嫌な気分だった。
胸に汚物を蓄えている気分だった。
外で鳴き声がする。
スズメだろうか?
それで、どうにか意識を取り戻せた。
僕は壁にもたれていた。
結局、あのまま眠ったようだ。
卓上には、蓋の開かなかった一本のロング缶が置かれてあった。
そのままの姿勢で周囲を見渡す。
明梨はベッドの上で横になっている。
布団は、かかっていなかった。
昨夜のままの格好で、顔を向こうにし、眠っている。
服にしわが付くと思ったが、そのままにするより仕方ないと思った。
手を出す勇気はなかった。
僕の左手はタオルケットを握っていた。
こんなものを手にした記憶はなかったから、きっと明梨がかけてくれたものだろう。
僕は、よろよろと起き上がった。
部屋の時計は、六時半を指していた。
明梨にもきこえるように、僕は部屋のカーテンを、ぴっと開けた。
夏の朝は日差しが高い。
明梨が目を覚ました。
眠そうな顔だった。
きっと僕も、あんな顔をしているに違いない。
「おはよう」
と僕は笑った。
「……びっくりした」
と明梨は云った。
自分の部屋に男がいること自体に驚いた感じだった。
昨日の記憶が十分でないらしい。
「痛……」
と辛そうに額を押さえ、明梨はベッドから這い出た。
ビールで二日酔いとは、もしかして、明梨も本当は酒に弱いのかもしれない。
ルルル!
と、電話が鳴った。
(こんな時間に……?)
と訝ったが、明梨は無反応だった。
きこえていないわけはないだろうに……。
余計とは思ったが、一言、
「電話だよ」
と云った。
「出てよ」
「僕が?」
「うん……」
「ヤだよ」
「いいから! 早く!」
明梨が怒鳴ったので、仕方なく僕は電話の受話器を取り上げた。
「……はい……」
しばらくの沈黙――何と云うべきか迷っているうちに、ツーツーという音に変わった。
「切れたよ」
と僕が云うと、
「そう……」
と明梨は素っ気なく云った。
「悪戯電話かな?」
「違うよ」
「じゃあ、なに?」
僕は明梨の顔をみた。
「明日あたり、うちの親がここに来るかもね」
「え?」
明梨は疲れた顔で云った。
「毎朝、この時間に電話が来ることになってるの。いまの、きっとお母さんよ」
「おいおい……」
僕は慌てた。
明梨は電話機を眺めながら、おかしそうに云った。
「すぐにかけなおさないところをみると、よっぽど慌ててるな……」
他人事のようだった。
しばらくの沈黙の後、明梨は云った。
「散歩に行かない?」
「え?」
「お散歩――」
明梨は起き上がり、洗面台の前で身繕いを始めた。
*
「結局、私たちって何で生きてるのかな?」
「え?」
「昨日のあなたの話よ」
明梨は、僕を振り返って云った。
付近の住宅地は静かだった。
地下鉄の入り口も閑散としている。
それで、今日が日曜日だということに気付いた。
「どこに行くんだい?」
と問うと、
「ちょっとね」
と教えてはくれなかった。
「もうすぐよ」
と云う。
大通りを一つ渡り、小さな路地に入った。
路は下り坂になっていて、左右は古い木造の住宅が立ち並んでいる。
古いと云っても、たかが知れている古さだが、東京にも、まだ、こんなところが残っているのが意外だった。
緩やかな坂道は長かった。
ふと左手に視界が開ける。
アスファルトの脇は、草地の土手になっていた。
その土手を下っていく獣道が、いく筋か目に付く。
子供たちの遊び場になっているのだろうか。
草地を三十メートルも下れば、勾配は逆向きになった。
向こう側の斜面にも、やはり濃い夏草が生い茂っていた。
一際こんもり茂った部分に、朽ちかけのリヤカーが捨てられていた。
その様子を横目に、明梨はアスファルトの道を真っすぐ進む。
「ほら。見えたよ……」
明梨が僕を振り返って云った。
(何が?)
と問おうとして、僕は黙った。
明梨の云いたいことが、わかったからだ。
向こう側の斜面の上に、高く細長い木が三本、立っていた。
恐ろしく高い。
水色の空を背に、それらは雄大に伸びていた。
僕は明梨の横顔もみた。
どこまでも穏やかだった。
「ポプラの木――」
と明梨は云った。
「ポプラ?」
「みたことない?」
と明梨は訊いた。
「いや――」
と僕は応じたが、ポプラの木を初めてみたわけではない。
ただ、その光景に圧倒されていただけである。
この東京のど真ん中で、ポプラの木が、あんな風にそびえ立っているなんて……。
「私、この景色が何だか懐かしい」
と明梨は云った。
札幌育ちの明梨には、北海道大学の構内のポプラ並木がお馴染みなのだろうと推し量った。
が、
「私、北大のポプラって、みたことないの。興味なかったし……。でも、ここのは別格。なんでだろうね? つい最近、知ったばかりだっていうのに……」
僕は黙って明梨の言葉を待った。
「結局、ああやって生きるしかないんだよね、私たち……」
「え?」
僕は、もう一度、明梨の横顔をみた。
しかし、明梨は答えなかった。
ああやって生きる?
何が?
どのように?
わからない。
さっぱり、わからない。
いや――
わかった。
明梨のいいたいことは、わかった。
なぜか、わかった。
きっと、命ある者は皆、こんな気持ちになるんだ、と云いたかったに違いない。
たしかに、気持はいい。
ポプラをみていると、なぜか気持がいい。
なぜ、こんなにも清々しいのだろう?
こんな気持ち、久しぶり――いや、初めてだ。
(そうか……)
と思った。
僕は、生きるということを、どこかで思い違いしたのかもしれない。
本当は、これで十分なのだ。
(これで十分……)
なのだ。
九月になると、明梨は一度も予備校に姿をみせなかった。
事務員に無理を云って、明梨の部屋の電話番号を聞き出し、連絡をとってみたが、その番号は、もう使われていなかった。
北海道の自宅を調べようと思ったが、警戒した事務員が、それ以上は教えてくれなかった。
代わりに明梨のアパートを探したが、あの夜の記憶は曖昧で、なかなか探し当てることはできなかった。
十月になって、ようやく見付けたが、そこに明梨はいなかった。
管理人の話では、郷里に帰ると云って、八月末日に出ていったそうである。
「北海道ですか?」
と問うと、
「さあねえ……。どこと云ったかねえ」
と首を振った。
結局、あの朝以来、僕は明梨をみていない。
僕は、明梨と本当に話をしたのだろうか?
いや――
そもそも明梨が、この世に存在したかも、あやしい――
だって、それを証だてる物が何一つなかったから……。
淋しかった。
無性に淋しかった。
もう一度、会いたい。
会って告げたいことがある。
難しい話はいい。ただ一緒にいてくれれば、それでいい――と告げたかった。
手遅れだった。
明梨に会う術を、僕は永久に失った。
でも――
これが良かったのかもしれない。
この先、僕は明梨に二度と会えない。
二度と会わない。
そんな覚悟は、こういう結末にでもならなければ、つかなかったと思う。