第6話 記憶


 康子が自分の正体を明かしてから、だいぶ経つ。

 どれくらい経ったろう?
 多分、3ヶ月ではきかないはずだ。

     ◆

 両親が離婚した。

 原因は父にある。
 浮気だった。
 30歳も歳下の女と、駆け落ち同然に去っていった。

 翌月、母が倒れた。
 くも膜下出血だった。
 病院に担ぎ込まれた次の次の日に亡くなった。

 母は、父に捨てられた事実を、受け入れ損ねたようである。
 心に過度の負荷がかかって死んでしまった。

 葬儀は兄が取り仕切った。

 兄は霞ヶ関の役人だ。
 だから、弔問客が大勢、訪れた。
 義姉は対応に追われ、テンテコマイだった。

 僕は母の棺を一人ひっそりと見送った。
 弔問客の多くは、兄以外に母の息子がいたことなど、誰も気付かなかったに違いない。

 葬儀が済むと、兄は実家を売却した。
 僕は近所のアパートに部屋を借り、一人暮らしを始めた。

 兄が同居話を持ちかけてこないのは百も承知だった。

 持ちかけてくるわけがない。
 僕は邪魔な存在だ。

 汚い畳の上で、僕は胡座をかいている。
 狭い四畳半の一室である。

 窓の外は線路だ。
 近くには踏み切りもあって、年中、キンコンキンコン鳴っている。

 父母と暮らしていた日々が夢のようだった。

 ――終わったな。

 と感じる。
 もう、これでオシマイ――
 僕の人生が、である。

     ◆

 会いたかった。
 無性に会いたかった。

 康子に――だ

 が――
 その術を知らない。

 もちろん、どこかの喫茶店に入れば――
 案外、またバッタリと会えるかもしれなかった。

 けれど、あれだけ通った行きつけの喫茶店には、もう何ヶ月も通っていなかった。
 父が家を出、母が病に倒れ、とても、それどころではなかった。

 そして今――
 コーヒーを飲むカネすら、手元にない。

 僕は父母という保護者を失った――その現実が、これだった。

 今の保護者は兄である。
 が、兄は必要最低限のカネしか渡してくれない。

 親と兄とでは、こんなにも違う。

 一つだけ――
 康子に確実に会えそうな場所があった。
 康子の経営する喫茶店「カフェの心象風景」だ。

 が、その場所を忘れてしまった。

 ――何かあったら、ここに来て――

 と云ってくれた――その声だけが、今も脳裏にこだましている。

 場所を忘れないうちに、もう一度、行っておくべきだった。

 今となっては、康子に会える見込みは、これっぽっちもない。

     ◆

 そんなある日――
 アパートの扉がガスンガスンと音をたてた。

 築40年の古アパートである。
 戸は木製だった。
 のぞき穴すらない。

「どなたですか?」

 返事はなかった。

 戸を開けた。

 義姉だった。
 兄の妻である。

 顔を合わせるなり、
「お義父さんとお義母さんが別れたのは、あんたのせいだ!」
 と云われた。

(なんで、そうなのか?)
 理由を問うても、取りつく島がなかった。

 どうやら、僕の精神疾患が離婚の原因だ、ということらしい。
「あんたなんか、生まれて来なければよかったのよ!」
 と罵られた。

 精神疾患への偏見には慣れっこである。
 が、さすがに堪えた。
 義姉の罵倒である。

「もう二度と関わらないで欲しい」
 とも云った。
 それが兄の本音でもある、とも――

 云いたいことを云いたいだけ云い残し、義姉は足早に去っていった。

     ◆

 義姉が去った後――
 再び、アパートの扉がコツンコツンと音をたてた。

「どなたですか?」

 返事はない。

(もう厄介事はゴメンだ)
 戸を開けるのを、僕はためらった。

 が、すぐに思い直し、戸を開けた。

 戸の向こうに立っていたのは――

 康子だった。

「よくここがわかったね」
 僕は、どうでもいいことを口にした。

 本当は礼を述べるべきなのだ。
 こんな僕の居所を見つけだし、わざわざ訪ねてきてくれたのだから――

 康子は、僕の気持ちを見透かしたかのように、
「思ったより元気そうね」
 とヤンワリ微笑んだ。

 変わらない。

 康子は変わらなかった。

 あの夜、東京駅の11番ホームで出会った頃から、寸分も違わない。
 そのときの康子が、僕の目の前に立っていた。

「きみは本当に歳をとらないね」
 僕が改めて感歎すると、
「それ、褒めているの?」
 と云う

「そのつもりだけど――」
 僕は、少し遠慮ぎみに付け足した。
「――気に触ったかい?」

 康子は苦笑をもらす。
「あまり気持ちよくはない。いつも同じ服を着ていると云われているみたいで――」

