お互いの顔がハッキリみえるまでになると――
僕にも、かなり事態が飲み込めてきた。
まず、康子が云う「会わせたい者」の正体がわかった。
人馬の群れの先頭で、鞍に跨(また)がっている者は、恰幅の良い老人である。
その顔には見覚えがあった。
いつだったか、僕にチョッカイを出した老人である。康子のことを、
――人の心を喰う。
と表した老人だ。
20メートルほどの距離を残したところで――
僕らは、ほぼ同時に、馬の歩みを止めた。
「下手人を引き渡す」
と、老人は云った。
その言葉とともに、人馬の群れの中から男女二人組が引っ立てられてきた。
それぞれ武者二人によって両脇から抱きかかえられている。
そのまま、身を砂地の上に投げ出された。
手足は縛られ、胴体には鎖のようなものが巻かれいた。
その男女の顔がハッキリみえたとき、僕は、
(え――?)
と思った。
男のほうは僕の兄にそっくりだった。
霞ヶ関の役人で、将来は事務次官かもしれない、と云われている兄である。
僕が精神を患い、朝から晩まで本を読んで暮らしているのをみて、複雑な気持ちを吐露した兄である。
いや――
よくみれば、そんなには似ていない。
が、似ていると思えば似ている。兄その人にもみえる。
不思議であった。
そのような目でみると、女の姿は、兄の妻に似ている。
康子が操作した記憶の中で、
――あんたなんか、生まれてこなければ良かったのよ!
と、僕を詰った義理の姉である。
「その者の記憶は、どうやら完全に抑え込んだようだな」
老人は僕の顔を無遠慮に眺めた。
康子は女優の笑みで応じた。
「刷り込まれた『太平天国の栄光』を、消し去る必要があったので――」
「勘違いするな。儂らが刷り込んだのではないぞ。その男が、自ら好んで刷り込ませたのだ」
「私は信じない」
「勝手にするがよい」
老人は笑った。
「その男が、なぜ我らに魂を売ったのか、そなたには終生わかるまい」
「他に申し述べることはないの?」
康子の微笑は消えない。
「その男の双子の姉は、どこにやった?」
「すでに朽ち果てている」
「〈身〉のことは、わかっておる。〈心〉を、どこにやったのか、と訊いておる」
「答える必要はない」
老人は、せせら笑った。
「その云い草はなかろうて――自分で喰っておきながら――」
康子は口角を歪めた。
女優の顔が打ち砕かれた瞬間だった。
老人は勝ち誇った。
「そなたは、その男の姉の〈心〉を喰い、その〈身〉を我が物とした上で、その男と契り、子を宿さしめた。その事実は、今さら打ち消せるものではないわ」
「黙れ!」
康子は細身の剣を抜き放ち、切っ先を老人に突き付けた。
刃を伝う青い炎は、メラメラと燃え盛っている。
「ほほう、この場で儂(わし)を討つか? 一介の使者として参った儂を? よいとも、小娘――儂らを屠(ほふ)るくらい、そなたには造作もなきこと――だが、ここで儂らを手にかけ、何か得るものはあるか? 人心の離反は必定ぞ?」
「私の非道を糾すためだけに、わざわざ参ったとでも申すのか?」
老人は嘲笑った。
「非道と云うたか! さも弱気よの。それだけ後ろめたき思いということか。愉快だ! 実に愉快だ!」
「黙れ!」
そのとき――
僕らを遠巻きにする無数の人馬が姿を現した。
数十、数百、数千――とても数えきれない。
僕らの背後に姿を現した人馬の群れから、十五、六騎ほどが抜け出し、僕らの下に寄ってきた。
先頭には、先ほどの戦いで「カヨ」と呼ばれていた女武者の姿があった。
老人は、カヨの姿をみて嫌らしい笑みを浮かべた。
「さては、昔なじみの懐刀をしのばせおったか――」
康子は短く舌を打つと、前方に突き出した切っ先を静かに砂地へと下ろした。
悔しさで歪んだ口元が、ゾッとするほど、色気を散らした。
老人の行動は素早かった。
「たしかに下手人は引き渡したぞ」
との捨て台詞を残し、馬首を返して地平に向かって駆け出していった。
その背に、残りの数百騎が続いた。
周囲で、太鼓やドラの音が鳴り始めた。
遠巻きにしていた数千もの人馬が、老人たちの追撃にかかるようだ。
それをみて――
「カヨ!」
康子は叫んだ。
「は」
「追い討ちは無用――シコンスイを押しとどめよ!」
「は!」
太鼓やドラの音が、瞬く間に鳴り止んだ。
◆
突如、現われた軍隊は、若い男が率いていた。
――紫金帥(しこんすい)
の称号をもつ将軍であると云う。
まだ、びっくりするほどに若かった。高校生くらいの顔立である。
