第13話 太平天国の栄光(1)


 泉の畔(ほとり)で、カジワラさんたちと別れると――
 僕は、康子に連れられて、広大な砂地に駒を進めた。

「会わせたい者がいる」
 と、康子は云う。

 康子の装いは、あいかわらずだった。
 乳白色の法衣を纏い、その下に濃青色の鎖帷子を着込んでいる。

 僕の装いも、あいかわらずだった。
 中世中国風の鎧を纏ったままだ。
 この鎧は、最初こそ、ぎこちなく感じたが――
 今では快適だ。すっかり手足になじんだ感がある。

 不思議だった。

 広大な砂地は、砂漠と呼んでも差し支えない。
 単調な景色だった。地平に若干の隆起がみえる以外は、これといって注意を引くものがない。

 空は陰った水色だった。
 頬に当たる風は純綿のように柔らかい。
 砂漠のくせに涼やかで、日本の秋晴れを思い起こさせる。TVや写真でみる砂漠とは、だいぶ違う印象だ。

 その砂地を、しばらく行くと――
 康子が馬首を寄せてきた。
「太平天国については、どれくらい知っていたの?」
 と問う。

「まあ、そこそこには――」
 と、僕は応じた。

 太平天国の乱の思想の中核を占めたのは、キリスト教であった。
 賊徒たちの大半がキリスト教の信者であったと、史書は云う。

「不思議な反乱だったと思うよ」
 と、僕は云った。

「どこが不思議?」

 中国は儒教を生んだ国である。
 それなのに、キリスト教を拠(よ)り所とした。

 儒教とキリスト教とでは、

 ――水と油――

 だと思う。
 片や、唯一神の下の平等を謳い――
 片や、身分社会の在り方を問う――

 水に親しんだはずの人々が、なぜ油に惹かれたのか――
 しかも、その油は、自分たちが生み出したものであるというのに――

「太平天国の栄光――という言葉を、きいたことはある?」
 と、康子は云った。

「なんだい、それは?」
「文字通りの意味――かつて、太平天国が勝ち取った束の間の栄光のこと――外なる思想を、内なる思想と履き違えて満たされた虚栄心――」

 史実の太平天国は、瞬く間に膨れ上がった。
 一時は南京を占領し、独立国の体裁を成した。
 同時代の多くの人々の心を掴んだことは、間違いない。

「『外なる思想』というのは、キリスト教のことかい?」
「歴史に即して云えば、そう――けれど、『太平天国の栄光』には、もっと広い意味が込められている。例えば、自分たちが親しだ規範を踏み外すことで得られる偽りの充足感――というように――」
「ずいぶんと広い意味だな」

 いつもなら、そこでニコリとするのだが――
 今日の康子は、しなかった。
 自分から馬首を寄せてきたくせに、僕とは真反対の方ばかりに視線を送る。
 まるで僕から顔を隠しているかのように――

「話しておきたいことがある」
 僕の顔をみることなく、康子は切り出した。

「あらたまって、何だい? 大事なことかな?」
「ええ」
「ホントかい?」

 僕は苦笑した。
 康子は、話が核心に迫ると、すぐに誤摩化す。
 これまでにも、何度か誤摩化されてきた。
 今度も、そうに違いないと、僕は思った。

 ところが――

「いいから、黙ってきいて――」

 僕は声を失った。

 康子は苛立っていた。
 その剣幕に恐れをなし、僕は何も口に出さなかった。

「中華宮領で騒ぎが起こっている」
「ああ、さっきから何度もきいているよ。つまり、今回、反乱を起こしたのは、中華宮に忠誠を誓わない者たちなんだろう?」
「ところが、そうではない」

 今回、反乱を起こしたのは、意外にも――
 中華宮に忠誠を誓っていた者たちだと、康子は云う。

 彼らは、太平天国に範を求めながら、自身の呼称としては「真天国(しんてんごく)」を用いた。
 史実の太平天国は頓挫している。縁起が悪いとでも考えたのか――
 あるいは、自分たちこそ中華宮の正当な支配者だという意思表示の表れか――

「――いずれにせよ、真天国に与する者たちは太平天国の栄光を追いかけている」
「なぜ、そう思うんだい?」
「彼らは器用ではないから――」
「器用ではない?」
「彼らは、思想を生み出すことは得意でも、思想を受け入れることは苦手――受け入れるときは、それまでの自分たちがもっていたものを、平気で粉々にする」

