第3話 真宮寺さくらとのこと
実は、郡山にとって、真宮寺さくらは遠い存在ではない。
霊子医学者として普通に活動していれば、帝国華撃団・花組の面々との接点もできる。
よそに霊力を操る者など、そうはいない。
狭い社会である。
真宮寺さくらとは、十年前に会っていた。
(――十年か)
と郡山は愕然する。
時の流れを思った。
(もう、それほどになるか――)
と――
自宅の書斎で真宮寺さくらの書簡を開いた日の翌朝――
大学に出勤したばかりの郡山を、再度、真宮寺家の遣いが訪ねた。
用向きは、むろん、
――昨日の御返事や、いかん?
である。
腹は決まっていた。
(お引き受けする――)
と告げると、遣いは、すぐに帰っていた。
それから僅かに数日後――
真宮寺さくらが東北帝大の神経科を訪ねてきた。
あまりの対応の早さに、苦悩の深さが滲み出ていた。
さくらにとって、来院は容易ではないはずである。
真宮寺家の当主に就いてからも、帝都に詰めていることがほとんどであった。
副司令の立場上、帝国華撃団の司令部を離れるわけにはいかない。
つまり、その日、真宮寺さくらは、わざわざ帝都からやってきたわけである。
そのさくらに対し、郡山のかけた言葉は、対面に水をさしかねないものであった。
(わざわざ仙台にこられなくても、帝都には腕の良い医師が、いくらでもおりましたのに……)
さくらは笑って答えた。
(先生が私の主治医ですから――)
昔の話である。
たしかに、郡山は以前にも、さくらの躰を診たことがある――それが十年前であった。
帝都でのことだ。
当時、郡山は東京帝大にいた。
もちろん、当時は帝大教授としてではなく、一介の霊子医としての診察である。
まだ霊子医になりたての頃であった。
当時、東京帝大には帝国華撃団・花組の面々を担当する医師団が形成されていた。
その中で、郡山が最も若い医師だった。
よって、さくらが受診した際に、真っ先に予診をとったのは郡山であった。
予診は通常、若い医師がとる。
だから、
(先生が私の主治医ですから――)
という、さくらの言葉には誤解もある。
もちろん、真っ先に訴えをきいてくれた医師を主治医と了解するのは自然なことかもしれない。
が、実際は、そうではない。
真宮寺さくらの主治医団の末席にいたのが郡山であった。
この時のさくらの受診理由を、郡山は覚えていない。
少なくとも医学的には、さほど深刻ではなかったと記憶している。
たしか、霊力の衰えの心気不安が主訴ではなかったか――
もちろん、医学的に深刻でないからといって手を抜いたわけではない。
帝国華撃団の主席搭乗員の心気不安は、大袈裟にいえば、帝都の治安に直結した。
が、それより遥かに深刻だったのは――郡山の恋慕の情であった。
ひと目惚れであった。
自分より十以上も若い患者への恋慕である。
当時、郡山は独身であった。
もちろん、公にすべきことではなかった。
したくとも、できはしない。
自分の情を、郡山は、ひた隠しに隠した。
先輩医師にも同僚医師にも、さくら本人にも――
その後、郡山は霊子医として、あるいは霊子医学者として、日々、研鑽を積み、現在の地位を手に入れた。
学界にあっては数々の論文を著わし、院内にあっては数々の症例を手掛けた。
郡山の書いた論文は常に華撃団の関係者の目に止まっていた。
さくらも、郡山のことを、
(先生は、この国の霊子医学の第一人者ですから……)
と持ち上げていたと云う。
嬉しかった。
甘酸っぱい嬉しさだった。
十年の歳月は受容には十分であった。
適わぬ恋慕の情に苦しめられることは、もはや、なかった。
郡山も既に二児の父親となっている。
が、さくらが今回も郡山の心を大きく揺さぶった点は同じであった。
さくらは、もし霊力に有意な衰えが確認されなければ、きたる大戦の最前線に立つという。
(つまり「御出征」ですか?)
と問うと、
(――そういうことになります)
との返事だった。
(それはいけませんね)
と郡山は呟いた。
本音であった。
新聞の云う「大東亜大戦」など莫迦げている――と郡山は思っている。
英米や蘇(ソ)連相手に大戦を挑むなど、愚の骨頂だと思っている。
そんな大戦にさくらを出すなど、思いもよらぬことであった。
郡山が否定的に即答したので、さくらは不安な顔をみせた。
霊力の衰えを断定されたかと訝ったようである。
まずいと思って、郡山は笑顔を繕った。
(御出征のときには、千人針をご用意しなければいけませんね)
微妙な冗談だったが、さくらは、ちゃんと解してくれた。
(本当ですか? 奥様に御用意させたり、なさらないで下さいね)
と笑う。
(これは参りました)
と応じざるを得なかった。
さくらの指摘は図星である。
大学の業務は忙しい。
千人針の用意などをしている暇はなかった。
(――そうでしょうね。帝大の教授先生が、女の私の出征に千人針だなんて……)
と、さくらは笑った。
郡山は、云い訳がましく、
(何か他のものを考えておきますよ)
と付け加えた。
その日は、さくらの心身を診るだけで終わった。
検査の解析結果が確定するまでには一ヶ月を要する。
(では、また来月に……)
と云いかけたさくらを、郡山は遮った。
解析結果が出たら、データを携え、帝都に向かいたい、と告げたのである。
(なぜです?)
