子の言葉が終わらないうちに、日が暮れた。
今まで広がっていた青空は、星たちの瞬く夜空へと変わっていた。
おまけに底冷えがする。
僕の躰がガタガタと震えだしたので、
「悪戯がすぎたかな」
と、康子は笑った。
その言葉も微妙に揺れている。
寒いのは康子も同じらしかった。
気付くと、僕らは先ほどの喫茶店に戻ってきていた。
カウンターの向こうでは、マスターのカジワラさんが、何ごともなかったようにカップを拭いている。
「今のが〈場〉――私は比較的、自由に〈場〉を張れるので、〈場を張る者〉と呼ばれる」
「魔術か?」
「簡単に云えば、そんなところね」
「じゃあ、きみは魔術師なんだ。たしかに驚くな。きみは普通の人間とは全く違うよ」
「何が普通か、なんて私にはわからない。私にとっては〈場〉を張ることが普通だから――」
「きみ以外にも、そんな芸当ができる人はいるのかい?」
「いる」
「どれくらい?」
「何十万、何百万、何千万――」
「そんなに?」
「もしかしたら、それ以上かもしれない。〈場を感じる者〉も含めれば、さらに多い」
「場を感じる者?」
「〈場〉は張れないけれど、張られた〈場〉を感じることができる者――例えば、あなたがそう」
「僕?」
「あなたは〈場〉を張れないけれど、私の張る〈場〉を感じとって、私の描く心象風景を自分の心象風景として認めることができる。例えば――」
気付くと――
僕らは、ジャングルにいた。
あまりの暑さだった。
すぐに汗が吹き出てくる。
康子の額も光り始めていた。
そこへ、スコールが降り出す。
僕も康子もずぶ濡れだ。
が――
すぐに僕らは、喫茶店に戻っている。
汗はかいていないし、服も濡れていない。
「世の多くの人は、私たちの張る〈場〉を感じとることができない。でも、あなたはできる。だから、十分に普通の人間ではないかもよ、あなたも――」
「それって、もしかして僕の病気と関係があるかい?」
「病気?」
「云ったろう? 僕は精神科に通っている」
「何の病気だと云われたの?」
「きこえるはずのない声がきこえたり、起こるはずのない出来事が起こっているように感じたりする病気だと云われた」
康子はアールグレーの香りを楽しんだ後、ティーカップを口元から離した。
「統合失調症のこと?」
「ああ、そう云われたよ」
「どうかしら――」
康子は首を捻った。
「――注意深い医師なら、あなたの体験を統合失調症に結びつけるのは、ためらうと思うけど……」
「なぜ?」
「あなたの体験は、統合失調症に典型的な症状とは、ずれているはず」
「じゃあ、何なんだい?」
「わからない。統合失調症と〈場〉との関連は、これまでに多くの人たちが考えてきたけれど、まだ結論には至っていない」
「きみの考えは?」
康子は首を振った。
「私は医者じゃないもの……」
◆
「きみに、どうしても訊いておきたいことがあるんだ」
と、僕は云った。
「なに?」
「きみと僕とが最初に会ったときのことだよ」
「また、その話?」
康子は困惑した素振りをみせた。
この話を持ち出すと、決まってみせる素振りである。
「あの老人が云ったんだ。東京駅の11番ホームのことを知りたくないかって――」
「これだけ話せば十分でしょう? 随分たくさんのことを話したと思うけれど……」
「そうだけど……」
僕がごねるので、康子の笑みが消えていた。
本当に喋りたくないことが、よく伝わってきた。
康子の困惑は深い。
単に僕を突き放そうとしているのではないようだった。
「本当に知りたい?」
と、康子は問う。
その口調の重さをきき、
(しまった)
と、僕は思った。
これ以上、康子を困惑させてはならない。
康子は云う。
「もし、あなたが、あの夜のことを知ったなら、あなたは私のことを忘れないといけないかもしれない。それでも、いい?」
「え?」
(そんなバカな)
と思った。
まるで、僕が記憶を消されるみたいだ。
が――
康子ならできる――多分、できるのだ。
それはイヤだと思った。
康子との記憶を失うなど耐えられない。
せっかく20年も付き合ってきたのだから……。
「――なら、それ以上は訊かないで――」
康子はアールグレーを飲み干した。
僕もアメリカンを飲み干した。
僕が空のコーヒーカップを置くと、康子は言葉を継いだ。
「人にはね――物事を知る勇気と知らないでおく勇気とがある。より難しいのは、知らないでおく勇気――」
「それを僕にもて、と?」
僕は身を乗り出し、訊いた。
が、康子は目線を合わせなかった。
(まだ何か隠してる――)
と、僕は感じた。
「私だって、あなたを失いたくはない」
「え?」
「あなたが私を忘れるときは、私もあなたを忘れないといけない」
「どういうことだい?」
しかし――
康子は目線を合わせなかった。
「それは本当なのかい?」
「本当よ」
なおも目線を合わせない。
(もう、いい)
と、僕は思った。
東京駅の11番ホームことは、康子の不思議を思えば、どうにでも説明はつく。
康子は魔術師なのだ。
それで十分ではないか――
胸中の曇りは晴れつつあった。
◆
「もし、これから今日みたいなことがあったら、すぐに、ここに来てくれる?」
と、康子は云った。
「今日みたいなこと?」
「あの老人のような者が、もう一度、現れないとも限らない」
「あの爺さんは、何を企んでいたんだい?」
「私の邪魔――」
「きみの邪魔?」
「私には敵が多い」
話が重くなりそうだったので、それ以上は訊かないでおくことにした。
代わりに、
「この喫茶店は何という名前なんだい?」
と問うと――
マスターのカジワラさんが、うやうやしく名刺を差し出した。
店の名が記されている。
――カフェの心象風景
とあった。