第4話 康子(1)


 出会ったときから薄々、気付いてはいたが――
 康子は相当に変わっている。
 その印象は、出会って20年、そのままだった。

 が――
 先日、見知らぬ老人に話しかけられ、改めて意識するようになった。

 精神科からの帰り道――
 いつものように喫茶店に入ると、老人が寄ってきた。
 恰幅がよく、頭髪が真っ白で、身なりの良い老人だった。

 老人は、僕をみるなり、躊躇せず話しかけてきた。
「この店で時々、一緒に話をする女がいるね?」
「はあ……」
 と、僕は頷(うなず)いた。

 康子のことだと、すぐにわかった。

「いつ知り合ったのかね?」
 不躾な質問だ。
 老人の口元は笑っていたが、目元は笑っていなかった。

「そんなことをきいて、どうするんです?」
 と問うと、
「あの女の恐ろしさを、きみは知っているのかね?」
 と問い返された。

「恐ろしさ?」
「あの女は普通の人間とは、わけが違うぞ」

 当惑した。

 康子が変わり者であることは認めよう。
 生活感がなく、物言いは浮き世ばなれしている。

 が、この老人が云うほど変わっているとは思えない。
「恐ろしさ」と云うが、何が恐ろしいのか、皆目わからなかった。

 老人は執拗であった。
 しかも、次第に威丈高になってきた。
「話したまえ。いつ、どこで、どうやって知り合ったか――」

 僕は突き放した。
「話す必要はないでしょう」

「必要はある。きみのためなのだよ」
「僕のため?」
「きみの身のためだ――いや、心のためだ」
「心のため?」
「あの女は人の心を喰う」

 とんでもないことを云うと思った。
(付き合いきれない)

 僕が聞く耳をもたないことに、老人は気付いたようだ。
「わかった。これ以上は云うまい」
 と席を立つ。

 テーブルには口をつけなかったコーヒーカップが残された。

「最後に、もう一つだけ訊くが……」
 と、老人は云った。

「なんです?」
「きみは魔術を知っているのかね?」

(魔術?)
 予想外の言葉だったので、びっくりした。

「もし、きみが魔術を知ったなら、それが分水嶺だ。心するがいい」
 そう云い残し、老人は立ち去っていった。

     ◆

 翌日――
 自宅近くの喫茶店にいくと、康子がいた。
 例によって、特に約束があったわけではない。たまたまである。

「昨日、おかしな爺さんに話しかけられてね……」
 と、僕は云った。
「きみのことを知っていたらしく、色々と変なことを云ってたよ」

 康子は、いつも通りの柔和な笑顔で、
「何と云っていた?」
 と問うた。

「恐ろしい女だと云ってた」
 冗談のつもりであった。
 が、康子は全く笑わなかった。代わりに、
「他には?」
 と訊く。

 康子の反応がみたくて、僕は正直に答えた。
「普通の人間じゃない、と云ってた。人の心を喰うとも……」

「それ、当たっている」
 康子は澄まして答えた。

「本当かい?」
 僕は声に出して笑う。

「僕には、とても、そうはみえないよ」
「そう?」
 康子は、つまらなさそうにテーブルをみた。

「おいおい、きみは本当に恐ろしい女で、人の心を喰ったりするのかい?」

 康子は、とぼけた顔で天井を仰ぐ。
 何か思案しているようだったが、思案の中身は見当もつかない。少なくとも、僕の質問に答えるための思案ではないようだった。

「その老人、他に何か云わなかった?」
「他に?」
「例えば、何か尋ねなかった?」

 康子の顔が真剣だったので、真面目に答えた。
「――そういえば、僕が、きみと、どこで、どう知り合ったかを随分と気にしていたよ」

 康子の瞳に緊張が走った。
「他には?」
 声も鋭くなっている。

 こんな康子は初めてだった。

 僕は気おされるように答えた。
「魔術を知ってるか、と訊かれたよ。『魔術をみたら何かが変わる』みたいなことも云われた」
 康子は席を立った。

 テーブルには、飲みかけのティーカップが残された。

 僕は慌てた。康子が腹を立てたように感じたからである。
「何かいけないことを云ったかい?」

 すると――
 康子は、すぐに、いつもの康子に戻った。

「大丈夫――あなたの責任ではないから……」

     ◆

 康子と別れ、僕は近所の本屋に向かった。
「魔術」という言葉が気になったからである。

 魔術はヨーロッパの精神史と深く関わっている。

 が、ヨーロッパには疎かった。
 それで、少しでも知識を補充しておこうと思ったのだ。
 康子の立腹に動揺していたのかもしれない。

 本屋に入り、適当な書棚の前をぶらついていると、突然、

 ――トントン

 と肩を叩かれた。

「そんな本、いくらよんでも無駄だよ」
 と笑っている。
 あの恰幅のよい老人だった。

「今日は何の用です?」
「また、あの女と話をしたね? あれほど忠告したのに――」
「余計なお世話ですよ」
「きみは本質を見抜く眼力に欠けているらしい」
 語調に嘲弄の響きがあった。

「いいじゃないですか、別に……!」
 僕は声を荒げた。

 老人は、かまわない。
「きみのためを思って云っておる。悪いことは云わん。早く、あの女から離れろ」
「なんのために?」
「きみが、きみ自身を守るためだ。あの女のもたらす災厄から――」
「そんな話、誰が信じますか」

「――では」
 と、老人は笑った。気味の悪い笑みだった。

「――では、きみは、あの夜のことを知りたくはないかね? 東京駅の11番ホームだよ」
「え?」

 雷鳴であった。
(なぜ、それを?)

