先ほど来た道を、サミュエルは家の方に向かって歩きました。来たときと比べると、足取りは重く、肩はしょげています。
(先生は明日も呼んでくれるかしら? ああ、でも先生は明日の夜は街へ出かけるって云ってたっけ)
坂道を下りて、湖岸沿いの道に出ました。
優しく打ち寄せる波の音がします。サミュエルは、たまたま足元にあった小石をポンと蹴りました。わずかな沈黙の後、チョポンという水音が耳に届きました。
(雲の上を突き出られればいいのにね)
サミュエルは頭上の黒い雲に、届かない抗議の目を向けました。もちろん、雲はそんなこと、知らんぷりです。
やがて湖岸からも離れ、サミュエルは野原のなかの小道へ入って行きました。
そして、とうとう、どんなに耳をすませても波の音が聞こえなくなった頃のことです。
サミュエルは、冷えきった頬に、暖かいそよ風がよぎるのを、一瞬だけ、感じました。
サミュエルは、おもわず立ちどまって、辺りを見回しました。
(今のはなんだったんだろう。こんな寒い夜の、しかも、誰もいないこの野原のまん中で、いったい、どこから暖かい風が迷い込んで来たのだろう。それとも気のせいかしら)
そのときでした。
暖かい微風にのって、優しく歌うヴァイオリンのような声が流れてきます。よく聞いてみると、それはサミュエルにささやきかけてきました。
(…銀河宇宙の天文台…)
(…ようこそ、ここ、銀河宇宙の天文台に…)
(…過去も未来も、すべてが見える、銀河宇宙の天文台へ…)
(…親子宇宙も、そして、兄弟宇宙ものぞける銀河宇宙の天文台にようこそ…)
(…さあ、銀河宇宙の天文台へ…)
(…さあ…)
気が付くと、サミュエルは真っ暗闇の中で、一人、立っていました。いえ、立っているのかも分かりません。暗くて、サミュエルがどんなに目を凝らしても、周りはまったく見えませんでした。
いつの間にか、先ほどの優しく歌うヴァイオリンのような声は止んでいました。サミュエルの耳には何も聞こえていません。
漆黒の暗闇に取り残されて、サミュエルは、だんだん恐くなってきました。爪先をいくらバタつかせても、地面らしきものを探り当てることができません。
サミュエルは泣きたくなるのを必死でこらえます。そして、その勇気が、まるで今にも燃えつきようとするローソクの炎のように、ふっと消えかかりそうになったとき…。
パアッと、足元が青白く光りました。まるで青白い太陽が地平線の向こう側から、その顔をのぞかせた瞬間のように。そして、サミュエルは、何か目に見えない地面のようなものに、しっかりと立っている自分を見いだしました。
誰か、人の声がします。
(はは。よくきたね)
サミュエルは、後ろを振り向きました。
乳白色のローブに身をまとって、頭に黒っぽい頭巾を被った一人の老人が、ずっと向こうのほうから、こちらを見て微笑んでいました。
(…誰?)
老人は、いたずらっぽく笑って云いました。
(誰だと思う?)
不思議です。老人は、その表情がやっと見分けられるほどのところに立っているのに、その声は、サミュエルの耳元でささやかれているように聞こえました。しかし、サミュエルの不安が消えたわけではありません。
(おじいさん。ここはどこなの?)
老人は優しく笑いました。
(ここかい? ここはね、私の手製の天文台さ)
(天文台…?)
(そう、〈銀河宇宙の天文台〉。ここからは、たとえどんなに遠くにあるものでも、人の見たいものなら、なんだって、すぐに見ることができるんだよ)
(うそだよ。この世で一番速い光でも、速さには限りがあるから、人間がすべてのものを見ることはできないって、先生が云ってたもの)
サミュエルの少し刺のある口調に、老人は楽しそうに笑いました。
(おまえは、なかなか物知りだね。そうさ。たしかに光の速さには限りがある。でも、いま私がこうして、ここにいられるのも、あるいは、この天文台が、すべてのことを見せてくれるのも、それとは無関係のことなのさ。何故だか分かるかい?)
サミュエルは首を横に振りました。
(そうだろうね。でも、そんなことは、いっこうにかまいやしないよ。どうせ、おまえたちには関係のないことだから)
いつの間にか、老人はサミュエルのすぐそばまで、近づいてきました。サミュエルは老人の着ているローブに目をやりました。見たところ、それはサミュエルのよく知っている洋服と、たいして変わったところはありません。でも、ただ一つの違うところを云うとしたら、それは、ローブを成している一本一本の糸が、まるで星くずを一カ所に集め、そこから紡ぎだしたようになめらかに思えることでした。
その乳白色のローブがよく似合う老人は云います。
(下をごらん)
サミュエルは云われるままに、足元のきれいな青色の惑星を見おろしました。先ほど、辺りが青白く輝きだしたのは、この惑星のせいだったのでしょう。
(これは、おまえの住んでいる惑星だ。〈地球〉と、おまえたちは呼んでいるね?)
(はい…)
(おまえは、このような星があと幾つこの宇宙にはあると思う?)
(いっぱいでしょう?)
(いっぱいとはどれくらい?)
(数え切れないくらい。そう、この星に住む人の数よりも、もっともっと多いくらい)
(では、その他の星に住む人たちと会ってみたいと思うことは?)
(あるよ。でも、それには人間が光の速さで動けるようにならないといけないんでしょう? 僕の生きている間は無理なような気がするけど…)
老人は、少年のように得意気な表情を、ほんの少し、のぞかせて云いました。
(では、一つ、この〈銀河宇宙の天文台〉で、おまえの見果てぬ夢をかなえてあげよう)
老人は、笑って目を細めました。