第1話 東京駅の11番ホーム


 その駅に、そのホームはない。
 東京駅の11番ホームである。

 1番から10番ホームまでと、12番、13番ホームとがあった。
 11番ホームだけがない。

 11番線はある。
 11番線は業務用で、客の乗降のためのホームは必要なかった。

 今は12番、13番ホームもない。
 東北・上越新幹線が乗り入れたときに、撤去された。

 つまり――
 11番ホームは、初めから存在していない。
 東京駅には、存在したことがない。

 なのに――
 僕が神咲康子(かんざきやすこ)と出会ったのは、東京駅の11番ホームがきっかけである。

「そうだっけ?」
 と、康子は首をかしげる。

 が、間違いはない。

 僕と最初に会ったときのことを忘れるなんて、康子も酷いヤツだ。

「怒らないでよ――」
 と、康子は意に介さない。
「――付き合いが長くて、わからなくなっただけじゃない」
 と笑う。

     ◆

 20年くらい前のことになる。

 僕は恋人と別れ、東京駅の構内をさまよっていた。
「別れ」というのは、いわゆる「さよなら」のことであった。

 その夜、田舎に帰省していた彼女が、東京駅に戻ってくることになっていた。
 出迎えた僕に一言、
「好きな人ができた」
 と云う。

「そうか」
 と云って――
 僕らは別れた。

 他に、どんな言葉があったというだろう?

 顔が真っ赤になった。
 頭は真っ白になった。

 彼女のことが、まだ、
(好きだ……)
 と気が付いた。

 八重洲中央口から、総武線・地下ホームのエスカレータに向かって歩いていると――
 小さな女の子とすれ違った。
 ピンクのワンピースと幼稚園児風の黄色い制帽――背には大きな緑色のリュック――
 東京駅を一人で歩くにしては幼すぎる。

 僕と目が合った。

 すぐに――
 女の子は泣き出した。
 けたたましい泣き声が耳をつんざいた。

 そのまま通り過ぎるのは、ムリだった。
 そんなことをしたら、きっと、こっちまで泣きたくなる。

 僕は、足下に寄り、
「どうしたんだい?」
 と覗き込んだ。

 当時の僕は、幼子の扱いには慣れていた。
 別れた彼女には十歳くらい年上の兄がいた。
 その兄には子供があったのだ。

 もっとも――
 このときの僕は、そういう経験など、どうでもよかった。

 むしろ、虚しかった。
 ただ、ひたすらに、虚しかった。

 女の子は、ワンワンと泣きながら、

 ――11番ホームが、わからない。

 と云う。

(11番ホーム?)
 よくきくと、そこに母親が迎えに来るそうだ。

 早速、駅員を捕まえ、11番ホームの場所を聞き出そうとした。

 が、
「11番ホームなんて、ありませんよ」
 と、駅員は云う。

 僕は、そのときになって初めて、東京駅には、11番線はあっても11番ホームはないことを、知った。

「11番線は業務用です。プラットホームはありません。ホームがあるのは1番線から10番線までと、12番、13番線です」

 では、この子の云っていることは何なのか?

「たぶん、何かの間違いでしょう」
 と、駅員は笑った。

 昔、女の人が男をふるときに、

 ――東京駅の11番ホームで逢いましょう。

 などと云ったそうである。

 もちろん、幼女にそんな嘘をつく必要はない。
 たしかに、ただの間違いだと、僕も思った。

「お子さんのお名前を伺いましょう。迷子のアナウンスをしておきますよ」
 と、駅員が云うので――
 名前を聞き出そうと、振り返ったら――
 もう、そこに幼女の姿はなかった。

