第16話 再び、東京駅の11番ホームへ(2)


「もう一度、訊くぞ――」
 僕は康子の顔を見上げ、云った。
「――なんで僕の自我を守った――いや、康善の自我を、か」

 康子は、僕を見下ろし、云った。
「謀叛(むほん)の詮議(せんぎ)が済んでいない」

「謀反の詮議?」
「康善は私に背いた。いたずらに看過すれば、示しがつかない」

 僕は笑った。
「なるほど――」
 笑いは引きつり、我ながら、少し聞き苦しかった。
「――きみは自分が女優などと云いつつも、その実、無慈悲の女王様だ。自分の王国を守るために、僕というゴーレムを作ったんだから――酷いな。いっそのこと、ひと思いに殺せば良かったのに――」

 康子は、再び腰をかがめ、僕の顔を覗き込んだ。
「そんなことを云うものではない。自分が、一層、惨めになるだけ――」

 僕は康子の小さな頬を思いきり引っ叩いてやろうかと思った。

 けれど――
 康子の澄んだ瞳をみていたら、そんな気は失せた。

 僕にはわかった。
 康子が、わざと頬を差し出したことが――

 僕の負けだ。

 康子は云った。
「本当は、他にも理由がある」

「どんな理由だい?」
「康善の本心を知りたい」
「本心?」
「例の老人の言葉を、覚えている?」
「老人の言葉?」
「私を『人の心を喰う』と評した――」

「ああ――」
 僕は頷いた。

 ――人の心を喰う。

 とは、

 ――虚構の人物に成りきること――

 だと、康子は云った。
 女優が役柄を演じるとき、女優は役柄の心を喰っているのだ、と――

「それも間違いではない。けれども――あの老人は、もっと浅ましい意味で、そう云った」
「浅ましい意味?」

「誰かの〈身〉を乗っ取り、その人物に成りすますこと――」
「〈身〉を乗っ取る?」
「私が喰ったのは、康善の姉の心――」
「何だって?」
「あなたのお姉さんは、こちらの世界の外交官だった。しかも、当時、対中外交の現場に近づきうる立場にあった。私は康善の姉の心を喰い、康善の姉に成りすまし、中国政府の要人と会った」
「何のために?」
「その記憶は、今のあなたにも残っているはず――」
「真天国を内偵するためか?」
「簡単に云えば――」

「バカげてる」
 僕は首を振った。

「そうね――」
 と、康子は云った。
「――莫迦(ばか)げていたかもね」
 と――

 それで、わかった。

 康子は後悔をしている。
 康善の姉の心を喰ったことを、康子は後悔しているのだ。

「――で、その後、どうなった?」
「〈身〉は、すぐに返した。けれど、予期しないことが起こった」
「何が?」
「康善が、姉の〈身〉を求め、犯し、子を身ごもらせた」

 康子の言葉が揺らいだ。
 その揺らぎは、恥じ入る処女のように、艶(なまめ)かしかった。

「何のために?」
「わからない。それが知りたいから、康善の〈心〉を守った」
「何だって?」
「あなたの〈心〉に眠る康善の記憶を、残らず呼び覚ませば、今でも、すぐにわかる」
「呼び覚ますことが、できるのか?」
「できる。その代わり――」
「――わかってるよ。僕が、今の僕ではなくなるんだな? きみが作った僕という存在が壊れるんだ」
「その通り――すべてが消えてなくなる。東京駅の11番ホーム、あなたと話した桜の話、場の話、カフェの心象風景、ゴーレムの横顔、源氏物語のこと、芝居のこと、共に切り抜けた砂漠の戦い、太平天国の栄光――すべてが消えてなくなる。偽の記憶は、偽の記憶――真の記憶の前には、ひとたまりもない」

「まいったな――」
 僕は宙を仰いだ。
「――僕は本当にゴーレムなんだ。たしかに、云われてみれば、わかるんだよ。さっきまでの僕の記憶には、中身がなかった。見事なまでに実体がないんだ。まさに、ゴーレムって、こんな感じだなと思えるよ」

「そのゴーレムの記憶を捨て、康善の記憶に還るか――それともゴーレムの記憶を保ち、康善の記憶に還らないか――どうする?」
「どうするって、僕が決めるのか?」
「だって、あなた以外には決められない」

