気が付くと、あの、たくさん浮かんでいた小惑星は、どこかへ消え去っていました。何もない、のっぺらぼうな空間が、どこまでも、どこまでも、続いているのが分かります。ただ、小さなたくさんの星たちが、この殺風景な風景画をわずかに賑わしていました。
(こんなところで何をしているんだい?)
(え?)
サミュエルは、いま、人の声がした方を振り向きました。
そこには、中世の王族や貴族がまとう鎧のようなものを身につけた若い男が立っていました。何か物足りないなと思うのは、おそらく腰にあるべき長剣はおろか寸鉄すら帯びていなかったからでしょう。
(おや? おまえは私たちとどこか違う種類の人間のようだね)
サミュエルは、ぎくっ、としました。それを見てとった若い男は穏やかな微笑みを浮かべました。
(いや、心配はいらない。べつに、おまえをとって食おうと云うのではないからね)
(…ごめんなさい)
サミュエルは恥ずかしそうに云いました。
(まあ、詫びはいい。どうせたいしたことではないのだから)
若い男の黒曜石を溶かし込んだような瞳は、高貴で思慮深そうな本人の性格を表現しているように思えました。
(あなたは誰なの?)
(うむ? 私か? 私は昔、宇宙に関する重大な出来事に携わった者だよ。自らの使命を終えた今も、こうしてときどき自分の住む世界をなんとなく歩き回ってみたくなる)
(と、いうことはあなたは偉い人なの?)
(偉い人? 一口に偉いと云っても、いろいろな偉さがあると思うが、まあ、身分は高い方だった)
(身分が高いということと偉いと云うことは違うの?)
(違う。…少なくとも、私はそう思いたい)
(なぜ?)
若い男は、笑って優しく諭すように少年に云って聞かせました。
(いいかい? きみも学校では歴史というものを習っているだろう? もし、王や貴族や政治家たちが、みんな偉い人だったら、歴史はどうなっていたと思う?)
(みんなが偉い人たちではないの?)
男は、愉快そうに笑いました。
(違うな。もし、みんながそんな偉い人だったら、歴史は実につまらないものとなってしまうだろう。だってそうだ。もし、歴史上の人物のみんなが神様みたいな賢く偉い人だったら、もう、それは人の住む世界じゃない。天国だ。そこには、泣いたり笑ったり怒ったり、という人間臭ささがまったく感じられない。愚かな為政者がいっぱいいるから歴史は面白くなるんだ。血生臭くもなるけどね)
男は、なおも語り続けました。
(むかし、まだ、人類が一個の惑星上にしがみついて生活していた頃、この宇宙は神のようなごく一部の人間によって支配されていた。いや、本当は神でもなんでもない。ごく普通の人間によって支配されていたのだ)
(ごく普通の人間?)
(そうだ。この世の物理法則は、あらゆる部分にいたるまで、その者たちの手によっていじくられていた。ほら、おまえも聞いたことくらいはあるだろう? 魔法使いだとか魔術師とかいった連中のことだよ。彼らは、この世の知られざる力学を用い、瞬時のうちに遠い距離を行き来したり、遠く離れた地点どうしで会話を交わしてみたり、怪し気な独自の空間をつくりだしてみたり、時間を自由に操ってみたり、そんなことばかりをしては、楽しんでいたのだ。そして、大部分の人々は、そのような力学の存在を知らずに、ただ魔術師のなす不可思議な動作に驚いていた)
(魔術師は人間なの?)
(もちろん。…いや、より厳密には、魔術師たちは、神と人間たちとのちょうど中間に位置していたといえるだろう。当時は平和な時代でもあった。人々は、社会における身分の違いに疑問を持つものは、まして、人類全員に等しく与えられた宇宙的規模での〈権利〉に気づくものは、魔術師と呼ばれる者以外にはいなかった。魔術師たちは、一国の政治から、広大な銀河宇宙の営みのすべてに至るまでをコントロールした。大規模な戦争などもほとんどなかった。人々が神の仕業だと、ありがたがっていたものは、実はすべて彼ら魔術師の手によってなされたものだった)
(そうだったの…。ちょっと驚きだよ)
(しかし、それも長くは続かなかった。人類の理性がとぎすまされるにしたがって、魔術師たちの間に論争がくすぶり始めた。自分たちだけが、この全宇宙を支配し続けていいものだろうか、等しく全人類に与えられた〈権利〉を独占していていいものだろうか、と。そして、あるとき、一人の傑出した魔術師の手によって、それまで、彼らの力の源だった物理法則の支配する次元が、巻きとられてしまった。さらに、彼らのもう一つよりどころであった専制君主制と呼ばれる政治形態もなくなって、代わりに民主制というものが登場した。彼らは、ついに人間たちの政治も操れなくなってしまった。なにしろ、民主政治は君主政治に比べて、ずっと大勢の人間が政治を行うからね。影で操るということが不可能なのだ)
(そして、どうなったの?)
(小数の賢かった魔術師たちは、どんどん衰退していったよ。かわって、多数の愚かな人間たちが表舞台に登場してきた。人間たちはそれまでの魔術師たちに劣るとも優らない理性と知識欲を発揮し、科学を発展させ、自力で宇宙に飛び出した。そして、次々と銀河宇宙へ無秩序に進出していった。ところが人間は、やはり、そんなに賢くはない。魔術師たちも、そんなに賢い訳ではなかったが、群れをなす人間たちに比べれば、はるかにましだった。やがて、互いの欲望が衝突しあうようになる。その一つ結果が、現在あちこちで繰り広げられている恒星間戦争なのだよ)
(じゃあ、魔術師たちが支配していた頃がよかったというの?)
(いや、私は、こう思う。もし、あのまま魔術師たちが世の中を支配していたなら、いまよりも、もっと人間は不幸だったかもしれない。なぜなら、この〈階級革命〉以降、人類は、いい意味でも悪い意味でも、飛躍的に発展していったからだ。もし、〈階級革命〉が行われないままだったら、人類はいまだに一個の惑星上に住み続け、自分たちが何者であるかも知らずにいたに違いない。〈権利〉は一部の人間が独占していいものではなかったのだ。どんなに愚かな人にも等しく与えられなくてはならない。たとえ、その結果、人類が不幸になったとしても、それは〈権利〉が与えられない不幸よりは、ずっとましだったはず…。なにより、ようやくあのときから、人類は魔術師たちに押し付けられた歴史ではなく、人としての歴史を綴り始めたのだから…)
急に声が途切れたと思ったとき、すでに若い男の姿は消えていました。
(どこいっちゃったの?)
サミュエルはなにもない宇宙空間にむかって叫びました。声だけの返事がすぐに返ってきました。
(ごめんよ、私にはもう時間がないのだ。こんなことを話すつもりもなかったのに…。私のつまらない話を聞いてくれてありがとう。これで少しは私の迷いもふっきれたように思う…)
そして、それっきり声は途絶えました。サミュエルがどんなに大きな声で呼びかけても、もう再び返事はありませんでした。
サミュエルは三度、広大な宇宙空間に取り残されてしまいました。