どうやら、カヨと呼ばれている女武者の息子らしい。
その紫紺帥を呼び寄せ、康子は下問した。
「誰の許しで参ったか?」
「は?」
紫紺帥は首を傾げた。
康子の命令に従っていたつもりらしい。
「申し訳ござりませぬ――」
と割って入ったのは、カヨであった。
「――このカヨが呼び寄せました」
その言葉に、康子は天を仰ぎ、大きく息を吐いて云った。
「カヨ」
「はい」
「あなたは、今でも私の守役(もりやく)のつもりでいるの?」
康子の顔は、いつもの女優の顔に戻っていた。
カヨは畏まって両膝を突き、頭を垂らした。
「僭越ながら、このカヨ、終生、そのつもりでおりまする。もし、お気に触りましたるときは、いつでも死を賜りますように――」
カヨの口元には穏やかな笑みが漂っていた。
「よくもヌケヌケと――」
康子の口元にも笑みがこぼれている。
真剣に詰問しているのではないらしい。
「紫紺帥――」
「は――」
「あれなる者たちは、すみやかに裁定府(さいじょうふ)に引き渡せ」
「は!」
「それから――」
「はい?」
「これからも母の云い付けを、よく守るように――」
「は?」
「恐れ入りましてござりまする」
返事をしたのは、カヨであった。
紫紺帥が部将たちに合図を送ると――
老人たちが置いて行った男女二人組が引き立てられていった。
男のほうは、康子に向かって、
「弟を返せ!」
と罵った。
それをみて、女が何かを叫んだ。
――きき苦しい! やめなさいよ!
というようなことだったと思う。
◆
紫紺帥やカヨらが去り――
再び、僕らは広大な砂地に二人きりとなった。
「さて、何から話しましょうか?」
と切り出した康子に対し、僕は即応した。
「まずは、康善という将軍について訊きたい。いったい何者だったんだ?」
「では、まず、その話から――」
康善には双子の姉がいた。
他にも父母および兄がいた。
双子の姉も兄も〈場を張る者〉――つまり、魔術師――であったが、康善に頭抜けた〈力〉があったので、家督は康善が継いだ。
将軍として東涯宮に仕え、多くの武勲をあげ、康子の信任も厚かった。
「ただし、それは〈場の世界〉での話――」
僕らの世界での康善は、〈力〉を適切に操れず、精神を病んでいるとされ、社会に適応することができなかった。
康善よりも〈力〉の弱かった姉や兄は、それぞれ外交官や内政官僚として、社会に巧く適応していた。
「ところが――」
今から五年ほど前に――
康善は、双子の姉と通じた。
姉は弟の子を妊(みごも)った。
「なぜ、そんなことを? 実の姉と交わるなんて、ふつう考えもしないだろう?」
「それは私にも、わからない。ただ、康善と姉とは異様に仲が良かった。そういうことがあっても、不思議ではなかった」
僕らの世界に適応できなかった康善を助けたのは、姉だったと云う。
康善の家は代々、文官として東涯宮に仕える身であったが、姉が康善の〈力〉を見越し、武官として仕えさせた。
「その結果、康善の人生は開け、家は大いに栄えた」
「それにしたって、実の姉を抱いたりするか?」
「もしかしたら――」
康子は、ゆっくりと言葉を切りながら、云った。
「康善は『太平天国の栄光』を求めたのかもしれない」
「また、その話か――」
「人は、長年にわたって親しんできた規範を踏み外すときに、無類の充足感を得る。それは快感と云ってよいほどの充足感――」
柔らかな口調とは裏腹に――
康子の顔は能面になっていた。
僕が視線を合わせようとすると、かえって逃げるように顔を背けた。
追いすがるようにして、僕は質問を浴びせた。
「できてしまった子供は、どうなったんだ?」
二人は子を産むことを決断した。
すぐに周囲の知れるところとなり、母は二人を庇ったが、父は二人を憎み、二人を庇う母をも憎んだ。
父は若い女と駆け落ち同然にして家を去り、失意の母は脳卒中で倒れ、〈定命の身〉を失った。
母は〈場を張る者〉ではなかったので、その〈心〉は永遠に失われた。
母の最期に接するに及び、兄も二人を憎むようになった。
とくに、兄の妻は康善を激しく憎んだ。
面と向かって罵ったことが、何度もあったらしい。
「いつだったか、そのときの記憶の断片を、きみは僕にみせたね?」
と云うと――
康子は短く頷いた。
「わかってきた?」
「ああ――」
わかりたくはなかった。
が、わかってしまった。
わかってしまったことは、どうしようもなかった。