 僕は黙った。
 康子も黙った。

 新幹線の先頭車両の周りには、「立入禁止」の囲いができていた。
 その中で、制服や作業服の人々が、忙しく立ち働いている。

 その様子を――
 僕らは、何とはなしに、眺めていた。

 先に――
 僕が口を開いた。

「正直に云うとね、自分のことは、どうでもいいと思ってる。むしろ、別のことが気になっててね」
「別のこと?」
「たぶん、きみと同じだよ」

 康子の小さな目が大きく見開かれた。

「きみは知りたがっている――なぜ、康善が姉と通じたか――そして、なぜ、きみを裏切ったのか」

 康子は唇を噛んだ。
 その動揺が、なぜか、手にとるように伝わってきた。

 僕は追い討ちをかけた。
「きみだって、薄々は気付いてる、なぜ康善が姉の〈身〉を抱いたのか――」

「私には、わからない」
「嘘だ。わかっている。認めたくないだけだ」

 康子の声が悶えた。
「あなたまで私を責めるのね」

「そうだよ。自分で作ったゴーレムに責められる気分は、どんなだい?」
 その言葉に――
 康子は、潤んだ瞳で、僕を見詰め返した。

 それでも、僕は云い放った。
「康善が姉の躰を抱いたのはね――」

 その言葉は、できるだけ冷酷に、かつ止めを刺すように――
「――きみを本気で愛してしまったからさ」

     ◆

「よろしいですか――」
 と、駅員が声をかけた。先頭車両の方を右手で示し、
「――飛び込まれた方の、お身内でいらっしゃいますね?」
 と――

「そうです――」
 と、僕は答えた。
「――弟です」
 と――

「ちょっと、あちらに、おいで頂きます。少しお時間がかかりますが――」
「いいですよ」

 駅員は康子の方にも振り向いた。
「あなたも、お身内でいらっしゃいますか?」

 康子は答えなかった。
 その潤んだ瞳は、今にも張り裂けんばかりに震えていた。
 ここで、

 ――いいえ。

 と、康子が答えてしまえば――
 僕らは永遠に別離する。
 そういう直感が、僕にはあった。
 そして、たぶん康子にも――

 康子は駅員には答えず、僕に向かって云った。
「決めたのね、康善に還ることを――」

「ああ――」
 と、僕は答えた。
「そうしようと思う」
 と――

「後悔はしない?」
「しないよ。何だったら、今すぐにでも還してくれないか?」
「本当に?」

 僕は意識して声を荒げた。
「きみらしくないな。本当は還せないんじゃないのか?」

 康子は目を閉じた。
「私は構わない、あなたが望むなら――」

「――なら、頼むよ」
 と、僕が畳み掛けると――
 康子の左の瞳から、光るものが落ちた。

(なぜ?)

 康子――
 なぜ、きみが泣く?

 康子は左目を抑え、俯きながら訊いた。
「一つ、訊いてもいい?」

「何だい?」
「今のあなたは、自分の記憶を、どこまで信じられている?」

「何だって?」
 妙なことを訊く、と思った。

「今のあなたって、どんな感じ? 自分が自分であることを疑わない?」
「何を云ってるんだ」
「お願い――答えて――」
「そんなことは、きみのほうがよく知ってるだろう。僕は、きみに作られたゴーレムなんだ」
「私には、わからない」
「ウソを云うな」
「嘘ではない。作った私にはわからない。作られたあなたに訊くしかない」
「なぜ、そんなことが気になるんだ? きみにとっては、所詮、人ごとだろう?」
「そうじゃない!」

 ふと思い出した。
 いつだったか、

 ――私もゴーレムかもしれない。

 と、康子が云ったことを――

 康子は懸命に涙を拭った。
 それは、君主の涙でも、女優の涙でもなかった。
 どこにでもある――普通の涙だ。

 そんな涙をみていたら――
 わかってきた。

 当初、僕は思っていた――愛していたのは康善だけではない――康子も、康善のことを、愛していたのではなかったか、と――

 けれど、そうではないのだ。
 康子が愛したのは――いや、愛しかけたのは――
 康善ではなくなった康善――つまり、僕ではなかったか、と――

 偽の記憶の康子の笑みが――
 清(さや)かな水となって、僕の脳裏を流れた。

 もちろん、真実はわからない。
 康子の真実なんて、僕にはわからない。

 ただ一つ、云えることは――
 僕が、康子に感じた親しみのわけ――それは、たぶん、僕らが似ていたからだ。

 僕の苛立ちや悲しみを、康子はわかってくれた。
 だからこそ、康子は泣いている――

 わかったよ、康子――
 きみも記憶を弄られたことが、あるんだろ?


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