第14話 太平天国の栄光(2)


 お互いの顔がハッキリみえるまでになると――
 僕にも、かなり事態が飲み込めてきた。

 まず、康子が云う「会わせたい者」の正体がわかった。

 人馬の群れの先頭で、鞍に跨(また)がっている者は、恰幅の良い老人である。
 その顔には見覚えがあった。
 いつだったか、僕にチョッカイを出した老人である。康子のことを、

 ――人の心を喰う。

 と表した老人だ。

 20メートルほどの距離を残したところで――
 僕らは、ほぼ同時に、馬の歩みを止めた。

「下手人を引き渡す」
 と、老人は云った。

 その言葉とともに、人馬の群れの中から男女二人組が引っ立てられてきた。
 それぞれ武者二人によって両脇から抱きかかえられている。

 そのまま、身を砂地の上に投げ出された。
 手足は縛られ、胴体には鎖のようなものが巻かれいた。

 その男女の顔がハッキリみえたとき、僕は、
(え――?)
 と思った。

 男のほうは僕の兄にそっくりだった。
 霞ヶ関の役人で、将来は事務次官かもしれない、と云われている兄である。
 僕が精神を患い、朝から晩まで本を読んで暮らしているのをみて、複雑な気持ちを吐露した兄である。

 いや――
 よくみれば、そんなには似ていない。
 が、似ていると思えば似ている。兄その人にもみえる。

 不思議であった。

 そのような目でみると、女の姿は、兄の妻に似ている。
 康子が操作した記憶の中で、

 ――あんたなんか、生まれてこなければ良かったのよ!

 と、僕を詰った義理の姉である。

「その者の記憶は、どうやら完全に抑え込んだようだな」
 老人は僕の顔を無遠慮に眺めた。

 康子は女優の笑みで応じた。
「刷り込まれた『太平天国の栄光』を、消し去る必要があったので――」
「勘違いするな。儂らが刷り込んだのではないぞ。その男が、自ら好んで刷り込ませたのだ」
「私は信じない」
「勝手にするがよい」

 老人は笑った。
「その男が、なぜ我らに魂を売ったのか、そなたには終生わかるまい」
「他に申し述べることはないの?」
 康子の微笑は消えない。

「その男の双子の姉は、どこにやった?」
「すでに朽ち果てている」
「〈身〉のことは、わかっておる。〈心〉を、どこにやったのか、と訊いておる」
「答える必要はない」

 老人は、せせら笑った。
「その云い草はなかろうて――自分で喰っておきながら――」

 康子は口角を歪めた。
 女優の顔が打ち砕かれた瞬間だった。

 老人は勝ち誇った。
「そなたは、その男の姉の〈心〉を喰い、その〈身〉を我が物とした上で、その男と契り、子を宿さしめた。その事実は、今さら打ち消せるものではないわ」

「黙れ!」
 康子は細身の剣を抜き放ち、切っ先を老人に突き付けた。
 刃を伝う青い炎は、メラメラと燃え盛っている。

「ほほう、この場で儂(わし)を討つか? 一介の使者として参った儂を? よいとも、小娘――儂らを屠(ほふ)るくらい、そなたには造作もなきこと――だが、ここで儂らを手にかけ、何か得るものはあるか? 人心の離反は必定ぞ?」
「私の非道を糾すためだけに、わざわざ参ったとでも申すのか?」

 老人は嘲笑った。
「非道と云うたか! さも弱気よの。それだけ後ろめたき思いということか。愉快だ! 実に愉快だ!」

「黙れ!」

 そのとき――
 僕らを遠巻きにする無数の人馬が姿を現した。
 数十、数百、数千――とても数えきれない。

 僕らの背後に姿を現した人馬の群れから、十五、六騎ほどが抜け出し、僕らの下に寄ってきた。
 先頭には、先ほどの戦いで「カヨ」と呼ばれていた女武者の姿があった。

 老人は、カヨの姿をみて嫌らしい笑みを浮かべた。
「さては、昔なじみの懐刀をしのばせおったか――」

 康子は短く舌を打つと、前方に突き出した切っ先を静かに砂地へと下ろした。
 悔しさで歪んだ口元が、ゾッとするほど、色気を散らした。

 老人の行動は素早かった。
「たしかに下手人は引き渡したぞ」
 との捨て台詞を残し、馬首を返して地平に向かって駆け出していった。
 その背に、残りの数百騎が続いた。

 周囲で、太鼓やドラの音が鳴り始めた。
 遠巻きにしていた数千もの人馬が、老人たちの追撃にかかるようだ。

 それをみて――

「カヨ!」
 康子は叫んだ。

「は」
「追い討ちは無用――シコンスイを押しとどめよ!」
「は!」

 太鼓やドラの音が、瞬く間に鳴り止んだ。

     ◆

 突如、現われた軍隊は、若い男が率いていた。

 ――紫金帥(しこんすい)

