第8話 永久になれかし
しかし――
さくらは何も云わなかった。
「すみません」
とだけ、さくらは云った。
郡山が顔を上げると、さくらは逆に俯いた。
「せっかく診て頂いたのに、御診断の結果を伺う前に、勝手に自分で決めちゃいました。さぞかし、お気を悪くされたでしょう?」
郡山は無言で首を振った。
俯いたまま、さくらは言葉を続けた。
「実は先日、帝都で米田司令にお会いしたんです。司令は――いえ、いまは陸相ですけど――司令は私に、こうおっしゃいました。『霊力に頼らなければ務まらねえ副司令なんて、やめちまえ』――その通りだと思ったんです」
さくらは顔を上げ、苦い笑顔を露にした。
郡山は黙って、次の言葉を待った。
「――私、霊力が尽きれば、華撃団から去るものだと思い込んでいました。もう、華撃団には、いちゃいけないんだ、と……。でも、違うんです。たとえ、霊力が尽き、光武が動かせなくなっても、私には副司令としての責務がある。皆をまとめていく責務です。それは、私の霊力とは関係のないこと――私自身の仕事なんです」
さくらの言葉に力みはなかった。
本心から、そう云っているのが、わかった。
郡山は何も言葉を挟まなかった。
挟めなかった。
しばらくの沈黙の後――
先に口を開いたのは郡山だった。
「やはり、あなたは強いお人だ――」
「……強い? 私が?」
意表を突かれたようだった。
郡山は笑った。
苦笑だった。
「十年前も、そうでした」
「……十年前?」
ますます、さくらは怪訝な顔になった。
(いまなら云える)
と郡山は思った。
(いや、むしろ云わねば後悔する――)
「……実はね、さくらさん――」
と切り出した。
「いまだから、お伝えしようと思いますが、どうか軽蔑しないで下さいよ」
郡山の胸中は晴れやかだった。
一点の曇りもなかった。
「十年前、あなたを初めておみかけしたとき、私は実は、あなたにひと目惚れだったのです」
さくらが、わずかに顔を背けた。
郡山は怯まなかった。
さくらの横顔を真っ直ぐにみ、言葉を続けた。
「十年前のあなたは悩んでおられた。ちょうど、お仲間が次々と霊力を失い、第一線を去り始めた頃だった。あなたは、いつか自分にもやってくるであろう――その日を、今日か明日かと恐れ、おののいておられた。――だから、私は思ったのです。いっそのこと、華撃団なんか辞めてしまって、私と結婚し、仙台の街で一緒に暮らしませんかって――そう誘ってみようかと思ったのです」
秘め事がサラサラと流れ出る様子を、郡山は、まるで他人事のように思った。
あれほど隠し通そうとした過去が滑稽にすら思えた。
さくらは無言であった。
無言のまま、目線が合わないように横を向いていた。
が――
不意に、さくらは郡山に向き直った。
二人の視線が初めて濃密に交錯した。
どこまでも柔和な顔立だと郡山は思った。
(美しい)
と思った。
(失いたくない)
と思った。
が、もう遅い。
「なぜ、いまになって、それを?」
と、さくらは問うた。
「十年前には、おっしゃらなかったのに……」
「――なぜでしょう」
と郡山は笑ってみせた。
そして、すぐに、
「御迷惑でしたね。すみません」
と詫びた。
「いえ――そうではないんです」
さくらは首を振った。
「――ただ、なぜ十年前には、おっしゃらなかったのかと……」
さくらの再度の問いに、郡山は頭をかいた。
「結局、甘えだということに気付いたのだと思います」
「甘え?」
「私も当時、多少は悩みを抱えていました。いえ、多少どころか、自分の悩みは世界一大きいとさえ思っていました。幼い悩みでした」
さくらは無言――
それを確認し、郡山は続けた。
「……けれど、さくらさん――あなたは違った。本当に、もっと大きな悩みを抱えておられた。私の悩みなどよりも遥かに大きな悩み――当然です。あなたは背負っているものが違う。私などよりも遥かに大きなものを背負っておられた。そして、迫りくる霊力の途絶に、あなたは脅えておられた。まるで、いまにも沈みそうな小舟のように、あなたの心は揉まれに揉まれていた。その小舟に私までが乗り込んだら、間違いなく沈んしまう――そう思ったのです」
胸中を明かした安堵感からか、郡山は能弁だった。
その言葉を、さくらは黙って聴いた。
やがて――
「いまでも、私は小舟ですか?」
と、さくらは尋ねた。
「――いや」
と郡山は首を振った。
「いまは違う。さくらさん――いまのあなたは大きな船だ。幾枚もの帆を掲げる立派な帆船だ。大海原の風を受け、力強く進むことができる」
さくらは無言――
郡山は続けた。
「いかれるといい。戦場に――あなたを本当に必要としているのは華撃団の方々であって、私ではない」
郡山は背広の懐から一片の短冊を取り出した。
「千人針の話を覚えておられますか?」
「千人針?」
「御出征の折には千人針に代わる物を、と申し上げた――その約束のものです。お邪魔でなければ是非これを身に付けて御出征頂きたい」
短冊には歌が詠んである。
――恋せよと輝かりける乙女たち 太正浪漫よ永久(とわ)になれかし
「まあ……」
と、さくらは声を発した。
感歎ともとれる声だった。
「戯れ歌です」
と郡山は云い繕った。
「お気に召さない場合は遠慮なく、お捨て下さい」
と――
照れ隠しの言葉だった。
その歌を、さくらは二度、三度と口ずさんだ。
口ずさむうちに、不意に顔を覆って天をみた。
恋せよと輝かりける乙女たち――とは、他ならぬ太正期の帝劇女優たちを指す。
「恋せよ乙女」は帝劇のスローガンになったことがあった。
それを忘れる、さくらではあるまい。
「覚えていて下さったのですね……、あの頃の私たちを……」
さくらの声がふるえた。
それをきき、
(そうか――)
と郡山は思った。
何の脈絡もなく、思った。
(やはり、この人は気づいておられたのだ……)
と――
気づいた上で優しく受け止め――それでも想いは拒んだ。
拒まざるを得なかった。
(やはり――)
と郡山は思った。
今夜の告白を、自分は決して後悔すまい――
何を信じたらよいのか、わからない時世である。
それ故にこそ、今夜の自分を信じたい。
告白を決意した自分を、信じておきたい。
郡山は、そう思った。
照和十四年十二月八日、未明のことである。
*
それから、ちょうど二年後の照和十六年十二月八日、未明――
太平洋上には、華撃団の諸隊を率い、真珠湾に向かう真宮寺さくらの姿があった。
が――
それは、また別の物語である。