(11)


 明梨が顔を持ち上げた。
 だから、僕は明梨の顔を真正面から見据えた。
「そういうことを、きみは考えない?」

「考えたことは、あるけど、もう忘れちゃった」
 と明梨は云った。

 空回りしている自分を感じた。
 慌てて言葉を探していると、突然、明梨が、
「――あなたの云ってることって、宗教じゃない?」
 と云ったので、僕は力んで反論した。

「違うよ。宗教ってのは、所詮、他人が考えた答えを鵜呑みにすることだ。僕はね、これほどバカにした話はないと思うんだよ。イエス・キリストとか、マホメットとか、ブッダが、どれだけ偉いか知らないけど、なんで連中は別格で、例えば、この僕は、なんぜ最初から彼らの風下にたたなきゃならない? 同じ頭を持ってて、同じ考える人間だ。連中だけに偉そうな顔されてたまるか!」

 明梨は笑った。
 多分、無理して笑ったのだが、僕は、それに気付かなかった。

「それで?」
 と明梨が促すので、僕は続けた。
「……とにかく、人は死ぬ時に半狂乱にならないように、自分が、なぜ、生まれてきたのかを考える義務があると思うんだ。それが哲学だと思う。それを他人に身を委ねるのが宗教――宗教が悪いとは云わないけど、宗教にのめりこんでいる連中を僕は軽蔑したい。人の考えた答えにすがろうなんて情けないよ」

「でも、自分で考えた結果、他人の答えにすがろうというのは悪いことじゃないでしょ? そう思えるんなら、それでいいじゃない」
「でも、僕らの歳では、それは早すぎる。六十とか七十とかになって、とうとうと自分で答えを出せなかったから仕方ない――というなら、いい」
「じゃあ、なに? 大学生は皆、あなたのいう哲学をやらなきゃいけないの?」
 明梨の口調に刺を感じ、僕は怯んだ。

 明梨も、もしかしたら怯んだかもしれない。
 別の意味で……。

 二人とも黙った。

 一分もした頃、
「……だとしたら、大変だ」
 と、ため息混じりに明梨は云った。

 先ほどまでの熱気が嘘のようだった。
 夏なのに薄ら寒い。
「現実は、そうも云ってらんないってことかい?」
 と僕は訊いた。

「当然よ。でなきゃ医学部めざして二浪してる私は何なわけ? 大学に入るためだけに大学に入る。それが現実よ」
 もう異論は挟めなかった。
 ある程度は、わかっていたことだった。

   *

 コンと音がして僕は我に変えた。
 明梨がビール缶を卓上に置いた音だった。
「二浪は無駄だったかも……」
 と明梨は云った。
「どうして?」
 と云おうとして、呂律がもつれた。
 酔いが回っていた。

「私だって、後悔はしたくないよ」
 と明梨は云った。
「――後悔?」
 と、きいた。
「死ぬ前の後悔――」

 僕は黙って次の言葉を待った。

「私にとって、あなたのいう哲学って、作曲だったかも……って思うの。何でそうなのか、説明しろと云われても困るけどね」
「本当に?」
「うん」

 僕は黙った。
 返す言葉は見当たらなかった。

「……さ、飲んで」
 明梨は僕のコップにビールを注いだ。
「飲めないよ」
 と云うと、明梨は自分のコップに注いだ。

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