――私は神のパズルを解くのが好きだ
アルバート・アインシュタイン

   1 村の少年


 冬の寒い夜でした。
 サミュエルは満天の星空のもと、誰もいない小道を急いでいました。日が沈んでから、すでにかなりの時間がたっています。空のはるか上方に引かれた紺色のカーテンに、小さな、小さな宝石を、ぱあっと、散りばめたような夜空は、いつ仰ぎ見ても、きれいでした。
 真っ黒に染まった冬の野原は、神秘的なまでに静まりかえっていて、人の心を幻想の世界へ誘ってくれます。サミュエルは何度もここを通るうちに、いつしか、この雰囲気のすべてが好きになっていました。

 サミュエルは、村の天文台に出入りする少年です。
 今夜はうっかり、家をでる時間が遅れてしまいました。いつもなら夕食をすませると、すぐに家を出るのですが、今日は学校から帰るなり、先日、買ってもらったばかりの天文学の本を夢中でよんでいていたので、時間になっても気付かなかったのです。本当なら、今ごろは天文台に入って、自分に割り当てられた仕事に取り掛かっている頃です。
 湖岸に沿って冬の野原をぬけていく道を、サミュエルは歩くとも走るともつかない歩調で進みました。
 昼間だったら十分も歩けば、丘の上の白い天文台が見えてくるはずです。サミュエルは自然と足を速めました。

 丘の上の天文台まで通じる細く緩やかな坂を、サミュエルは一気に登りました。街灯など、ここにはありません。慣れない人だとつまずいてしまうこともよくある。そういう、かなりゴテゴテとした坂道でした。その坂道を、サミュエルはほとんどかけのぼる調子で通りすぎました。目の前に、薄くぼやけた天文台の白い壁が、静かにそびえ立って、彼を迎えます。
 サミュエルは錆びた鉄の階段をトントンと登って、いつも出入りする扉から天文台へ入りました。
 中は真っ暗でした。
「先生…!」
 サミュエルの甲高い声が冷たい天井に響きます。
 すると暗闇のどこかで鉄の戸が開く音がしました。その一種不気味ともいえる余韻は、やがてバタンという大きな音によってすぐにかき消されてしまいます。

 向こうの小部屋から中年の痩せた男性が、防寒具に身を包み、手にランプをぶら提げて出てきました。
「今夜は来てくれないかと思ったよ」
 男性は口から白い息をはきながら云いました。
「遅れてごめんなさい」
「いいよ、いいよ。今日は学校が終わったのも遅かったからねえ」
 男性は、村で唯一の学校の先生でした。学校といっても、ごく小さなもので、先生が一人、生徒の人数も両手の指でなんとか数えられる程度のものでした。サミュエルは、昼間は先生の授業を受け、夜はこうして先生の観測の手伝いをすることになっているのです。
「お姉さんにはちゃんと断わって出てきたんだろうねえ」
「はい」
「はは。そうか。そうか。いつだったか、ひどく遅くなったことがあったものねえ。あれは…」
 と、先生は一旦天井を仰ぎ見た後、サミュエルに聞きました。
「あれは、いつだっけ?」
「去年の冬です。まだ母さんが死んで間もなかったから…」
「ふうん…」
「大丈夫。寂しくはありません」
「ああ、そうかい? まあ…」
 先生は付け足すように、そっと云いました。
「でも、今夜は早く帰らないといけないよ」
「はい…」

 先生は中央の大きな望遠鏡のかたわらによって、なにやら器具の点検を始めました。
「すまないが、これを持っていておくれ」
 先生は手に提げていたランプをサミュエルに手渡しました。
「ちゃんと照らしておくれよ」
「はい…」
 ぐーん、という音と共に、天文台の望遠鏡が屋根から突き出て、夜空の一角に標準が合わされます。
 サミュエルは先生にランプを持ってあげながら、天井が左右に割れてできた隙間から冷たい夜空を仰ぎ見ました。なんだか、数えきれないほどの星たちにすべてをのぞかれているような、くすぐったいような、安心したような、へんな気分になりました。
 こういう時、先生はいろいろなお話しを聞かせてくれるのが常でした。今夜はどんなお話だろう? サミュエルはいつも楽しみ先生の話を待ちます。

