サクラ大戦

 〜式部たかし 執筆作品〜


太正浪漫ぞ遥かなる

 世相は暗くなっていた。

 ――未曾有の国難に立ち向かうには大戦が避けられない。

 それが帝国世論の一致した見方になりつつあった。

 帝国華撃団の動静も世論と無縁ではありえない。
 照和の人々の目には、対降魔戦闘用兵器の数々が高度に機械化された強大戦力と映った。

 このとき、真宮寺さくらは34歳――
 かつて帝国劇場の女優として、また帝国華撃団の主戦として活躍した少女は、現在、帝国華撃団・副司令の地位にあった。

 太正16年がやってこなかった『サクラ大戦』の世界――

 ――長篇(2005年1月、執筆開始)


 第1話 照和14年、冬――仙台

 第2話 照和の帝国華撃団

 第3話 真宮寺さくらとのこと

 第4話 対面

 第5話 逡巡

 第6話 襲撃

 第7話 嫉妬

 第8話 永久になれかし

 

『サクラ大戦』茶話

 式部たかし

●太正16年がやってこなかった『サクラ大戦』

 ――照和(しょうわ)の年号を考え出したのは僕である。

 と主張しようと思っていたら、多くの人が既に同じ着想をもっていたことがわかった。
 インターネットで検索すると、「照和」はゴロゴロと引っかかる。
 もちろん、『サクラ大戦』との絡みで、である。

 皆、考えることは同じのようだ。
 無理もない。「明冶」「太正」とくれば「照和」であろう。
 他に「昭」に似た漢字はない……ように思える。

 ちなみに「明冶」「太正」は『サクラ大戦』の作中で実際に用いられている年号である。
 ついでにいえば、本家『サクラ大戦』に照和はやってこない――そういうことになっている。
 照和元年は太正15年のまま――照和2年は太正16年なのである。
 制作者サイドの明瞭な意図を感じる。
『サクラ大戦』に昭和は持ち込まないというのが基本方針なのだろう。

 というわけで――
 最初に「照和」を考案された方が、どなたかは存じあげないが、どうか、私にも「照和」の年号を用いることを、お許し頂きたい。
 もちろん、『サクラ大戦』の二次創作に限っての話である。

 僕が照和に興味を持ったのは、昭和に興味があったからである。
 史実としての昭和史に、である。

 いつか、昭和初期を題材に小説を書いてみたいと思っていた。
 日本が、あのような悲惨な太平洋戦争(大東亜戦争)に突き進んでいった過程を、自分の視点で描いてみたい、と思った。

 しかし、歴史小説の執筆は並み大抵のことではない。
 まず、準備に時間がかかる。
 昭和の時代を広く、深く理解しなくてはならない。

 それらしい言葉遣いをマスターすることも求められよう。
 その時代の雰囲気を伝えられなければ小説としては失敗である。

 とにかく、膨大な手間と長大な時間とを要する。

 だから、昭和初期の歴史小説を思いたったはよいが、そのまま手付かずになっていた。
 昭和を扱ったオリジナル作品を、僕は、まだ書いたことがない。

 僕にとっての『サクラ大戦』とは、昭和への良き橋渡し役である。
 興味はあるのに、容易に溶け込めない時代――昭和――への絶好の足掛かりであった。

 昭和の激動を理解するには、まず大正期である。
 特定の時代を学ぶためには、その直前の時代の理解が前提である。
『サクラ大戦』の時代が、それにあたる。

 加えて――
 真宮寺さくらたちの世代――大正後期に青春まっ直中だった世代――は、昭和16年には社会の各分野での中堅層を占めていた。
 そうした中堅層は、この国の動向に最終的な決断を下せたポジションにはない。
 けれども、その最終的な決断を目の当たりにし、その意味を明瞭に理解できるポジションにはいた。
 まさに真宮寺さくらたちは、昭和の激動を観察するのに、もってこいの世代なのである。

 僕が『サクラ大戦』の二次創作を試みたのは、そういう理由による。
 太正16年がこなかった『サクラ大戦』の物語――
 その物語を通し、昭和の激動を、自分なり理解し、小説化できればよいと考えた。
 平成の僕らが昭和に溶け込む際の、よき触媒となり得ると考えたのである。

 もちろん、その試みが成功しているかどうかは、当人に判断できるところではない。
 読者の方々の判断に委ねる他はない。

 何気に、全力を尽くしていたりはするのだが……。

 式部たかしの『サクラ大戦』を少しでも楽しんで頂ければ、幸いである。

 2005年1月、記――

 


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