泉の畔(ほとり)で、カジワラさんたちと別れると――
僕は、康子に連れられて、広大な砂地に駒を進めた。
「会わせたい者がいる」
と、康子は云う。
康子の装いは、あいかわらずだった。
乳白色の法衣を纏い、その下に濃青色の鎖帷子を着込んでいる。
僕の装いも、あいかわらずだった。
中世中国風の鎧を纏ったままだ。
この鎧は、最初こそ、ぎこちなく感じたが――
今では快適だ。すっかり手足になじんだ感がある。
不思議だった。
広大な砂地は、砂漠と呼んでも差し支えない。
単調な景色だった。地平に若干の隆起がみえる以外は、これといって注意を引くものがない。
空は陰った水色だった。
頬に当たる風は純綿のように柔らかい。
砂漠のくせに涼やかで、日本の秋晴れを思い起こさせる。TVや写真でみる砂漠とは、だいぶ違う印象だ。
その砂地を、しばらく行くと――
康子が馬首を寄せてきた。
「太平天国については、どれくらい知っていたの?」
と問う。
「まあ、そこそこには――」
と、僕は応じた。
太平天国の乱の思想の中核を占めたのは、キリスト教であった。
賊徒たちの大半がキリスト教の信者であったと、史書は云う。
「不思議な反乱だったと思うよ」
と、僕は云った。
「どこが不思議?」
中国は儒教を生んだ国である。
それなのに、キリスト教を拠(よ)り所とした。
儒教とキリスト教とでは、
――水と油――
だと思う。
片や、唯一神の下の平等を謳い――
片や、身分社会の在り方を問う――
水に親しんだはずの人々が、なぜ油に惹かれたのか――
しかも、その油は、自分たちが生み出したものであるというのに――
「太平天国の栄光――という言葉を、きいたことはある?」
と、康子は云った。
「なんだい、それは?」
「文字通りの意味――かつて、太平天国が勝ち取った束の間の栄光のこと――外なる思想を、内なる思想と履き違えて満たされた虚栄心――」
史実の太平天国は、瞬く間に膨れ上がった。
一時は南京を占領し、独立国の体裁を成した。
同時代の多くの人々の心を掴んだことは、間違いない。
「『外なる思想』というのは、キリスト教のことかい?」
「歴史に即して云えば、そう――けれど、『太平天国の栄光』には、もっと広い意味が込められている。例えば、自分たちが親しだ規範を踏み外すことで得られる偽りの充足感――というように――」
「ずいぶんと広い意味だな」
いつもなら、そこでニコリとするのだが――
今日の康子は、しなかった。
自分から馬首を寄せてきたくせに、僕とは真反対の方ばかりに視線を送る。
まるで僕から顔を隠しているかのように――
「話しておきたいことがある」
僕の顔をみることなく、康子は切り出した。
「あらたまって、何だい? 大事なことかな?」
「ええ」
「ホントかい?」
僕は苦笑した。
康子は、話が核心に迫ると、すぐに誤摩化す。
これまでにも、何度か誤摩化されてきた。
今度も、そうに違いないと、僕は思った。
ところが――
「いいから、黙ってきいて――」
僕は声を失った。
康子は苛立っていた。
その剣幕に恐れをなし、僕は何も口に出さなかった。
「中華宮領で騒ぎが起こっている」
「ああ、さっきから何度もきいているよ。つまり、今回、反乱を起こしたのは、中華宮に忠誠を誓わない者たちなんだろう?」
「ところが、そうではない」
今回、反乱を起こしたのは、意外にも――
中華宮に忠誠を誓っていた者たちだと、康子は云う。
彼らは、太平天国に範を求めながら、自身の呼称としては「真天国(しんてんごく)」を用いた。
史実の太平天国は頓挫している。縁起が悪いとでも考えたのか――
あるいは、自分たちこそ中華宮の正当な支配者だという意思表示の表れか――
「――いずれにせよ、真天国に与する者たちは太平天国の栄光を追いかけている」
「なぜ、そう思うんだい?」
「彼らは器用ではないから――」
「器用ではない?」
「彼らは、思想を生み出すことは得意でも、思想を受け入れることは苦手――受け入れるときは、それまでの自分たちがもっていたものを、平気で粉々にする」