 しばらくして、先生はいつもと変わらない口調でサミュエルに尋ねました。
「サミュエル、きみはハッブルという人を知っているね?」
「はい…、今日、天文学の本で読んだばかりです」
「アメリカが生んだ偉大な天文学者さ。彼のおかげで、この静かな宇宙が、実はものすごい勢いで膨張しているのだということを、人類は初めて知ることができた。私たちは本当に彼に感謝しないといけないねえ」
「そうですね。でも、もしかしたらハッブル以外の別の人が見つけたかもしれないんでしょう…?」
 サミュエルの質問に、先生は苦笑混じりに云いました。
「それは違うな。やはり、最初に発見したのはハッブルだろう? なんの分野でもそうだけど、科学者は我慢強くなくちゃいけないんだ。天文学者なんていうのは特にそうさ。努力して努力して、それプラスちょっと冴えた頭と少しばかりの運。これですごい発見ができるかどうかが決まる。ハッブルはそれに見合うだけの、すごい努力をしたからこそ、ああいう大発見をなし得たのさ。そういう意味じゃあ、彼は、あのニュートンやアインシュタインよりも、もっと、もっと、みんなに誉められるべきだと思う。そりゃ、ニュートンもアインシュタインも努力しなかった訳じゃないけどねえ」
「先生はニュートンもアインシュタインも好きじゃないの?」
「うむ…、やっぱり彼らは天才だからねえ。例えば、ニュートンやアインシュタインが、この村のどこかに住んでいたとしたら、近寄りがたいと思うだろうなあ」
「そうかな、僕だったら、毎日、遊びに行くけど…。だって、いろいろなことを聞きたいもの。なんで宇宙は膨らんでいるのか、宇宙の果てはどうなっているのか、なんで僕たちの宇宙はこうやって存在してるのか…」
「ハハハ…、二人ともさぞ困るだろうねえ」
「なんで困るの…?」
「そりゃ困るとも。ニュートンもアインシュタインも神様じゃない。神様だけが知っていることを、神様じゃない人が知っていたら、つまらないだろう?」
「じゃあ、神様は全部、知っているの?」
「神様が本当にいればねえ」
「神様は本当にいるの?」
「私はいると思っておるよ。だって、そうだろう? もし宇宙というものが、今のいままで、ただひたすらに存在し続けて、これからも、ただひたすらに存在し続けるだけだとしたら、やはり、どこか寂しいんじゃないか。とても殺伐とした宇宙になってしまう」

 先生はそう云って、最後の点検も終えました。サミュエルは、今夜みたいな寒い夜には、いささか頼りないくらいの小さな灯を、先生に手渡しました。
 先生は受け取ったランプを木製の机の上に置いて、右手の鉄の扉のほうに歩いて行きました。古びた戸棚がそこにはあります。先生はしゃがんで中から小さなランプを取り出しました。
 先生は、それに火を移し、そして机のかたわらに立っているサミュエルに、ついてくるよう促しました。
 サミュエルは先生のあとを追って、ベランダに通じる階段を上がりました。
 机の上にひとり取り残されたランプは、白い壁に先生とサミュエルの大きくなった影を、ほのかに映しだします。
 やがて、階段を上がり終えて、先生はベランダの扉のすぐ脇にある寒暖計と湿度計に目をやりました。ふと、どこかの隙間から流れ込んだ外気がサミュエルの頬にひゅっと触れました。サミュエルは扉を開けて外に出て、紺碧の空を見上げました。するとどうでしょう?

 さっきまで、あれほど晴れていた夜空が、にわかに曇っているではありませんか。まるで、小さな宝石をいっぱい散りばめた鮮やかな紺色のカーテンに、上から突然、今度は黒いハンカチでもかぶせてしまった、とでもいうように。
「先生…!」
 サミュエルの声に、先生もベランダに出て一緒になって夜空を仰ぎました。
「これは困ったねえ」
「どうしますか?」
「大丈夫。湿度計を見ても、雨が降る様子はなさそうだ。しばらく待てば、晴れるだろう。でも…」
 と、云いかけて、先生は腕組をしました。
「うん…、そうなるとサミュエル…、おまえは帰った方がいいねえ。遅くなってまた心配をかけると良くない」
 後半は先生の声も小さくなりました。
 サミュエルは残念そうな表情を隠せませんでした。しかし、口に出して、だだをこねる訳にもいきません。
「それじゃ先生、僕、帰ります。おやすみなさい」
 寂しそうな表情の先生に見送られて、サミュエルは天文台を後にしました。

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