「もう一度、訊くぞ――」
僕は康子の顔を見上げ、云った。
「――なんで僕の自我を守った――いや、康善の自我を、か」
康子は、僕を見下ろし、云った。
「謀叛(むほん)の詮議(せんぎ)が済んでいない」
「謀反の詮議?」
「康善は私に背いた。いたずらに看過すれば、示しがつかない」
僕は笑った。
「なるほど――」
笑いは引きつり、我ながら、少し聞き苦しかった。
「――きみは自分が女優などと云いつつも、その実、無慈悲の女王様だ。自分の王国を守るために、僕というゴーレムを作ったんだから――酷いな。いっそのこと、ひと思いに殺せば良かったのに――」
康子は、再び腰をかがめ、僕の顔を覗き込んだ。
「そんなことを云うものではない。自分が、一層、惨めになるだけ――」
僕は康子の小さな頬を思いきり引っ叩いてやろうかと思った。
けれど――
康子の澄んだ瞳をみていたら、そんな気は失せた。
僕にはわかった。
康子が、わざと頬を差し出したことが――
僕の負けだ。
康子は云った。
「本当は、他にも理由がある」
「どんな理由だい?」
「康善の本心を知りたい」
「本心?」
「例の老人の言葉を、覚えている?」
「老人の言葉?」
「私を『人の心を喰う』と評した――」
「ああ――」
僕は頷いた。
――人の心を喰う。
とは、
――虚構の人物に成りきること――
だと、康子は云った。
女優が役柄を演じるとき、女優は役柄の心を喰っているのだ、と――
「それも間違いではない。けれども――あの老人は、もっと浅ましい意味で、そう云った」
「浅ましい意味?」
「誰かの〈身〉を乗っ取り、その人物に成りすますこと――」
「〈身〉を乗っ取る?」
「私が喰ったのは、康善の姉の心――」
「何だって?」
「あなたのお姉さんは、こちらの世界の外交官だった。しかも、当時、対中外交の現場に近づきうる立場にあった。私は康善の姉の心を喰い、康善の姉に成りすまし、中国政府の要人と会った」
「何のために?」
「その記憶は、今のあなたにも残っているはず――」
「真天国を内偵するためか?」
「簡単に云えば――」
「バカげてる」
僕は首を振った。
「そうね――」
と、康子は云った。
「――莫迦(ばか)げていたかもね」
と――
それで、わかった。
康子は後悔をしている。
康善の姉の心を喰ったことを、康子は後悔しているのだ。
「――で、その後、どうなった?」
「〈身〉は、すぐに返した。けれど、予期しないことが起こった」
「何が?」
「康善が、姉の〈身〉を求め、犯し、子を身ごもらせた」
康子の言葉が揺らいだ。
その揺らぎは、恥じ入る処女のように、艶(なまめ)かしかった。
「何のために?」
「わからない。それが知りたいから、康善の〈心〉を守った」
「何だって?」
「あなたの〈心〉に眠る康善の記憶を、残らず呼び覚ませば、今でも、すぐにわかる」
「呼び覚ますことが、できるのか?」
「できる。その代わり――」
「――わかってるよ。僕が、今の僕ではなくなるんだな? きみが作った僕という存在が壊れるんだ」
「その通り――すべてが消えてなくなる。東京駅の11番ホーム、あなたと話した桜の話、場の話、カフェの心象風景、ゴーレムの横顔、源氏物語のこと、芝居のこと、共に切り抜けた砂漠の戦い、太平天国の栄光――すべてが消えてなくなる。偽の記憶は、偽の記憶――真の記憶の前には、ひとたまりもない」
「まいったな――」
僕は宙を仰いだ。
「――僕は本当にゴーレムなんだ。たしかに、云われてみれば、わかるんだよ。さっきまでの僕の記憶には、中身がなかった。見事なまでに実体がないんだ。まさに、ゴーレムって、こんな感じだなと思えるよ」
「そのゴーレムの記憶を捨て、康善の記憶に還るか――それともゴーレムの記憶を保ち、康善の記憶に還らないか――どうする?」
「どうするって、僕が決めるのか?」
「だって、あなた以外には決められない」
僕は黙った。
康子も黙った。
新幹線の先頭車両の周りには、「立入禁止」の囲いができていた。
その中で、制服や作業服の人々が、忙しく立ち働いている。
その様子を――