「どこいったんだ?」
 と舌を打ったが、あとの祭である。

「――では、もし、また、みかけたら、お知らせ下さい。こちらでも気を付けてはおきますけど……」
 と、駅員は云った。
「すみません」
 と、僕は詫びた。

 駅員と別れてすぐに、幼女が駆け寄ってきた。
「どこにいってた?」
 と問うても、首を振るばかりである。

 泣き腫らした目は、何かに脅えているようでもあった。

 僕は、ゆっくりと事情を説明し、駅員のところに行って、お母さんを呼び出してもらおうと勧めた。

 が、幼女は首を振る。

 ――どうしても嫌だ。

 と云ってきかない。

 延々30分近くにわたって説得を試みたが、無駄だった。

 途方に暮れた。

 そこに――
 声をかけてきた女がいる。
「どうしました?」

 若い女だった。

 白い巻きスカートには黒いタイツが映えた。
 やはり黒色のウエアには無駄がなく、華奢な躰の線が露になっていた。

 僕と同い年くらいだったのだが――
 落ち着きをたたえた目元が、母性の慈愛を宿していた。

 まさに、
(地獄に仏――)
 であった。

(この人なら、ダダッ子もうまく扱えそうだ)
 と思った。

 今にして思えば、何の根拠もなかったのだが――

「11番ホーム?」
 と、女は訊いた。

「駅員に云ったら、そんなホームはないって云うんだけど……」
「他に心当たりは?」
「いや、何も……」

 女は、幼女の足下に寄り、何事かを話し始めた。
 すっかり疲れ果てた僕は、その様子を、黙って見守っていた。

 やがて――
「行きましょう」
 と、女が云った。

「どこへ?」
 と問うと、
「11番ホーム」
 と云う。

「本気か? 11番ホームなんて、存在しないんだぞ?」
「嫌なら、いい。一人でいくから――」
 冷たい言葉とは裏腹に、女の顔は微笑んでいた。

     ◆

 それからのことは、よく覚えていない。

 気付いたら、僕はホームに立っていた。
 無人のホームだったと思う。

 11番線には、ブルー・トレインが車体を休めていた。

 乗降口が開き、列車の中から人が走り出てきた。
 子供の名前を叫んでいる。それが母親だった。

 幼女も、
「お母さん!」
 と叫んで、駆け出した。

「どうも、ありがとうございました」
 と、母親が云うので、
「どういたしまして――」
 と、女は頷(うなず)いた。

「本当に、何と御礼を申し上げたらいいのやら……」

 母親の言葉には違和感があった。
 たしかに、迷子の我が子と再会できたのだから、感謝するのは当然にしても、
(そこまで、へりくだるものか?)
 と思った。

 女は母親の肩に手を乗せ、無言で乗車を促した。
「もう二度と、この子は離しません」
 母親は、そう誓い、列車の中に消えていった。

 その後のことも曖昧だ。

 女とは、そのまま特に挨拶をすることもなく、自然と離ればなれになった気がする。

     ◆

 それから数日後――
 僕は自宅近くの喫茶店で週刊誌に目を通していた。

 パラパラとページをめくっていて、
(あれ?)
 と思う。

 ――東京駅で母子、投身自殺。身元は?。

 という記事であった。

 母親が幼い少女を抱え、東京駅の11番線に飛び込んだ。
 10番ホームから線路に飛び降り、次いでホームのない隣の11番線に飛び込んだという。

 母親は即死に近かった。
 子供は、しばらく生死の境をさまよったが、1週間後に亡くなった。

 走行列車への投身自殺は珍しくはない。
 それが週刊誌の記事になったのは、この親子の身元が最後まで判明しなかったからである。

 ――極めて異例のこと――

 であって、

 ――気味が悪い。

 という記者の感想が、その記事を締めくくっていた。

 事件は1ヶ月前だと書かれてあった。
 母親は即死――
 子供は、だいぶ遅れ、1週間後に死んだ。

(母親に遅れて……?)
 僕は、11番ホームからブルー・トレインに乗っていった親子のことを思い出していた。
 奇妙な符合ではある。

(――もしかして、僕のみたものは亡霊か?)
 などと勝手に想像を膨らませた。

 そこへ――
「亡霊ではない」
 と声がした。

 みると、向かいの席に女が座っていた。
 あのときの若い女だった。

「カンザキヤスコ――よろしく――」
 と挨拶をする。

「カンザキ」は「神崎」だと思った。
 が、違う――「神咲」であった。

「亡霊じゃないんなら、なんなんだい?」
 と訊いてみた。

 が、女は答えない。
「そのうちに説明する」
 と、はぐらかすだけであった。

 以来、20年近く、説明は受けていない。

 そう――
 あれから、もう20年が経っている。

 康子は今も若い。
 不思議なことに、あの頃と何も変わらない。

(そんなバカな)
 とは思う。
 が、それが実感である。


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