第4話 対面
板張りの冷たい廊下を二十間は歩いたろうか。
途中、幾度か折れ曲がったので、しまいには玄関との位置関係が、わからなくなった。
「こちらです――」
と岩井権左が右手で示した先には、明かりの煌煌(こうこう)と灯る空間がひらけていた。
あきらかに応接間ではない。
おそらくは、当主の居間であった。
「よく、お越し下さりました」
と真宮寺さくらは予想外に朗らかな口調で客人を迎えた。
純白の寝具に緋色の打ち掛けを羽織っている。
時節がらか、打ち掛けは簡素な造りになっており、手の込んだ刺繍が縫い付けてあるような類いではなかった。
先日、大学で会ったときと比べると、幾分やつれているようにみえた。
「すみません。このような格好で……」
と、さくらは決まり悪そうに首を傾げた。
その仕草には、まだ帝劇時代の面影が若干、残っている。
「既に、お休みでしたか?」
「――ええ。もう、お越しにならないものと思っておりました」
「申し訳ありません」
「いえ――こちらこそ、わざわざ仙台で――などと無理を申しまして……」
小山中尉は郡山の背後に控えていた。
邪魔臭いと思ったが、いかんともしがたい。
郡山が何か云う前に、
「小坂弦造中尉であります」
と勝手に挨拶をした。
言葉遣いは丁重だが、暖かみには欠けていた。
が、郡山には挨拶自体が意外であった。
しかも小坂中尉なりの最敬礼である。
さくらは軍籍にない。
もっと粗略に扱うものと思っていた。
が、考えてみれば、さくらは帝国華撃団の副司令である。
陸軍省交付の階級対応表によれば、華撃団の副司令は中佐相当であった。
したがって、さくらは小坂中尉の三等上級に当たる。
最敬礼で遇するのは道理であった。
その小坂中尉に向かって軽く頷き、
「ご苦労様です」
と、さくらは応えた。
貫禄すら感じさせる。
地位が人をつくるという。
十年前のさくらには考えられないことであった。
さくらに勧められるままに、郡山たちは隣の和室に通された。
居室は三部屋から成り立ち、襖越しに連なっていた。
三部屋のうち、廊下沿いの二部屋が絨毯敷きの洋間で、残りが室町風の書院造りであった。
その畳の上の座蒲団に、郡山たちは黙って腰を落とした。
いきなり本題には入らず、世間話から始めることにした。
患者の緊張を解くには欠かせない段階である。
「仙台には、いつ戻られたのです?」
「二日前です」
「――二日? なのに、もう明朝にはお発ちになると?」
「はい」
と、さくらは苦笑した。
「それは何とも、お忙しい」
「年明けには華撃団の改組が控えていますから……」
「桜組のことですね?」
「――御存じでしたか?」
「噂になってますよ」
霊子医学者の立場上、華撃団の内部情報に接する機会は多い。
郡山の患者の大半が華撃団関係者である。
帝国華撃団は、来春までに、従来の花組の他に桜組という新たな実戦部隊の配備を目指していた。
照和の花組は、かつての小数精鋭部隊ではない。
規模は拡大され、指揮官の呼称も「隊長」から「連隊長」に変わっていた。
中核が光武型霊子甲冑の部隊であることに変わりはないが、他に支援隊として人型蒸気部隊の中隊(独立中隊)や大隊が加わっている。
さくらによれば、現在、帝国華撃団花組に帰属する光武型霊子甲冑の部隊は全部で七個小隊(独立小隊)――
このうちの四個までを新設の桜組に移籍し、人型蒸気部隊の八個大隊および五個中隊と合わせ、これを再編する。
花組の連隊長は、これまでは副司令のさくらが兼任してきた。
桜組の設置後は花組の連隊長を降り、桜組の連隊長を兼任する予定になっている。
もちろん、郡山の診断結果が「霊力に衰えなし」であれば、との断り付きである。
「――では、花組の御後任は、どなたに?」
と郡山が問うと、
「アイリスでしょう」
と、さくらは微笑んだ。
帝国華撃団創世期の花組メンバーのうち、未だに現役なのは、真宮寺さくら、イリス・シャトーブリアン(アイリス)の二名だけであった。
初代花組隊長・大神一郎も、近年は霊子甲冑からは遠ざかっているときく。
「大神さんは二年前から新京にいます」
と、さくらは云った。
「新京に?」
「――はい。新京華撃団の司令は大神さんなんです」
「ほう――先頃、帝国華撃団の司令に復帰されたと、きいておりましたが……」
「兼任されてるんです」
大神一郎のことを話すとき、さくらは、いまでも嬉しそうにする。
大神への変わらぬ思いが、まだ、そこにはある。
(大神さんって、すぐに振り向いてくれそうで、なかなか振り向いてくれないんですよね)
と十年前のさくらは、こぼしていた。
さくらとしては、かなり明確に想いを伝えているつもりだったのだが、いまひとつ、真剣に相手にしてもらえなかったようだ。
でも、それでいいのだと、さくらは云った。
(結局、大神さんは、みんなの大神さんですから……)
以上のことは、すべて診察室での会話である。
もちろん、郡山がさくらの胸中に深く立ち入ることができたのは霊子医の立場だったからである。
十年前のさくらは霊力が、わずかに不安定になっていた。
その原因を、加齢に伴う霊力の劣化とみなすか、心因が引き起こす一過性の変化とみなすかで、主治医団の見解は割れていた。
それで、最も年齢の近い郡山が、さくらの深層心理――とりわけ恋愛の側面に焦点を当て、面接することになったのである。
もちろん、他の医師たちにとって、郡山が、さくらにひと目惚れしていたことは知る由もない。
(あの堅物に限って、その心配はあるまい)
と恩師などは笑っていた。
おそらく、郡山本人も同調したであろう。
さくらに出逢う前ならば……。
事実、帝劇女優としての真宮寺さくらには興味がなかった。
化粧を落とし、普段着を纏った真宮寺さくらをみて、郡山の見方が変わった。
少女が終わりかけるときの妖しい魅力を感じた。
(どうしたらいいでしょうか?)
