第15話 再び、東京駅の11番ホームへ(1)


 気が付くと――
 僕は新幹線のホームにいた。

 東北新幹線の先頭車両が、僕の目の前にあった。

 いつか、みたはずの光景だった。
 が、しかとは思い出せない。
 つい最近のようにも、ひどく昔のようにも思えた。

 東北新幹線の先頭車両は――
 ホームの途中に止まっていた。

 そして――
 その先頭車両の下には、何かが巻き込まれているようだった。
 巻き込まれ、ひしゃげ、潰れている。

 それが何であるかを――
 僕は知っていた。

 いや、「誰であるかを――」だ。

 僕の立ち位置からでは、よくみえない。

 みえなくて良かった。
 今の僕には、みる必要もなかった。

(思い出した)
 僕は東北・上越新幹線のホームにいる。

 東北・上越新幹線のホーム――

 もし、東京駅に11番ホームが存在していれば――
 それは、ここに位置したはずだ、というホームである。

 僕は、ようやく自分の姿勢に気がついた。
 ホームの中ほどで、両膝と両足を突き立て、腰を浮かしたまま、躰を固めている。
 それよりも躯を持ち上げると、みえてしまう――
 ひしゃげ、潰れているものが、みえてしまう――

 だから――
 そのまま姿勢を保っていた。

 僕は周囲を見渡した。
 みつけたいのは、女の姿だ。
 僕の〈心〉を解き放ったであろう女だ。

 はたして――

 女がいた。
 若い女だ。白い巻きスカートが黒いタイツに映えていた。
 上体のウエアには無駄がなく、華奢な肉付きが露になっている。

 女は横顔をみせていた。
 少し細長く、凛とした少年の面立ち――口元はキリっと引き締まり、目元は凛々しく、黙って前を見据えている。
 そんなに伸ばしていない後ろ髪は、地味な髪飾りで、端正にくくられていた。

 少年の佇まい――それでいて女の色香を匂わせる――

 こんな女に――
 僕は会ったことがない。

 なのに、僕は思った。
(ここにいたか)
 と――

 そう――
 僕は、この女を知っている。

 それは――
 知り合って20年になるはずの――

 康子――
 きみだな?

     ◆

 女は、しばらく横顔をみせていたが――
 やがて、ゆっくりと僕の方に歩み寄ってきた。

「私が誰だか、わかるのね」
 その声は喧噪を涼やかに突き通った。

「ああ――」
 と、僕は答えた。

 間違いない。
 康子だ。〈定命の身〉を携えた康子である――付き合って20年になるはずの……。

 いや――所詮、偽りの記憶だ。
 本当は20秒だって付き合ってはいない。
 僕が康子と知り合ったのは、

 ――東京駅の11番ホーム

 である。

 あるはずのないホーム――

「たった今、あなたの目の前で起こった事を、手短かに説明すると――」
 と、康子は云った。

「ああ――」
 と、僕は気のない返事をした。

「母親が娘を抱いて飛び込んだ。夫の目の前で――」
「ああ――」
「その夫は、〈場を張る者〉ではあったけれども、仔細あって、今は〈場〉が張れない――〈場を感じる者〉となっている。名を康善(やすよし)という――」
「覚えてるよ。東涯宮の将軍だろう? さっきまで、きみが話してた――」
「ちゃんと覚えているのね」
「ああ――」

 僕は、浮かせていた腰を、ホームの上にストンと下ろした。

 康子は、さらに僕の方に寄ってきて――
 しゃがみ込んで、僕の横顔を覗き込んだ。

 康子は云う。
「――なら、その夫が、あなただと云っても、信じられるのね」

 康子の口調は、さり気なかった。だから、僕の返事も、
「ああ――」
 と、さり気なかった。

 康子は、僕の横顔を覗き込むのをやめ――
 スクっと腰を伸ばし、僕の真横に立った。
 立って、新幹線の先頭車両の方をみた。

 康子の胸の膨らみが、僕の頭の上にきた。

 先頭車両の周囲には人集(だか)りができていた。

 ――押さないで!