 以前の僕なら、言葉の内容に仰天していた。

 が、今は驚かない。
 康子なら、そう云うこともある。

 代わりに、
「きみは、まるで衣装を変えるように歳格好も変えられるんだね」
 と水を向けると、
「あなたの常識が私の常識でないことは否定しない」
 と康子――

 また難しいことを云い始めた。

 いつものことである。
 早く本題に入りたい、ということだ。

「今日は何か用があって来たのかい?」
 僕の言葉に、康子は頷いた。
「――けれど、ここでは話しづらい」

「なら、場所を変えようか?」
「〈場〉を張りたいのだけれど……」
「構わないよ」

     ◆

 見覚えのあるカフェにいた。
 康子が経営する喫茶店「カフェの心象風景」だ。

 目の前には、飲み干したアメリカンコーヒーのカップが置かれてある。
 康子は僕の正面に座っていて、目の前にはアールグレイのティーカップが置かれてある。

 マスターのカジワラさんが、こちらみて、品良く微笑んでいる。

「〈場〉というのは、実に自然なものだね」
 と、僕は云った。

「どの〈場〉のことを云っているの?」
「この〈場〉のことさ」
「この〈場〉?」
「きみは、僕のアパートの玄関で『〈場〉を張りたい』と云った。今もあそこで〈場〉を張ってるんだろう?」
「〈場〉を張っているのは事実だけど、あなたの思うような張り方はしていない」
「どういうことだい?」
「3ヶ月前、あなたは、ここでアメリカン・コーヒーを飲んでいた。私はアールグレイの紅茶――覚えている?」

「何が云いたいんだ?」
 僕はイヤな感触を覚えた。
 脳のシワの一筋ひとすじを確認される感じである。

「人は、容易に自分を見失い得る、ということよ――」
「自分を見失う?」
「あなたは、自分が自分であり続けるために、何が必要だと思う?」
「それは記憶だろう」
「――その記憶が乱れるとき、人は容易に自分を見失う。ちょうど、先ほどまでのあなたが、そうであるように――」
「僕が?」

 不意に康子が、

 ――ふふ

 と笑った。
 一瞬だけ、悪魔の微笑みにみえた。

 ――あの女は人の心を喰う。

 いつぞやの老人の言葉が思い出された。

 もしかして――
 父が母を捨てたのも、母が急死してしまったのも、全部、康子が仕組んだことではないか――

 根拠のない思い込みである。
(そんなバカな……)
 とは思う

 しかし――
 その思い込みは、にわかに否定しがたい実感を伴っていた。

 康子が云った。
「大丈夫――安心して、お帰りなさい」
「帰るって、どこへ?」
「お父さんとお母さんとが待つところ――」
「なに云ってるんだ。今は、ここが僕の家だ。きみが〈場〉を張っているから、そうはみえないだけで――だいたい、うちの両親は離婚して、母親は病気で倒れ……」

 ハッと僕は気が付いた。

 いや、そうではない。

 両親は離婚などしていない。
 母も病に倒れてなどいなかった。

 先ほどまでの真実が、真実でなくなりつつある。
 夢から覚めたときの感覚に似ていた。

「ごめんなさい――」
 と、康子が頭を下げた。
「――まさか、こんなに効くとは思わなくて……」

「効く? 何のことだ? きみは僕に何をした?」

「ごめんなさい」
 康子は悪びれずに詫びた。

「僕の記憶をいじったのか?」
「怒らないで――決して遊びでしたことではない」
「じゃあ、何のために?」
「それを話すためには、準備が足らない」
「準備? 何のための準備だ?」
「今は、これ以上は話せない」

(やっぱり――)
 と、僕は思った。
 康子は何かを隠している。
 僕が知ってはならない何か重大なことを、である。

 僕は口を開いた。
「きみは、僕に、まだ相当な隠し事をしてるだろう?」

「――だとしたら?」
「心配はいらない。僕は、きみが思ってるほど怒ってるわけじゃないんでね」

 康子は、もう一度、

 ――ふふ

 と笑った。
 今度は天使の微笑みだった。

     ◆

 家に帰ると、母が出迎えた。
「やけに早いわね」

「そうかな」
「まだ夕御飯まで、だいぶあるわよ」
「じゃあ、部屋で本でも読んでるよ」

 いつもの母とのやりとりが、これほど心を温めたことはなかった。

 もちろん――
 両親は、いつまでも健在ではない。

 一人になったときの覚悟を、僕は決めておかなくならない。

 もしかしたら――
 康子は、それを僕に伝えたかったのではないか――

 ふと、そんな気もした。


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