と問うさくらに、郡山は答えた。
(大神さんと少し距離をとられてはいかがでしょう)
(距離を?)
(精神的な距離のことです)
少し考え込んだ後で、さくらは、
(わかりました)
とだけ答えた。
いまでも霊子医として間違った助言をしたつもりはない。
だが、このとき、郡山は己の暗い欲望の充足を感じとっていた。
――大神一郎と距離をとれ。
とは、必ずしも公平な助言ではなかったのである。
(また何かあったら、ご連絡下さい)
その職業柄の決まり文句に、郡山は一縷の望みを託してさえいた。
いまでも明瞭に思い出すことができる。
愚かなことだと思った。
「――では、最近は大神さんとはお会いになってないのですか?」
昔日の追憶を振り切って、郡山は言葉を継いだ。
「はい」
と、さくらは答えた。
「最近の大神さんは、ほとんど新京に出ずっ張りでしたから……。とくに蘇緯埃(ソビエト)・蒙古(モンゴル)連合軍の動きが活発になってからは……」
「――すると、さくらさんは、いま事実上、帝国華撃団の最高位なのですね?」
「そういうことになります。かえでさんが、だいぶ前にお辞めになりましたから……」
「かえでさん」とは、藤枝(ふじえだ)かえでのことである。
米田体制下の華撃団で長らく副司令を務めた人物である。
有能な女性で、平時の実務の一切を取り仕切っていたといわれる。
――有事の米田、平時の藤枝。
が帝国華撃団の合い言葉であった。
「あの頃、米田司令は、昼間からお酒ばかり飲んでいて、いつも暇そうにしていて、不思議だなあって思ってましたけど……」
「面倒なことは全部、藤枝副司令に押し付けておられたのでは?」
「そうかもしれませんね」
と、さくらは苦笑した。
が、すぐに笑みを消す。
「人の上に立てる人というのは、やはり違います。頼りなさそうにみえても、いざというときは必ず頼りになったんですよね――米田司令も、かえでさんも……」
「優れた方々だったのですね」
「正直、いまの私なんかが副司令でいいのかなって思うんです」
「米田将軍たちを目標にされるのは結構なことですが、ほどほどにされるのがよいでしょう。少なくとも、お酒の量などは……」
もちろん、冗談のつもりだったが、さくらは笑わなかった。
それをみて、郡山はコホンと咳払いをし、検査結果の説明を始めようと鞄に手を伸ばしかけた――そのとき――
「ノモンハンのことは、御存じでしたか?」
と、さくらが切り出した。
思い掛けない言葉だった
「いいえ……」
と応じると、
「本当に悲惨だったんです」
と、さくらは云った。
二ヶ月前からノモンハンの噂が人々の口にのぼっていた。
味方の大勝利を伝えるものがあれば、大敗北を伝えるものもある。
前回の診察時にも、それが話題になった。
あの時、さくらは、
(正確な情報が入っていませんので、よくわかりません)
とコメントを避けた。
「悲惨だった――とは?」
居住まいを正し、郡山は質した。
「正木師団の全滅は本当です。その正木師団に同行した新京華撃団の霊子甲冑部隊も、二個小隊が全滅しました」
「全滅?」
「蘇緯埃(ソビエト)軍にも霊子甲冑部隊が存在したようなんです。不意を突かれ、あっという間に包囲殲滅されたといいます」
「そんなに簡単に?」
「人間は降魔よりも恐ろしいと、大神さんは嘆いていました。私も、そう思います。降魔は高等戦術なんて使いませんから……」
「霊子甲冑となると、搭乗していたのは皆……?」
「――そうです。年端もいかぬ娘たちです。新京歌劇団の看板女優も何人か含まれていました」
「――それは、いたわしい……」
霊子甲冑部隊の戦死者は太正以来、初めてであるはずである。
この事実を、郡山は今日まで知らなかった。
華撃団関係者に厳格な箝口令が敷かれたことを想像させる。
これが闘いなのだと、郡山は思った。
「そうですね」
さくらが僅かに頷いた。