7 アグダヤ


 再び、サミュエルの周りの風景が滑り出しました。
 あちこちで輝いているはずの無数の星々が、まったく見えなくなってしまったところを見ると、かなりの猛スピードで動いているのでしょう。

 やがて、その動きは止まりました。
 見ると、両手を伸ばせばすぐ届いてしまいそうな大きな渦巻型銀河が、その美しい姿を優美に横たえていました。
 それは、思わずはっと息を飲むすばらしい光景のように思えました。

(どうかな。よい眺めだろう?)
 サミュエルの聞き覚えのある声がしました。
 先ほどの老人は、やはり乳白色のローブをまとって頭に黒っぽい頭巾をかぶり、ニコニコと微笑んでいました。今度は両手になにやら大きな本を抱えています。
(どれ、少々重いので失礼させてもらうかな)
 老人は、あの青年将校と同じように、サミュエルの目には映らない岩かベンチのようなもの腰掛けて、一息いれました。
(その大きな本は、なに?)
 サミュエルは不思議そうに尋ねました。
 老人は、愉快そうに笑いました。
(これはな、〈アグダヤ〉といって、この宇宙を支配する黄金律を書き記したものだよ)
(…〈アグダヤ〉? どういう意味なの)
(さあなあ…。古くからこちらの世界に伝わる言葉で、意味はよく分かっていないのだ。どの古文書が出典なのかすらも、わかっておらん。大昔の魔術師が記したものに〈アグダヤ〉という言葉だけは出てはおるのだが、意味は記されておらん。ただ、最近までは、唯一絶対の神の名、というふうに解釈されておったようだがな。しかし、私は考えたのさ。この言葉は、もっと深い意味があるに違いないとね。私は、こう思うことにしている。〈アグダヤ〉とは、この銀河宇宙を司る物理法則の名ではないかと)
(物理法則…?)
(そうさ。単なる法則の名だ。ほら、おまえたちの世界にもあるのだろう? なんといったかな? ケプラーの法則だの、ガレリオの法則だの…。あの類のことさ)
(それじゃ、そんなにすごいものじゃないね)
(それは違うな。少なくとも、その辺に転がっている神々の名前よりは、ずっとすごいものだと思うね。だいたい、なにか人類に危機的なことが起こって、そのつど、神が現れてすべてを片付けてくれるという考えを、私は好かない。おっと、これは私の主観が多分に入っているから、おまえは軽く聞き流してくれていい)
(うん…)
(で、だ…。結局、人間たちは、この宇宙は、神の思召しによって全てが営まれていると考え始める。全知全能の神がいて、すべて、その偉い神がやってくれるんだ、とね。そして、自らの存在理由に気づきもしなかった。おそらく、この先もそうだろう。まあ、それもいい。しかし、本当の人間の存在理由は、もっと別のところにあったのだよ)

