3 水の惑星


 その声の余韻が、まだ残っているうちのことでした。
 ふと、老人の姿が消えてしまいます。それだけではありません。サミュエルの足元に今までたしかにあった青白い惑星もどこかへ飛んで行ってしまいました。正確には、サミュエルのほうが飛んでいるのでしょうが…。
 サミュエルは、また、ひとり何もない暗闇に、ぽおんと放り出されてしまいました。

 しかし、孤独は、さっきよりは、ずっと短かったように思えます。
 気が付くと、サミュエルの足元には先ほどと同じ様な青白い惑星が雄大に浮かんでいます。
 ほどなく、サミュエルの身体は、青白い惑星に吸い込まれるように落ちて行きました。サミュエルは両手と両足をおもいっきり広げて、ゆったりと身を任せました。
 幻想的な眺めでした。サミュエルは目の前の惑星の美しさにひかれて落ちて行くような気分になりました。

 やがて、漂う雲のなかに身を沈め、さらにその厚い雲海を抜けて、サミュエルはずんずん落ちて行きます。
 サミュエルは下方へ目を凝らしました。真っ青な、透き通るような、きれいな海です。そのなかに何かが銀色に鈍く輝いているのが見えます。それは、海に面した大都市のようでした。
(すごい…)
 思わずサミュエルは呟きました。
 街の様子は上空からのぞき込んだ限りでは、サミュエルの知っているどの街とも違っていました。それは地形の細かな違いがどうの、あるいは、あのビルが立っている場所がどうの…、というのではありません。それは、もっとずっと根本的なものでした。サミュエルは一目見て、この街は、サミュエルの知っている〈人間〉が造ったものではないと思いました。なぜかは分かりません。しかし、そう強く感じさせる何かがあったのです。
(これは他の惑星の人たちの街かもしれない)
 サミュエルは、ごく自然にそう思いました。
 なんだか胸がときめいてきました。

 やがて、街の様子もはっきりしてきました。
 にぎやかな大通り。活気に満ちていて、人がごった返しているところを見ると、あそこが目抜き通りなのでしょうか。広場のようなところで、誰かがかけずり回っています。そこは公園なのでしょうか。それとも、子供たちの学校なのでしょうか。
(天文台はあるかしら)
 サミュエルはすっかり夢中になって探しました。
(あれかな?)
 街のすぐ近くの山の頂上に、サミュエルの村のものをふた回り大きくしたような天文台らしきドームが見えました。
(この星の人も、きっとあそこから毎晩ハッブルや先生と同じように夜空を眺めているのかしら。いや、きっとそうだろうなあ)
 サミュエルは嬉しくなりました。このまま早く地面に下りきってくれないかしらと、そればかりが気になりました。
 ところがどうしたことでしょう。
 いつの間にか、サミュエルの身体は、再び、昇り始めていきます。
(なんで! まだ見たいことがいっぱいあるのに)
 湖の底から、浮袋にしがみついて徐々に水面上へ昇って行くように、サミュエルはふわりふわりと上昇を続けました。
(やだ、まだ見ていたいのに。まだ誰とも何もお話していないのに)
 サミュエルの意志に反して、サミュエル自身の身体はどんどん街から遠ざかって行きます。とうとう鈍い銀色の街並みは、搾りたてのミルクを溶かし込んだ様な雲海に隠されて見えなくなりました。

 そして、もうここは先ほどの宇宙空間でした。
 老人はすまなそうに、こちらをみて云いました。
(あまり時間がないんだ。許しておくれ)
 サミュエルは、こぼれかかっていた涙を拭き取って、首を横に振りました。
(いいんです)
(そうか。いや、本当にすまなかったね)
 老人はわずかに口元をほころばせました。
(それよりも、聞きたいことがあるんです。おじいさん)
(うむ、なにかな?)
(この星に住む人たちは、いったい、どんな人たちなの?)
 サミュエルは、足元の青白い水の惑星を指して尋ねました。
(なるほど。もっともな質問だな。しかし、残念ながら、彼らはおまえの期待しているような、いわゆる〈宇宙人〉ではない。そもそも、おまえと私を取り巻くこの広大な宇宙は、実は、おまえの知っている宇宙ではないのだよ)
 サミュエルは頭の中が一瞬だけ空白になったように感じました。老人らしくしわがれた、それでいて若く律動的な声は、なおも続きます。
(この宇宙とおまえの住んでいる宇宙とは、双方のあらゆる根本的な物理法則に至るまで、すべて異なっている。いいかい? まったくの別物なのだよ。似てはいるがね。でも、おまえたちの宇宙とは別の宇宙なのだ)
(…パラレル・ワールドのこと…?)
 前に読んだSF小説になかで出てきた言葉を、サミュエルは口に出しました。
(まあ、そういうことになるかな。別の云い方をするとね。が、この宇宙がおまえたちの宇宙と時間的に平行して存在している訳ではない。いや、もっと正確に云うとね、いいかい? この宇宙とおまえたちの宇宙とを同時に計る時間の尺度がないから、実際のところは、この宇宙がおまえたちの宇宙のあとに生まれたものなのか、さきに生まれたものなのか、まったく分からないのだよ)
 分かったような、分からなかったような、そんな老人の説明でした。しかしサミュエルは夢中で話の先を促しました。
(この宇宙ではね、〈人間〉は、たった一種類しか存在しないんだ。つまり、この星の人たちにとって、未知なる〈宇宙人〉というものが存在しないのだよ。彼らも、そのことには感づいている。なにしろ、彼らは、ものすごく高度な文明を保持しているからね。人類の支配域は、この銀河系のほぼ全域にわたっていて、人々はいくつもの可住惑星に分散して生活している。この惑星も、そうした星のなかの一つだ。まさに、おまえたちの世界の科学者やSF作家たちが思い描いている<銀河帝国文明>そのものだね)
(じゃあ、この惑星に住む人のほかにも大勢の仲間がいるんだね?)
(そういうことだ。でも、〈仲間〉かどうかは分からないな。なにしろ…)
 老人は何かに気づいて、ふと黙ってしまいました。
(どうしたの?)
(どうやら、私の推測が当たってしまったようだよ)
(推測…?)
(ああ。あんまり楽しい推測じゃないんだ。見ていれば時期に分かるがね)
 老人の表情は、今までとはうってかわって、沈み込んでしまいました。サミュエルは不安そうに老人の横顔に目をやりました。
 いったい何が起こるのでしょうか? サミュエルは辺りを見回しました。青白い水の惑星が一つ、美しくたたずんでいる以外は、なにもありません。果てしない星海が、どこまでも広がっているように見えるだけでした。

 気が付いたとき、老人の姿は、そこにはありませんでした。
 サミュエルは慌てました。
(おじいさん! どこなの?)
 しかし、音になっての返事はいっさいありません。かわりに、いままで雄大な姿を浮かべていた青白い惑星が、急に遠ざかり始めました。惑星の方が動いたのではなく、自分の方が動いたのだ、と気が付いたのは、それから間もなくです。しかし、サミュエルの目には明らかに、惑星の方が遠ざかっているように見えます。もし、サミュエルに相対的なものの見え方という知識がなかったら、あるいはずっと誤解しっぱなしだったかもしれません。それほど惑星の移動は現実味を帯びていました。
 とうとう青白い惑星は、ちょうど両手で抱え込めるくらいの大きさに縮んだように見えました。そのとき、ふと、惑星は、いえ正確には、サミュエル自身が、遠ざかるのをやめました。そして、しばらくの間、サミュエルは何もない宇宙空間の真っただ中で、一人たたずんでいなければなりませんでした。

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