との問いに、
(最終診断を、より確かなものとするためです)
と郡山は答えた。
嘘ではない。
帝都では郡山の恩師が新たな霊子医学研究機関を発足させていた。
そこでの再精査を踏まえ、最終診断を下したい、というのが郡山の本心であった。
云うまでもなく、帝都は、さくらの暮らす街である。
だから、
(帝都で御説明することも可能ですが……)
と申し出たのだが、なぜか、さくらは首を振った。
(申し訳ありませんが、お話は仙台の当家でお願いできませんか?)
帝都ではなく仙台で、ということに引っかかった。
もちろん、さくらの霊力のことは、本人にとっても、公にとっても、秘事中の秘事である。
漏洩防止に万全を期すのはわかる。
少なくとも東北帝大よりは真宮寺邸のほうが安全であった。
とはいえ、帝都仙台間は汽車で一日がかりである。
華撃団の空中艦艇を使えば、あるいは、とるに足らぬ距離かもしれない。
が、華撃団の艦艇を私用で動かすような人ではない。
おそらく、この次も汽車で来るつもりに違いなかった。
そうまでして仙台にやってくる意味は何なのか?
華撃団司令部のほうが、よほど安全であるはず……。
どうしても気になったので、あえて理由を問うた。
(――華撃団のみんなに気付かれたくないので……)
というのが返事であった。
なるほど、と思った。
わざわざ帝都を離れ、郡山の下を訪れたのも、そういうことによるのだろう。
副司令の自分が霊力の衰えに脅えていることなど、僚友たちに気取られたくはないのである。
それは、郡山にもわかる。
人を惹き付ける術に自信のない者にとって、指導性の発揮には個としての確かな実力が要求される。
その実力の陰りをみせれば救心性は低下しかねない。
郡山が教授として帝大の医局を統制できるのは、霊子医としての確かな技量に自信があるからだ。
もし、その自信が失われれば、指導性の発揮など思いもよらぬ。
さくらの危惧も、そこにあると思われた。
かくして――
次回の面接の日取りは十二月七日の午前十時と決まった。
場所は仙台南郊・真宮寺邸――
そこで、さくらの霊力についての最終診断を説明することになった。
ところが――
折からの激しい降雪で、郡山の帰仙が遅れた。
かかる夜更けに真宮寺邸を訪ねる羽目になったのは、そのためである。
*
表門横の通用口を潜り、玄関を潜った郡山たちが案内されたのは、玄関脇の客間であった。
臨時の客間らしかった。
豪華な調度が並んでいたが、ここが正式な応接間でないのは明らかであった。
その割には玄関に近過ぎる。
が、調度は立派であった。
「さすがに真宮寺本家ともなるとソファからして違いますな」
と陸軍中尉の小坂弦造(こさかげんぞう)が無遠慮に眺め回した。
先ほど、真宮寺邸の表門に最初に声をかけた男である。
郡山の護衛という名目で帝都から付いてきていた。
――真宮寺副司令のお躰の具合は最重要機密である。
のだそうだ。
本当の理由がどこにあるのかは怪しい――と郡山は思っている。
護衛が本当なら、たった一人という点が解せなかった。
参謀本部から何か密命を帯びているのかもしれない。
いずれにせよ――
(私には関係がない)
と思うことにしている。
霊子医学者の立場では軍との付き合いが避けられない。
彼らと上手くやっていくには、どうしたらいいのか?
何度か痛い目にあいながらも、郡山は学んでいた。
要は、関心をもたないこと、である。
軍は軍――
そう思って傍から眺めているより仕方がない。
いや――
傍からでさえ、眺めていてはいけないのだ。
みてみぬ振りをする――それが、保身のためには肝要であった。
客間の引き戸が滑り、岩井権左(いわいごんざ)が顔を出した。
先ほど、屋敷内から声だけで応対した男である。
「御案内致します」
と岩井が云った。
岩井は髭黒の巨漢である。
上背はないが筋骨隆々たる体躯が人目をひく。
これで霊力も操るというのだから、人はみかけによらない。
真宮寺家の者たちの中では、さくらに継ぐ実力者だという。
「――では、参ろう」
と小山が云うので、さすがの郡山も色をなした。
「ここから先は患者と医師との話し合いになります。御遠慮願えませんか?」
案の定、
「自分は、郡山先生の身辺警護を仰せつかっている」
と拒絶された。
(もはや、何も云うまい)
と郡山は思った。