外なる思想を受け入れるには、自分たちの誇りを一旦は捨てないといけない。
誇り高い漢民族には、多分、それが堪え難いことなのだ。
「外なる思想を取り込み、消化し、同化する――それが太平天国の神髄であったと、真天国の者たちは信じている。そして、今の自分たちも、そうである、と――けれども、それこそが誤り――太平天国の栄光――」
「いいじゃないか、自分たちが満足なら――」
「そうね。それで殺し合ったりしなければね」
真天国のスローガンは、いつしか、
――中華宮そのものを亡くしてしまえ。
となった。
中華宮領の各所で、大規模な騒乱が起こった。
大勢の魔術師たちが死んでいった。
史実の太平天国に勝るとも劣らない混乱ぶりである。
「殺し合いが始まって間もなく、中華宮から東涯宮に、援軍の要請があった」
「援軍?」
「中華宮領内の真天国を駆逐するのに手を貸して欲しいと云う」
「それで送ったのか、援軍を?」
康子は頷いた。
「中華宮には借りがある。見殺しにはできなかった」
援軍の将には、康善(やすよし)という者を選んだ。
東涯宮に仕える将軍の一人だったという。
「康善は〈定命(じょうみょう)の身〉をもっていた」
「〈定命の身〉?」
〈定命〉という言葉なら覚えている。
あの男――温湯浸(おんとうしん)――も使った言葉だ。
〈定命〉とは、僕らの世界で云うところの命である。
よって、〈定命の身〉とは、〈定命〉が宿る躯を指す。
康子たち魔術師は、僕らの世界と〈場の世界〉とを自由に行き来できる。
が、ひと度、〈定命の身〉を失えば、〈場の世界〉のみで生きていくしかない。
つまり、〈定命の身〉とは、僕らの世界へ出向くための手形のようなものである。
この「手形」が、将軍・康善の起用に深く関わっていた。
中華宮の政情が乱れたということは、僕らの世界の中国にも、何らかの思想的異変が起きている可能性が高い。
それを掴むためにも、康善の起用が最良だった。
「康善には双子の姉がいた」
と、康子は云った。
その姉は、僕らの世界で、外交官を務めていたと云う。
「なるほど――つまり、その康善という将軍の姉を通じて、手っ取り早く、僕らの世界の機密情報を手に入れられる、と思ったわけか」
「簡単に云えば――」
「――で、その康善という将軍は、どんな情報を手に入れたんだい?」
「わからない」
康子の口元が僅かに歪んだ。
「わからない? だって、きみの部下なんだろう?」
「今は立場が変わった」
「変わった?」
「康善は真天国側に寝返った」
「寝返った? なんで?」
「それが、わからないから苦労している。康善は功臣――寝返る旨味はないはず――だから、私も最初は信じなかった。けれど、その後、何度も命を狙われた。だから、信じざるをえなかった」
「それで?」
「援軍の増補を決め、別の将を遣って、康善を討たせた」
「殺したのか?」
「殺しはしない。康善の〈心〉を結界に封じ込めた」
「〈心〉を封じ込める? そんなことまで、できるのか?」
「できる、私になら――」
康子の声は低く、重かった。
◆
さらに駒を進めると――
砂漠の地平に人馬が現れた。
最初は、ぽつりぽつりだったものが、あっという間に数十、数百となった。
何となく殺気だった様子だったので、僕は馬の歩みを緩めた。
康子の馬が、僕の先をいった。
僕のほうを振り返り、康子は釘を刺した。
「傍を離れないでね」
人馬の群れは、僕らの方に真っ直ぐと向かってきた。
それをみて、康子も馬の歩みを緩めた。
人馬の群れは、いずれも甲冑姿の武者たちだった。
先ほど、康子たちが討ち果たした武者たちに、どことなく似ている。真天国の一味なのかもしれなかった。
はたして――
彼らの掲げる軍旗には、風変わりは漢字で「真」と書かれてあった。
おそらく「真天国」の意味である。
「いったい何事だい?」
僕の問いに、康子は答えた。
「先ほどの小競り合いの後で、彼らが使者を寄越し、今回、私の命を狙った刺客たちを、引き渡すと云う」
「今回?」
「私のカフェに押し入ってきた刺客がいたでしょう」
「ああ」
思い出した。
そもそもの騒動の発端は、それだった。