 こちらの心を見透かしたかのように――
 老人は追撃してきた。
「云っただろう。わしは、きみを守るために、ここにおる。きみのことなら大抵は知っておる」

 老人は、ほくそ笑んだ。
 多分、僕の顔色が青ざめたのだろう。
「やはり知りたいようだな、あの夜のことを――」

 もちろん、知りたかった。
 康子は、いつも答えてくれない。
 僕が訊く度に、はぐらかすのである。

 あまりにも、はぐらかされるので、半ば諦めていた。
 何か話せない事情があるに違いない。どんな事情か、わからないが……。

 けれど――
 知りたい。

 この20年――
 あの夜のことが、頭を離れないのである。

 老人は確かめるにように、ゆっくりと語りかけてきた。
「きみは、あの夜、東京駅の11番ホームに消えた親子のことを知りたがっている」

 老人は自分の優位を確信しているようだった。
「わしと一緒に来ないかね?」
 と微笑すら浮かべる。

「どこへ?」
「来るなら教えよう。きみの望むままに――」

 老人に右手をつかまれ、僕は引きずられるようにして本屋を出た。

     ◆

 本屋を出ると異世界だった。
 みなれない街並が広がっている。21世紀の日本とは、かけ離れた街並だった。

 路には赤い煉瓦が敷き詰められている。
 建物は全て石造りだった。ヨーロッパ風の建築様式である。

 赤煉瓦の路を、人々が歩いている。
 皆、昔ながらの衣装を纏っていた。赤、黄、緑などの色彩が目立つ。
 近くで祭でもあるのか――

 が――
 すぐに思い直す。

 そうではない。
 そんな生易しいものではない。

 人々の顔には目がなかった。
 口もない。あるのは、額、頬、鼻――だけ。

「ひ!」
 と、僕はのけぞった。
 思わず老人の背中にしがみついた。

 老人は笑った。
「心配はいらん。彼らは危害を加えんよ」
「彼らって……人間……なんですか?」
「もちろん、人だよ。きみにとっては、みなれない顔をしておるかもしれんがね。さあ――」

 老人に促され、僕は赤い煉瓦の路に踏み出そうとした。
 そのとき――

「余計なことを吹き込まないでくれる?」
 と、少女が云った。

 みると、少女が、こちらに向かって歩いてくるところだった。
 他の人々と同じように昔ながらの衣装を纏っている。帽子のようなものを目深にかぶっているので顔はわからない。

 が――
 少女は、すぐに顔を露にした。

「――康子!」
 と、僕は叫んだ。

 紛れもなく康子であった。

 が――
 若い。
 いくら何でも若すぎる。

 僕の知っている康子も若いが、せいぜい二十代か三十代である。
 目の前の康子は、明らかに十代前半だった。

 驚いたのは老人も同じらしかった。
 が、理由は違う。
「なぜ、ここへ?」

 康子の若すぎる声が響く。
「あなたの手妻を操るくらい、わけもないこと――」
「みくびるな。そう易々と操れるわけがあるまい。いかなる手立てを講じたのだ?」
「試してみる?」
「おお、操れるものなら、操ってみよ」

 途端――
 赤い煉瓦の路が暗灰色のアスファルトに塗り変わり、ヨーロッパの街並は消え失せ、21世紀の日本の街並に戻った。
 僕は本屋の前で立ち尽くしている。
 目の前には、康子と老人とが対峙していた。
 康子は、いつもの康子である。二十代ないし三十代にみえる康子だった。

 康子は、いつもの笑みを浮かべて云った。
「早く行きなさい、私の目の届かぬところへ――」

 老人は呻いた。
「この小娘が……!」
 悔しさを巻き散らす呻きだった。

「この次は見逃さない」
 康子の声は冷たく澄んでいた。

 老人は、一歩また一歩と後ずさる。

 やがて――
 老人は広い背中をみせて駆け出した。
 逃げ出した――のだと思う。先ほどまでの傲慢な態度が嘘のようであった。

 その老人と反対向きに――
 学校帰りの小学生たちが駆け出した。

 そして――
 買い物袋の婦人たちが足早に家路を急ぐ。
 本屋からは若者たちがケラケラと笑いながら出てきた。

 いつもの日常の風景だった。

「さて――」
 康子は前髪をかきあげた。
「――何から説明して欲しい?」
 黒い瞳が僕を促した。

 僕はアスファルトの街路に足を踏み出す。


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