康子が自分の正体を明かしてから、だいぶ経つ。
どれくらい経ったろう?
多分、3ヶ月ではきかないはずだ。
◆
両親が離婚した。
原因は父にある。
浮気だった。
30歳も歳下の女と、駆け落ち同然に去っていった。
翌月、母が倒れた。
くも膜下出血だった。
病院に担ぎ込まれた次の次の日に亡くなった。
母は、父に捨てられた事実を、受け入れ損ねたようである。
心に過度の負荷がかかって死んでしまった。
葬儀は兄が取り仕切った。
兄は霞ヶ関の役人だ。
だから、弔問客が大勢、訪れた。
義姉は対応に追われ、テンテコマイだった。
僕は母の棺を一人ひっそりと見送った。
弔問客の多くは、兄以外に母の息子がいたことなど、誰も気付かなかったに違いない。
葬儀が済むと、兄は実家を売却した。
僕は近所のアパートに部屋を借り、一人暮らしを始めた。
兄が同居話を持ちかけてこないのは百も承知だった。
持ちかけてくるわけがない。
僕は邪魔な存在だ。
汚い畳の上で、僕は胡座をかいている。
狭い四畳半の一室である。
窓の外は線路だ。
近くには踏み切りもあって、年中、キンコンキンコン鳴っている。
父母と暮らしていた日々が夢のようだった。
――終わったな。
と感じる。
もう、これでオシマイ――
僕の人生が、である。
◆
会いたかった。
無性に会いたかった。
康子に――だ
が――
その術を知らない。
もちろん、どこかの喫茶店に入れば――
案外、またバッタリと会えるかもしれなかった。
けれど、あれだけ通った行きつけの喫茶店には、もう何ヶ月も通っていなかった。
父が家を出、母が病に倒れ、とても、それどころではなかった。
そして今――
コーヒーを飲むカネすら、手元にない。
僕は父母という保護者を失った――その現実が、これだった。
今の保護者は兄である。
が、兄は必要最低限のカネしか渡してくれない。
親と兄とでは、こんなにも違う。
一つだけ――
康子に確実に会えそうな場所があった。
康子の経営する喫茶店「カフェの心象風景」だ。
が、その場所を忘れてしまった。
――何かあったら、ここに来て――
と云ってくれた――その声だけが、今も脳裏にこだましている。
場所を忘れないうちに、もう一度、行っておくべきだった。
今となっては、康子に会える見込みは、これっぽっちもない。
◆
そんなある日――
アパートの扉がガスンガスンと音をたてた。
築40年の古アパートである。
戸は木製だった。
のぞき穴すらない。
「どなたですか?」
返事はなかった。
戸を開けた。
義姉だった。
兄の妻である。
顔を合わせるなり、
「お義父さんとお義母さんが別れたのは、あんたのせいだ!」
と云われた。
(なんで、そうなのか?)
理由を問うても、取りつく島がなかった。
どうやら、僕の精神疾患が離婚の原因だ、ということらしい。
「あんたなんか、生まれて来なければよかったのよ!」
と罵られた。
精神疾患への偏見には慣れっこである。
が、さすがに堪えた。
義姉の罵倒である。
「もう二度と関わらないで欲しい」
とも云った。
それが兄の本音でもある、とも――
云いたいことを云いたいだけ云い残し、義姉は足早に去っていった。
◆
義姉が去った後――
再び、アパートの扉がコツンコツンと音をたてた。
「どなたですか?」
返事はない。
(もう厄介事はゴメンだ)
戸を開けるのを、僕はためらった。
が、すぐに思い直し、戸を開けた。
戸の向こうに立っていたのは――
康子だった。
「よくここがわかったね」
僕は、どうでもいいことを口にした。
本当は礼を述べるべきなのだ。
こんな僕の居所を見つけだし、わざわざ訪ねてきてくれたのだから――
康子は、僕の気持ちを見透かしたかのように、
「思ったより元気そうね」
とヤンワリ微笑んだ。
変わらない。
康子は変わらなかった。
あの夜、東京駅の11番ホームで出会った頃から、寸分も違わない。
そのときの康子が、僕の目の前に立っていた。
「きみは本当に歳をとらないね」
僕が改めて感歎すると、
「それ、褒めているの?」
と云う
「そのつもりだけど――」
僕は、少し遠慮ぎみに付け足した。
「――気に触ったかい?」
康子は苦笑をもらす。
「あまり気持ちよくはない。いつも同じ服を着ていると云われているみたいで――」
