(9)


 結局、終電には間に合わなかった。
 駅の電光掲示板が、そう告げていた。

「どうする?」
 と明梨は心配そうに訊いた。
「その辺で明かすさ」
 と僕は云った。
 冗談ではなかった。本気だった。

「ごめんね。付き合わせちゃって……」
 と明梨は云った。
「いや、うっかりしてた僕も悪いんだ」
 と応じた。
 もちろん、嘘だった。

「私は歩いて帰れるから、つい時間を忘れてた」
 云い訳がましく明梨は云った。
 本当に云い訳しているのがわかった。
 それが哀しかった。

 が、次の一言が僕の気持ちを一変させた。
「うちに来る? 一晩くらい泊めてあげるよ」
「え?」

 これだから異性の考えは、よめない。
 もちろん、異存のあるはずは無かった。
 僕は笑って、うなずいた。
「そうしてもらえると助かる」

 僕の反応をみて、明梨は表情を引きつらせた。
 自分の言葉の意味に、気付いたのだと思う。
 しかし、なぜか意志は曲げなかった。

「うん……、外で寝ると風邪引くからね。うん……」
 明梨は自分に云い聞かせるように呟いた。
 そんな明梨を、僕は可愛らしいと思った。

   *

 明治通りを南に下り、高速道路の陸橋をくぐり、路地裏に入り、静かな住宅街を少し入ったところに、明梨のアパートはあった。
 二階建てで、こじんまりとしたペンション風の、なかなかに洒落たアパートだった。
 池袋近辺であることを考えれば、家賃は相当なものだろうと思った。

 駅から、ここまで来る最中、明梨は一人でズカズカと先を進み、僕は二メートルくらい後ろを追う格好になった。

 これから、どうやって一晩を過ごすか、明梨は一生懸命に考えているらしかった。
 そんな様子をみていたら、僕も幾らか狼狽した。
 ちょっと、ことが急展開しすぎた。

 アパートの玄関をくぐり、階段を昇り、一番奥の部屋の前で、明梨は振り返った。
「さ、入って……」
 声が震えたような気がした。

 明梨が扉を開け、部屋の灯りを点した。
「ちょっと散らかってるけど、我慢してね」
 全然、散らかってなどいなかった。
 社交辞令だろうと、僕は理解した。

「その辺で楽にしてて……」
 明梨は台所のほうをひっかき回しながら、そう云った。

 豪華な部屋というわけではなかった。
 簡単な台所と八畳間と風呂場とトイレがあるだけだ。
 もっとも、その八畳間には高価そうなベッドが置かれてあり、台所には大きな冷蔵庫と全自動の洗濯機とが置かれてあった。
「ちょっと、待ってて。すぐに戻るから」
 と云って、明梨は慌ただしく玄関を出ていった。
(まさか、このまま朝まで戻らないんじゃないだろうな?)
 などと疑ったが、それでいい気もした。

 異性の部屋に一人とり残されるのは初めてだった。
 初めてだから比べようがない。
 が、多分、明梨の部屋は女の子らしくはなかった。

 勉強机の脇の本棚がある。
 その上にキーボードが置かれていた。
 キーボードの横には手書きの譜面が積み重ねられている。
 本棚に本はなく、代わりにCDやカセット・テープがつまっていた。
 床の上には水色のCDラジカセが置かれている。

 本のための本棚は台所にあった。
 上段は受験参考書や教科書、辞書の類いで占められており、中段は文庫本や新書本が並べられている。
 冊数こそ少ないものの、ジャンルは多岐にわたっていた。

 下段は旅行雑誌が積まれてある。
『ヨーロッパの街並』だとか『草原世界』だとか『オセアニア紀行』だとかいった図鑑のようなものが並んでいる。
『地理辞典』なんてものもあった。

 ベージュ色の絨毯――
 薄い黄緑色のカーテン――
 高級そうな洋服ダンスと簡単な化粧台のようなもの――
 それに、部屋の中央に置かれた大きな白いクッション――

 それらが、女の子らしい装飾の全てであった。

 水色のCDラジカセの脇にはカセット・テープが置かれていた。
 それを手に取ってみた。
 それだけが意図的に放置されているように、みえたからだ。

 背表紙に文字が書き込まれている――『マルセイユの少年』とあった。
 曲名か?

 本棚のカセット・テープにも目をやった。

『フィヨルドの朝』
『白夜』
『北欧の針葉樹』
『オーロラの彼方』
『ツンドラの息吹』
『天山山脈』
『パミール界隈』
『タクラマカン』
『揚子江』
『長安の男たち』
『インド洋を渡る』
『サハラの昔』
『ナイルの賜物』
『オリーブの腕輪』
『地中海』
『ラインの流れ』
『ロマンチック街道』
『ジュネーブの花時計』

 全て曲名だろうと思う。
 一つひとつ丹念に、油性ペンで認(したた)められていた。

 こんなに、たくさん作曲していれば立派なものだと僕は感じ入った。

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