 外なる思想を受け入れるには、自分たちの誇りを一旦は捨てないといけない。
 誇り高い漢民族には、多分、それが堪え難いことなのだ。

「外なる思想を取り込み、消化し、同化する――それが太平天国の神髄であったと、真天国の者たちは信じている。そして、今の自分たちも、そうである、と――けれども、それこそが誤り――太平天国の栄光――」
「いいじゃないか、自分たちが満足なら――」
「そうね。それで殺し合ったりしなければね」

 真天国のスローガンは、いつしか、

 ――中華宮そのものを亡くしてしまえ。

 となった。
 中華宮領の各所で、大規模な騒乱が起こった。
 大勢の魔術師たちが死んでいった。

 史実の太平天国に勝るとも劣らない混乱ぶりである。

「殺し合いが始まって間もなく、中華宮から東涯宮に、援軍の要請があった」
「援軍?」
「中華宮領内の真天国を駆逐するのに手を貸して欲しいと云う」
「それで送ったのか、援軍を?」

 康子は頷いた。
「中華宮には借りがある。見殺しにはできなかった」

 援軍の将には、康善(やすよし)という者を選んだ。
 東涯宮に仕える将軍の一人だったという。

「康善は〈定命(じょうみょう)の身〉をもっていた」
「〈定命の身〉?」

〈定命〉という言葉なら覚えている。
 あの男――温湯浸(おんとうしん)――も使った言葉だ。

〈定命〉とは、僕らの世界で云うところの命である。
 よって、〈定命の身〉とは、〈定命〉が宿る躯を指す。
 康子たち魔術師は、僕らの世界と〈場の世界〉とを自由に行き来できる。
 が、ひと度、〈定命の身〉を失えば、〈場の世界〉のみで生きていくしかない。
 つまり、〈定命の身〉とは、僕らの世界へ出向くための手形のようなものである。

 この「手形」が、将軍・康善の起用に深く関わっていた。
 中華宮の政情が乱れたということは、僕らの世界の中国にも、何らかの思想的異変が起きている可能性が高い。
 それを掴むためにも、康善の起用が最良だった。

「康善には双子の姉がいた」
 と、康子は云った。
 その姉は、僕らの世界で、外交官を務めていたと云う。

「なるほど――つまり、その康善という将軍の姉を通じて、手っ取り早く、僕らの世界の機密情報を手に入れられる、と思ったわけか」
「簡単に云えば――」
「――で、その康善という将軍は、どんな情報を手に入れたんだい?」
「わからない」

 康子の口元が僅かに歪んだ。

「わからない? だって、きみの部下なんだろう?」
「今は立場が変わった」
「変わった?」
「康善は真天国側に寝返った」
「寝返った? なんで?」
「それが、わからないから苦労している。康善は功臣――寝返る旨味はないはず――だから、私も最初は信じなかった。けれど、その後、何度も命を狙われた。だから、信じざるをえなかった」
「それで?」
「援軍の増補を決め、別の将を遣って、康善を討たせた」
「殺したのか?」
「殺しはしない。康善の〈心〉を結界に封じ込めた」
「〈心〉を封じ込める? そんなことまで、できるのか?」
「できる、私になら――」

 康子の声は低く、重かった。

     ◆

 さらに駒を進めると――
 砂漠の地平に人馬が現れた。
 最初は、ぽつりぽつりだったものが、あっという間に数十、数百となった。

 何となく殺気だった様子だったので、僕は馬の歩みを緩めた。
 康子の馬が、僕の先をいった。

 僕のほうを振り返り、康子は釘を刺した。
「傍を離れないでね」

 人馬の群れは、僕らの方に真っ直ぐと向かってきた。
 それをみて、康子も馬の歩みを緩めた。

 人馬の群れは、いずれも甲冑姿の武者たちだった。
 先ほど、康子たちが討ち果たした武者たちに、どことなく似ている。真天国の一味なのかもしれなかった。

 はたして――
 彼らの掲げる軍旗には、風変わりは漢字で「真」と書かれてあった。
 おそらく「真天国」の意味である。

「いったい何事だい?」
 僕の問いに、康子は答えた。
「先ほどの小競り合いの後で、彼らが使者を寄越し、今回、私の命を狙った刺客たちを、引き渡すと云う」
「今回?」
「私のカフェに押し入ってきた刺客がいたでしょう」
「ああ」

 思い出した。
 そもそもの騒動の発端は、それだった。


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