第1話 照和14年、冬――仙台
広瀬川は仙台市街を西から入り、南へ抜けていく。
流れは、途中で数回、大きく蛇行した。
その蛇行の畔(ほとり)に、屋敷はあった。
付近の人は、これを「藪(やぶ)屋敷」と呼ぶ。
鬱蒼の茂みが四方の塀を覆い隠していた。
ひと昔前は様相が違った――
と人はいう。
十年前の藪屋敷は、藪屋敷ではなかった。
外壁の土塀は、淡い緑の草木に彩られ、隅々まで細かく手入れされていた。
それが屋敷の主の柔らかな人柄を感じさせた。
が――
いつの頃からか、土塀は濃緑の茂みで被われるようになった。
いまや外壁は、屋敷の外からは、ほとんど確認できない。
辛うじて表門の板戸だけが、茂みの隙間から顔を出している。
さながら、照和の暗い世相を反映したかのようであった。
深夜――
その藪屋敷の表門を叩く者がある。
「お頼み申し上げる!」
若い男の声であった。
男はカーキ色のコートを羽織っていた。
分厚いコートであった。
頭上には軍の制帽――記章から陸軍士官とわかった。
訪問者は二人――
陸軍士官の斜め後方には、やや小柄な男が立っている。
こちらは、さほど若くない。
四十代の半ば、ないし後半――
小豆色のマフラーが左肩から垂れている。
頭上には毛織物の帽子――軍人のものではない。欧風のデザインであった。
穏やかな月夜である。
藪屋敷の辺りも、月神の光に照らされ、青い慈愛に満ちていた。
風が吹き、茂みが音をたて、雪が流れ崩れた。
昨晩の荒天で、土塀の茂みは大量の雪に覆われていた。
その塀際は氷塊で被われている。
おそらくは、人の積み上げたものであった。
表門の付近のみ、申し訳程度に雪かきがされている。
しばらくして――
「どなた様で?」
と、いらえがあった。
屋敷内からである。
門扉は閉ざされたままであった。
声は低く、凄みがあった。
陸軍士官の声に、緊張が漲(みなぎ)った。
「東北帝大の郡山(こおりやま)教授がお越しだ」
と士官は告げた。
「――郡山教授?」
屋敷内の声が厳しさを増す。
「いかにも――」
と士官は応じた。
「こんな夜更けに?」
「昨晩の雪で汽車が遅れたのだ。先ほど、帝都よりお戻りになったばかりである」
それきり、屋敷内の声は途切れた。
返答の兆しはない。
士官は舌を打って後ずさった。
それを尻目に、小豆色のマフラーの男が数歩、前に出た。
「――東北帝大の郡山です。たしかに、お約束は今朝でしたが、かような雪に見舞われ、遅参致しました。非礼は承知で申し上げる。ご主人にお目通りを願いたい」
しばらくの沈黙の後、屋敷内より声が返ってきた。
「――明朝にまた、お越し頂けませぬか?」
屋敷内の声は、今度は遠慮を含んでいた。
「ご主人は、明朝早くに帝都へ発たれると伺った。それで夜分、急ぎ参った次第だが――」
屋敷内よりの声は、再び沈黙した。
数十秒ほどして――
「わかりました」
と、いらえがあった。
「しばし、お待ち下され――」
人の気配が遠ざかっていくのもわかった。
どうやら、屋敷の主に取り次ぐ気になったらしい。
「はじめから、そうすればよいものを――」
と陸軍士官は毒づいた。
ほどなく――
屋敷内から声がかけられた。
「主がお会い致します。中にお入り下さい」
声とともに表門の通用口が開いた。
声の主とみられる男が姿をみせた。
堤灯(ちょうちん)をぶら下げている。
出てきた男に見覚えがあったのか、小豆色のマフラーの男は、やや大きな声で、
「やあ」
と笑いかけた。
「――やはり、岩井(いわい)くんだったか……」
堤灯の男は頭を下げた。
「失礼仕りました」
「いや、なに――当然のことだろう。こんな夜更けでは……ね」
堤灯の男は陸軍士官からの距離を保ったままに、小豆色のマフラーの男に近寄っていった。
その様子を、さして不審には思わず、小豆色のマフラーの男が堤灯の男に話し掛けた。
「お父さんは、元気かね?」
返事は素っ気なかった。
「父は先年、亡くなりました」
「そうか……」
半ば予想された事実ではあったらしく、男の嘆息は短かった。
「先頃は御当主がお亡くなりになり、ついには権爺(ごんじい)さんも――真宮寺のお家(いえ)も、いよいよ名実ともに代替りか……」
その言葉を遮るように、
「どうぞ、中へ――」
と堤灯が揺れ、通用口が照らし出された。
「――ありがとう」
小豆色のマフラーの男は陸軍士官を従え、通用口を潜(くぐ)っていった。