 老人は少し口を休めたあと、また話し始めました。
(すべての生命は、次の世代に子孫を残していく。そして、実は宇宙も例外ではなかった。わかるかな? 宇宙も、やがては、その役割を終え、次の世代へと交代していくのだよ。その、次の世代を準備するうえで、私たちの宇宙は〈人間〉という唯一の知的生命体を生みだした。つまり、人間は次の世代の宇宙の〈構築〉の役割を果たすためだけに、この世界に存在していることになる。ほら、これをごらん)
 老人は側へくるよう手招きしました。サミュエルは、老人の脇へ歩み寄って、老人が膝の上に開いている大きな本の中身をのぞき込みました。そこのページには、サミュエルの知らない文字で、なにやら数式のようなものが、びっしりと書かれてありました。
(これが、私たちの宇宙を支配する物理法則さ。私たちの前の宇宙の知的生命体が、この宇宙を設計する上で書き記したであろうものを、私があらゆる観測をもとに、この本に復元した。どうだい、すごい量の式だろう? 全部で数万からなる難しい方程式で表されている。どうやら、私たちの宇宙は、かなり複雑につくられたらしい。まあ、考えてみれば当然かも知れない。かつて、紛れもなく人間であったはずの魔術師と呼ばれていた連中が、やれ魔法だ、魔術だといって、やっていたこと思い出せば分かる。時間を操ったり、自由自在に瞬間移動をしたり、手の先から稲妻を出してみたり、空中に浮いてみたり、そういったことを平気で許す物理法則だ。複雑なのは当り前だろう。それに比べて、これが、私たちで造った次の世代の宇宙の物理法則さ)
 そう云って老人は無造作に袂から一枚の紙きれを取りだしました。そこには式のようなものが一行しか書かれていませんでした。
(たったこれだけ…?)
(そう、たった、これだけ。ずっと単純でこぎれいなものだろう?)
 老人は幾分得意に云いました。サミュエルは尋ねました。
(でも、こうやって物理法則を造っている人たち、つまり、あなたは、やはり神様じゃないの?)
(たしかに、私は普通の人間じゃない。昔は世間から魔道師と呼ばれておった者の一人で、魔法力学によって支配されていた次元が巻取られてしまった後も、どういう訳か依然、魔力は衰えず、こうして、あれこれ数千年間生き続けている。おそらく、私はあらかじめそう設計されていたのだろう。しかしな、私も一応は人間だ。しっかり食べ物を食べ、睡眠をとらなくては生きて行けない。所詮、私は一個の人間にすぎぬ。たしかに私たちの構築した宇宙に住む〈人間〉、つまりおまえたちの目から見れば私は〈神〉ということになるかもしれぬ。しかし、この宇宙の人間である以上、また、いったん宇宙を構築してしまった以上、私はその次の宇宙に対してなんの影響も及ぼすことはできんのだ。もちろん、私と共にこの一行の数式を完成させた者たちも同様だ)
(それは、さっき僕の目の前に現れた人たちのことだね?)
(そうだな)
(では、あの中世風の鎧を着た若い男の人の云っていた〈ある傑出した魔術師〉というのは?)
(たしかに、魔法力学の次元を巻取ったのはこの私さ)
 老人は肩をすくめて云いました。
(私は、次の世代の宇宙への壮大な〈引き継ぎ式〉の〈司会者〉という貧乏くじを引いてしまったらしい。そろそろ役目も終わりに近づいてきたことだし、間もなく私も死ぬだろうが、まあ、それなりにやりがいのある人生だったよ。次の宇宙での〈司会役〉は、はたして誰になるか、私には、まったくわからん。何しろ、私たちの宇宙のように、ある一つの惑星に一種の〈特異点〉をもうけ、そのほかの惑星では、いっさい知的生命体が誕生しないようにする、という馬鹿げたことはしなかったからね。どこの惑星で生まれた〈人間〉が、この〈司会役〉のポストのつくのかはまったくわからん。いや、次の世代からはもうそんな〈人間〉は存在しないのかもしれんな)

 サミュエルは、視線を転じて目の前に優雅に横たわる銀河系を眺めました。そして、再び老人に目を向けました。
 しかし、老人はその場にはもういませんでした。サミュエルの目が離れたときにどこかへと行ってしまったのでしょう。
 でも、もうサミュエルは驚いたり悲しんだりはしませんでした。ただ、これでお別れなのかと思うと少し心残りでした。

 そんな心のうちを察したのか、どこからともなく老人の声だけが、戻ってきました。
(もう時間のようだ。が、まだ、私はここにいるよ。姿形は見えなくともな)
(一つだけ聞いてもいいですか?)
(かまわんよ)
(なんで、次の宇宙では、たくさんの人間を誕生させるようにしたの?)
(うーむ。なかなかむずかしい質問だね。いいかい? 何度も云うが、生命というものは決して偶然の産物として片付けてはならない。一個の生命は一個の惑星よりも重いとは、よく云われることだ。それくらい生命とはすばらしいもの。まして、知的生命体は自分で考えることができる、ということだけでも、ずっと希有の存在だ。その知的生命体を、たった一種類しか生まれさせないなんておかしい話じゃないか? 何十種類、いいや、何万種類、何億種類の〈人間〉がいて、それが普通じゃないか。それに…)
(…それに?)
(うん? いや、なあに。私たちが存分に味わったあの恐ろしい孤独感を、もう誰にも味わって欲しくないんだ。それだけだよ)
 予想外に簡潔で素朴な理由のようにサミュエルは思えました。
(そうそう。一ついい忘れたがね、いまそこに見えているきれいな銀河は、おまえたちの宇宙のおまえたちの銀河だよ。そして、私たちが構築した宇宙の無数のなかの一つの銀河でもある。私は、ここからそちらの世界には顔をのぞかせることしかできないのだ。そして、おまえは、もう、この私の手製の〈天文台〉ともお別れだ…)

 サミュエルは急速な落下の感触を感じました。
 そして、瞬くまに意識がぽおっとしていってしまいました。自分は、また、あの野原に戻って行っているのだな、とサミュエルは考えながら、やがて意識は薄らいで行きました。
(じゃあね、ぼうや。元気で暮らすのだよ)
 あの老人は、最後にそんなことを云ってくれたような気がしました。

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