結局、終電には間に合わなかった。
駅の電光掲示板が、そう告げていた。
「どうする?」
と明梨は心配そうに訊いた。
「その辺で明かすさ」
と僕は云った。
冗談ではなかった。本気だった。
「ごめんね。付き合わせちゃって……」
と明梨は云った。
「いや、うっかりしてた僕も悪いんだ」
と応じた。
もちろん、嘘だった。
「私は歩いて帰れるから、つい時間を忘れてた」
云い訳がましく明梨は云った。
本当に云い訳しているのがわかった。
それが哀しかった。
が、次の一言が僕の気持ちを一変させた。
「うちに来る? 一晩くらい泊めてあげるよ」
「え?」
これだから異性の考えは、よめない。
もちろん、異存のあるはずは無かった。
僕は笑って、うなずいた。
「そうしてもらえると助かる」
僕の反応をみて、明梨は表情を引きつらせた。
自分の言葉の意味に、気付いたのだと思う。
しかし、なぜか意志は曲げなかった。
「うん……、外で寝ると風邪引くからね。うん……」
明梨は自分に云い聞かせるように呟いた。
そんな明梨を、僕は可愛らしいと思った。
*
明治通りを南に下り、高速道路の陸橋をくぐり、路地裏に入り、静かな住宅街を少し入ったところに、明梨のアパートはあった。
二階建てで、こじんまりとしたペンション風の、なかなかに洒落たアパートだった。
池袋近辺であることを考えれば、家賃は相当なものだろうと思った。
駅から、ここまで来る最中、明梨は一人でズカズカと先を進み、僕は二メートルくらい後ろを追う格好になった。
これから、どうやって一晩を過ごすか、明梨は一生懸命に考えているらしかった。
そんな様子をみていたら、僕も幾らか狼狽した。
ちょっと、ことが急展開しすぎた。
アパートの玄関をくぐり、階段を昇り、一番奥の部屋の前で、明梨は振り返った。
「さ、入って……」
声が震えたような気がした。
明梨が扉を開け、部屋の灯りを点した。
「ちょっと散らかってるけど、我慢してね」
全然、散らかってなどいなかった。
社交辞令だろうと、僕は理解した。
「その辺で楽にしてて……」
明梨は台所のほうをひっかき回しながら、そう云った。
豪華な部屋というわけではなかった。
簡単な台所と八畳間と風呂場とトイレがあるだけだ。
もっとも、その八畳間には高価そうなベッドが置かれてあり、台所には大きな冷蔵庫と全自動の洗濯機とが置かれてあった。
「ちょっと、待ってて。すぐに戻るから」
と云って、明梨は慌ただしく玄関を出ていった。
(まさか、このまま朝まで戻らないんじゃないだろうな?)
などと疑ったが、それでいい気もした。
異性の部屋に一人とり残されるのは初めてだった。
初めてだから比べようがない。
が、多分、明梨の部屋は女の子らしくはなかった。
勉強机の脇の本棚がある。
その上にキーボードが置かれていた。
キーボードの横には手書きの譜面が積み重ねられている。
本棚に本はなく、代わりにCDやカセット・テープがつまっていた。
床の上には水色のCDラジカセが置かれている。
本のための本棚は台所にあった。
上段は受験参考書や教科書、辞書の類いで占められており、中段は文庫本や新書本が並べられている。
冊数こそ少ないものの、ジャンルは多岐にわたっていた。
下段は旅行雑誌が積まれてある。
『ヨーロッパの街並』だとか『草原世界』だとか『オセアニア紀行』だとかいった図鑑のようなものが並んでいる。
『地理辞典』なんてものもあった。
ベージュ色の絨毯――
薄い黄緑色のカーテン――
高級そうな洋服ダンスと簡単な化粧台のようなもの――
それに、部屋の中央に置かれた大きな白いクッション――
それらが、女の子らしい装飾の全てであった。
水色のCDラジカセの脇にはカセット・テープが置かれていた。
それを手に取ってみた。
それだけが意図的に放置されているように、みえたからだ。
背表紙に文字が書き込まれている――『マルセイユの少年』とあった。
曲名か?
本棚のカセット・テープにも目をやった。
『フィヨルドの朝』
『白夜』
『北欧の針葉樹』
『オーロラの彼方』
『ツンドラの息吹』
『天山山脈』
『パミール界隈』
『タクラマカン』
『揚子江』
『長安の男たち』
『インド洋を渡る』
『サハラの昔』
『ナイルの賜物』
『オリーブの腕輪』
『地中海』
『ラインの流れ』
『ロマンチック街道』
『ジュネーブの花時計』
全て曲名だろうと思う。
一つひとつ丹念に、油性ペンで認(したた)められていた。
こんなに、たくさん作曲していれば立派なものだと僕は感じ入った。