明梨が顔を持ち上げた。
だから、僕は明梨の顔を真正面から見据えた。
「そういうことを、きみは考えない?」
「考えたことは、あるけど、もう忘れちゃった」
と明梨は云った。
空回りしている自分を感じた。
慌てて言葉を探していると、突然、明梨が、
「――あなたの云ってることって、宗教じゃない?」
と云ったので、僕は力んで反論した。
「違うよ。宗教ってのは、所詮、他人が考えた答えを鵜呑みにすることだ。僕はね、これほどバカにした話はないと思うんだよ。イエス・キリストとか、マホメットとか、ブッダが、どれだけ偉いか知らないけど、なんで連中は別格で、例えば、この僕は、なんぜ最初から彼らの風下にたたなきゃならない? 同じ頭を持ってて、同じ考える人間だ。連中だけに偉そうな顔されてたまるか!」
明梨は笑った。
多分、無理して笑ったのだが、僕は、それに気付かなかった。
「それで?」
と明梨が促すので、僕は続けた。
「……とにかく、人は死ぬ時に半狂乱にならないように、自分が、なぜ、生まれてきたのかを考える義務があると思うんだ。それが哲学だと思う。それを他人に身を委ねるのが宗教――宗教が悪いとは云わないけど、宗教にのめりこんでいる連中を僕は軽蔑したい。人の考えた答えにすがろうなんて情けないよ」
「でも、自分で考えた結果、他人の答えにすがろうというのは悪いことじゃないでしょ? そう思えるんなら、それでいいじゃない」
「でも、僕らの歳では、それは早すぎる。六十とか七十とかになって、とうとうと自分で答えを出せなかったから仕方ない――というなら、いい」
「じゃあ、なに? 大学生は皆、あなたのいう哲学をやらなきゃいけないの?」
明梨の口調に刺を感じ、僕は怯んだ。
明梨も、もしかしたら怯んだかもしれない。
別の意味で……。
二人とも黙った。
一分もした頃、
「……だとしたら、大変だ」
と、ため息混じりに明梨は云った。
先ほどまでの熱気が嘘のようだった。
夏なのに薄ら寒い。
「現実は、そうも云ってらんないってことかい?」
と僕は訊いた。
「当然よ。でなきゃ医学部めざして二浪してる私は何なわけ? 大学に入るためだけに大学に入る。それが現実よ」
もう異論は挟めなかった。
ある程度は、わかっていたことだった。
*
コンと音がして僕は我に変えた。
明梨がビール缶を卓上に置いた音だった。
「二浪は無駄だったかも……」
と明梨は云った。
「どうして?」
と云おうとして、呂律がもつれた。
酔いが回っていた。
「私だって、後悔はしたくないよ」
と明梨は云った。
「――後悔?」
と、きいた。
「死ぬ前の後悔――」
僕は黙って次の言葉を待った。
「私にとって、あなたのいう哲学って、作曲だったかも……って思うの。何でそうなのか、説明しろと云われても困るけどね」
「本当に?」
「うん」
僕は黙った。
返す言葉は見当たらなかった。
「……さ、飲んで」
明梨は僕のコップにビールを注いだ。
「飲めないよ」
と云うと、明梨は自分のコップに注いだ。