僕らは、何とはなしに、眺めていた。
先に――
僕が口を開いた。
「正直に云うとね、自分のことは、どうでもいいと思ってる。むしろ、別のことが気になっててね」
「別のこと?」
「たぶん、きみと同じだよ」
康子の小さな目が大きく見開かれた。
「きみは知りたがっている――なぜ、康善が姉と通じたか――そして、なぜ、きみを裏切ったのか」
康子は唇を噛んだ。
その動揺が、なぜか、手にとるように伝わってきた。
僕は追い討ちをかけた。
「きみだって、薄々は気付いてる、なぜ康善が姉の〈身〉を抱いたのか――」
「私には、わからない」
「嘘だ。わかっている。認めたくないだけだ」
康子の声が悶えた。
「あなたまで私を責めるのね」
「そうだよ。自分で作ったゴーレムに責められる気分は、どんなだい?」
その言葉に――
康子は、潤んだ瞳で、僕を見詰め返した。
それでも、僕は云い放った。
「康善が姉の躰を抱いたのはね――」
その言葉は、できるだけ冷酷に、かつ止めを刺すように――
「――きみを本気で愛してしまったからさ」
◆
「よろしいですか――」
と、駅員が声をかけた。先頭車両の方を右手で示し、
「――飛び込まれた方の、お身内でいらっしゃいますね?」
と――
「そうです――」
と、僕は答えた。
「――弟です」
と――
「ちょっと、あちらに、おいで頂きます。少しお時間がかかりますが――」
「いいですよ」
駅員は康子の方にも振り向いた。
「あなたも、お身内でいらっしゃいますか?」
康子は答えなかった。
その潤んだ瞳は、今にも張り裂けんばかりに震えていた。
ここで、
――いいえ。
と、康子が答えてしまえば――
僕らは永遠に別離する。
そういう直感が、僕にはあった。
そして、たぶん康子にも――
康子は駅員には答えず、僕に向かって云った。
「決めたのね、康善に還ることを――」
「ああ――」
と、僕は答えた。
「そうしようと思う」
と――
「後悔はしない?」
「しないよ。何だったら、今すぐにでも還してくれないか?」
「本当に?」
僕は意識して声を荒げた。
「きみらしくないな。本当は還せないんじゃないのか?」
康子は目を閉じた。
「私は構わない、あなたが望むなら――」
「――なら、頼むよ」
と、僕が畳み掛けると――
康子の左の瞳から、光るものが落ちた。
(なぜ?)
康子――
なぜ、きみが泣く?
康子は左目を抑え、俯きながら訊いた。
「一つ、訊いてもいい?」
「何だい?」
「今のあなたは、自分の記憶を、どこまで信じられている?」
「何だって?」
妙なことを訊く、と思った。
「今のあなたって、どんな感じ? 自分が自分であることを疑わない?」
「何を云ってるんだ」
「お願い――答えて――」
「そんなことは、きみのほうがよく知ってるだろう。僕は、きみに作られたゴーレムなんだ」
「私には、わからない」
「ウソを云うな」
「嘘ではない。作った私にはわからない。作られたあなたに訊くしかない」
「なぜ、そんなことが気になるんだ? きみにとっては、所詮、人ごとだろう?」
「そうじゃない!」
ふと思い出した。
いつだったか、
――私もゴーレムかもしれない。
と、康子が云ったことを――
康子は懸命に涙を拭った。
それは、君主の涙でも、女優の涙でもなかった。
どこにでもある――普通の涙だ。
そんな涙をみていたら――
わかってきた。
当初、僕は思っていた――愛していたのは康善だけではない――康子も、康善のことを、愛していたのではなかったか、と――
けれど、そうではないのだ。
康子が愛したのは――いや、愛しかけたのは――
康善ではなくなった康善――つまり、僕ではなかったか、と――
偽の記憶の康子の笑みが――
清(さや)かな水となって、僕の脳裏を流れた。
もちろん、真実はわからない。
康子の真実なんて、僕にはわからない。
ただ一つ、云えることは――
僕が、康子に感じた親しみのわけ――それは、たぶん、僕らが似ていたからだ。
僕の苛立ちや悲しみを、康子はわかってくれた。
だからこそ、康子は泣いている――
わかったよ、康子――
きみも記憶を弄られたことが、あるんだろ?