 の称号をもつ将軍であると云う。
 まだ、びっくりするほどに若かった。高校生くらいの顔立である。
 どうやら、カヨと呼ばれている女武者の息子らしい。

 その紫紺帥を呼び寄せ、康子は下問した。
「誰の許しで参ったか?」

「は?」
 紫紺帥は首を傾げた。
 康子の命令に従っていたつもりらしい。

「申し訳ござりませぬ――」
 と割って入ったのは、カヨであった。
「――このカヨが呼び寄せました」

 その言葉に、康子は天を仰ぎ、大きく息を吐いて云った。
「カヨ」
「はい」
「あなたは、今でも私の守役(もりやく)のつもりでいるの?」

 康子の顔は、いつもの女優の顔に戻っていた。

 カヨは畏まって両膝を突き、頭を垂らした。
「僭越ながら、このカヨ、終生、そのつもりでおりまする。もし、お気に触りましたるときは、いつでも死を賜りますように――」
 カヨの口元には穏やかな笑みが漂っていた。

「よくもヌケヌケと――」
 康子の口元にも笑みがこぼれている。
 真剣に詰問しているのではないらしい。

「紫紺帥――」
「は――」
「あれなる者たちは、すみやかに裁定府(さいじょうふ)に引き渡せ」
「は!」
「それから――」
「はい?」
「これからも母の云い付けを、よく守るように――」
「は?」

「恐れ入りましてござりまする」
 返事をしたのは、カヨであった。

 紫紺帥が部将たちに合図を送ると――
 老人たちが置いて行った男女二人組が引き立てられていった。

 男のほうは、康子に向かって、
「弟を返せ!」
 と罵った。

 それをみて、女が何かを叫んだ。

 ――きき苦しい! やめなさいよ!

 というようなことだったと思う。

     ◆

 紫紺帥やカヨらが去り――
 再び、僕らは広大な砂地に二人きりとなった。

「さて、何から話しましょうか?」
 と切り出した康子に対し、僕は即応した。

「まずは、康善という将軍について訊きたい。いったい何者だったんだ?」
「では、まず、その話から――」

 康善には双子の姉がいた。
 他にも父母および兄がいた。

 双子の姉も兄も〈場を張る者〉――つまり、魔術師――であったが、康善に頭抜けた〈力〉があったので、家督は康善が継いだ。
 将軍として東涯宮に仕え、多くの武勲をあげ、康子の信任も厚かった。

「ただし、それは〈場の世界〉での話――」

 僕らの世界での康善は、〈力〉を適切に操れず、精神を病んでいるとされ、社会に適応することができなかった。
 康善よりも〈力〉の弱かった姉や兄は、それぞれ外交官や内政官僚として、社会に巧く適応していた。

「ところが――」

 今から五年ほど前に――
 康善は、双子の姉と通じた。
 姉は弟の子を妊(みごも)った。

「なぜ、そんなことを? 実の姉と交わるなんて、ふつう考えもしないだろう?」
「それは私にも、わからない。ただ、康善と姉とは異様に仲が良かった。そういうことがあっても、不思議ではなかった」

 僕らの世界に適応できなかった康善を助けたのは、姉だったと云う。
 康善の家は代々、文官として東涯宮に仕える身であったが、姉が康善の〈力〉を見越し、武官として仕えさせた。

「その結果、康善の人生は開け、家は大いに栄えた」
「それにしたって、実の姉を抱いたりするか?」

「もしかしたら――」
 康子は、ゆっくりと言葉を切りながら、云った。
「康善は『太平天国の栄光』を求めたのかもしれない」

「また、その話か――」
「人は、長年にわたって親しんできた規範を踏み外すときに、無類の充足感を得る。それは快感と云ってよいほどの充足感――」

 柔らかな口調とは裏腹に――
 康子の顔は能面になっていた。

 僕が視線を合わせようとすると、かえって逃げるように顔を背けた。
 追いすがるようにして、僕は質問を浴びせた。

「できてしまった子供は、どうなったんだ?」

 二人は子を産むことを決断した。
 すぐに周囲の知れるところとなり、母は二人を庇ったが、父は二人を憎み、二人を庇う母をも憎んだ。
 父は若い女と駆け落ち同然にして家を去り、失意の母は脳卒中で倒れ、〈定命の身〉を失った。
 母は〈場を張る者〉ではなかったので、その〈心〉は永遠に失われた。

 母の最期に接するに及び、兄も二人を憎むようになった。
 とくに、兄の妻は康善を激しく憎んだ。
 面と向かって罵ったことが、何度もあったらしい。

「いつだったか、そのときの記憶の断片を、きみは僕にみせたね?」
 と云うと――
 康子は短く頷いた。
「わかってきた?」

「ああ――」

 わかりたくはなかった。

 が、わかってしまった。
 わかってしまったことは、どうしようもなかった。


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