 と、駅員たちが喚いている。

「康善は私に背き、真天国と和を結んだ。私は、それを許さず、増援の軍を送り、康善を捕え、その〈心〉を結界に封じ込めた」
「今も封じ込めたままなのか?」
「いいえ――今は解き放っている。たった今、解き放ったところ――」

 僕は苦笑した。
「なるほど――」
 ほとんど失笑に近かった。
「――だから、こうして、きみとナマの会話が交わせるわけか」

「そう――」
 と、康子は頷いた。
「――ただし、康善の〈心〉が蓄える記憶のうち、私たちに把握できなかったものについては、眠らせたまましてあるから、そのつもりで――」

「どういうことだ?」
「私は、康善を康善たらしめていた記憶の全てを呼び覚ましたわけではない」
「――なら、結局、わからなかったのか、なぜ康善が東涯宮を裏切ったのか――」
「ええ、今のあなたが、わからないのなら――あるいは――」

 康子は一旦、言葉を切って、ホームの下に短く視線をやってから――
 言葉を継いだ。
「――もう一人、康善以外に、わかる人がいたけれど、たった今、命を落とした」

 わかっている。
 それが姉だ。僕の双子の姉である。幼い頃から常に一緒だった。
 姉でもあり、妻でもあり――もう一人の自分とさえ、云えたかもしれない。

 姉は、

 ――さよなら。

 と云って、娘を抱え、〈身〉を投げた。
 僕の目の前で――

 娘は、姉と僕との間にできた子だ。
 たしか来年、小学校に上がるはずだった――

 一瞬の出来事だ。

 以上は、僕自身の記憶に基づく。
 康子と過ごした偽りの記憶が裏打ちをする――「僕自身の記憶」である。

 康善は、自己というよりは、他者だった。

 僕は「僕」であって康善ではない。
 かつて自分が康善であったということを、僕は単に知っているだけなのだ。

「今のあなたは、私が再編した記憶に依って成り立っている。康善が培った記憶を、部分的に取り出し、私たちが調えた新たな記憶に繋ぎ合わせてある」
「どういうことだ?」
「あなたのお姉さんが、あなたの目の前で、あなたの娘を抱いて飛び込んだのは、今から数分前のこと――」
「数分?」
「あなたは、お姉さんに、今夜ここに呼び出された。そして、今生の別れを切り出され、目の前で飛び込まれた」
「それは、僕ではなく、康善だろ?」
「そう――あなたが、今のあなたになる前のこと――つまり、康善――」
「だから?」
「私は、あなたのお姉さんが〈身〉を投げてから数分で、あなたの記憶を再編した。あなたの〈心〉に流れる時間を、何千万倍にも引き延ばし――」

 僕は苦笑した。
「つまり、僕はゴーレムなんだな、正真正銘の――」

「そんな話も、覚えているのね」
 康子も苦笑した。微笑と云ってもよいくらいの笑みだった。

「なんのために、僕の記憶を弄(いじ)った?」
「あなたの〈心〉を守るため――」
「ウソをつけ――」
「嘘ではない。たった今、あなたは愛する妻を失った。しかも、その妻は姉でもあり、愛しい娘を抱きかかえてさえいた。まさに正視に耐えぬ非業の事象――こうした事象に、康善の〈心〉は耐えかね、今にも崩れ落ちようとしていた。自我が暴走するか、自己を消滅させるか――いずれにせよ、取り返しのつかない事態に至る。だから、記憶を再編し、自我への負荷を軽くした」
「自我への負荷を軽くした?」
「今のあなたには、わかっているはず――自分の記憶が、康善の記憶の全てではないことを――東涯宮のこと、〈場の世界〉のこと、こちらの世界のこと、生まれ育った環境のこと、家族の記憶、生業のこと、姉のこと、私とのこと――今のあなたは、そうした記憶の細部には辿り着けない」
「たしかに、思い出せないね。姉のことを、僕は、ほとんど覚えていない。そんな姉がいたということを、僕は単に知っているだけなんだ」
「康善の自我にとっては、姉にまつわる記憶が、最も危険だった。誰だって、おかしくなるもの――愛した人が無惨に死んだなら――しかも、我が子まで――」
「――だろうな」
「でも、今のあなたなら大丈夫――」
「何が?」
「この惨劇を、今のあなたは、20年前の出来事として認知している。自我への衝撃は格段に軽かったはず――」

「なるほど――」
 と、僕は云った。
「――自我への負荷を軽くするってのは、つまり、そういうことか」


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