以前の僕なら、言葉の内容に仰天していた。
が、今は驚かない。
康子なら、そう云うこともある。
代わりに、
「きみは、まるで衣装を変えるように歳格好も変えられるんだね」
と水を向けると、
「あなたの常識が私の常識でないことは否定しない」
と康子――
また難しいことを云い始めた。
いつものことである。
早く本題に入りたい、ということだ。
「今日は何か用があって来たのかい?」
僕の言葉に、康子は頷いた。
「――けれど、ここでは話しづらい」
「なら、場所を変えようか?」
「〈場〉を張りたいのだけれど……」
「構わないよ」
◆
見覚えのあるカフェにいた。
康子が経営する喫茶店「カフェの心象風景」だ。
目の前には、飲み干したアメリカンコーヒーのカップが置かれてある。
康子は僕の正面に座っていて、目の前にはアールグレイのティーカップが置かれてある。
マスターのカジワラさんが、こちらみて、品良く微笑んでいる。
「〈場〉というのは、実に自然なものだね」
と、僕は云った。
「どの〈場〉のことを云っているの?」
「この〈場〉のことさ」
「この〈場〉?」
「きみは、僕のアパートの玄関で『〈場〉を張りたい』と云った。今もあそこで〈場〉を張ってるんだろう?」
「〈場〉を張っているのは事実だけど、あなたの思うような張り方はしていない」
「どういうことだい?」
「3ヶ月前、あなたは、ここでアメリカン・コーヒーを飲んでいた。私はアールグレイの紅茶――覚えている?」
「何が云いたいんだ?」
僕はイヤな感触を覚えた。
脳のシワの一筋ひとすじを確認される感じである。
「人は、容易に自分を見失い得る、ということよ――」
「自分を見失う?」
「あなたは、自分が自分であり続けるために、何が必要だと思う?」
「それは記憶だろう」
「――その記憶が乱れるとき、人は容易に自分を見失う。ちょうど、先ほどまでのあなたが、そうであるように――」
「僕が?」
不意に康子が、
――ふふ
と笑った。
一瞬だけ、悪魔の微笑みにみえた。
――あの女は人の心を喰う。
いつぞやの老人の言葉が思い出された。
もしかして――
父が母を捨てたのも、母が急死してしまったのも、全部、康子が仕組んだことではないか――
根拠のない思い込みである。
(そんなバカな……)
とは思う
しかし――
その思い込みは、にわかに否定しがたい実感を伴っていた。
康子が云った。
「大丈夫――安心して、お帰りなさい」
「帰るって、どこへ?」
「お父さんとお母さんとが待つところ――」
「なに云ってるんだ。今は、ここが僕の家だ。きみが〈場〉を張っているから、そうはみえないだけで――だいたい、うちの両親は離婚して、母親は病気で倒れ……」
ハッと僕は気が付いた。
いや、そうではない。
両親は離婚などしていない。
母も病に倒れてなどいなかった。
先ほどまでの真実が、真実でなくなりつつある。
夢から覚めたときの感覚に似ていた。
「ごめんなさい――」
と、康子が頭を下げた。
「――まさか、こんなに効くとは思わなくて……」
「効く? 何のことだ? きみは僕に何をした?」
「ごめんなさい」
康子は悪びれずに詫びた。
「僕の記憶をいじったのか?」
「怒らないで――決して遊びでしたことではない」
「じゃあ、何のために?」
「それを話すためには、準備が足らない」
「準備? 何のための準備だ?」
「今は、これ以上は話せない」
(やっぱり――)
と、僕は思った。
康子は何かを隠している。
僕が知ってはならない何か重大なことを、である。
僕は口を開いた。
「きみは、僕に、まだ相当な隠し事をしてるだろう?」
「――だとしたら?」
「心配はいらない。僕は、きみが思ってるほど怒ってるわけじゃないんでね」
康子は、もう一度、
――ふふ
と笑った。
今度は天使の微笑みだった。
◆
家に帰ると、母が出迎えた。
「やけに早いわね」
「そうかな」
「まだ夕御飯まで、だいぶあるわよ」
「じゃあ、部屋で本でも読んでるよ」
いつもの母とのやりとりが、これほど心を温めたことはなかった。
もちろん――
両親は、いつまでも健在ではない。
一人になったときの覚悟を、僕は決めておかなくならない。
もしかしたら――
康子は、それを僕に伝えたかったのではないか――
ふと、そんな気もした。