時計の針が十二時を回った。
終電の時間が近づいている。
僕は、それに、ちゃんと気付いていた。
が、今夜はアパートに戻りたくなかった。
このまま、いつまでも明梨の話をきいていたいと思った。
「そういえばさ……」
と僕が改まって話を切り出したので、
「うん?」
と明梨は身を乗り出した。
「この前、夜の十一時頃、新宿で会った日……」
「うん……」
明梨の表情が曇ったので、
(まずかったかな?)
と思ったが後戻りはしなかった。
「覚えてる? 僕が、お金を貸した日だよ……」
「覚えてるよ」
と明梨はうなずいた。
覚えているに決まっている。
あれから、僕らは始まったのだ。
「なんで、あのとき、あんなことしたの?」
以前から、きこうと思っていたことだったが、遠慮で、今まで持ち越してきたことだった。
受験生の明梨が、夜の十一時に、新宿駅で、しかも、やくざにからまれたホステスっぽい女に、財布ごと金を与えたというのが、どうにも引っ掛かっていたのである。
並大抵の度胸では、できないと思うのだ。
明梨は、すぐには答えなかった。
いやな沈黙が臓腑を抉った。
しばらくして、
「いつか、きかれるとは思ってた」
と明梨は笑った。
僕はホッとした。
最後のアイス・コーヒーを飲み干し、明梨は意外な言葉を口にした。
「姉よ」
何でもない口調だったので、危うく聞き落とすところだった。
「お姉さん?」
「そう」
明梨は強いてサバサバした口調を装っていたようだ。
「腹違いなの。うちの両親、結婚して十年も子供ができなかったって、さっき云ったでしょ? そのとき、お父さんが他の女性に生ませた子なの。最初は親戚の子ってことになってたから、ずっと、そのつもりでいたんだけどね……、実は姉……。ホント、呆れて声もでなかったわ。お母さんが何で許してるのか全然わからない」
「それにしても、なんでまた……」
と云おうとして、しまったと思った。
これ以上は踏み込みすぎだ。
しかし、明梨は気にしなかった。
「高校までは北海道にいたみたいだけどね、私が高校に入った頃に東京に出てきてたみたい。ここ数年、ご無沙汰だったから、詳しいことは知らないけど、どこで聞き付けたのか、私が浪人して東京にいることを知ってて、六月くらいから、しきりに連絡よこすようになって……」
次第に明梨の口調が重くなっていった。
さすがに、そこまで喋るつもりはなかったのだと思う。
それでも、明梨は砂を噛むように喋り続けた。
「……あの日も一緒に飲まされていたの。そうしたら、金を貸してくれって、そればっか……。それまでも、いっぱい貸してたから、私、断ったのね。こっちだって余裕あるわけじゃないんだって……。そしたら、物凄い剣幕で怒鳴られて、あんたのところ金持ちでしょ、って……。それ云われると、立場上、弱くて……。何しろ、うちのお父さんのせいで苦労してる人だから……。でも、私、本当に余分なお金なかったから、やっぱり断ったの。そしたら口論になって、私もムキになって……。そうしてるうちに、変な男の人が現われて、いきなり姉が矛先をそっちにむけて、後は、ああして……」
よくわからなかったが、要するに複雑な事情があるらしかった。
少なくとも、明梨が路上のトラブルに思い付きで介入した、というのではなかったらしい。
あの女が明梨の身内と知って、逆に少しホッとした――というか納得した。
「意地も誇りも失った人間って哀れだよ。こっちまで死にたくなっちゃう」
明梨は形の良い眉をひそめた。
その顔が印象に残った。
明梨の円らな瞳は曇っていたが、それすら、部屋に飾っておきたいと僕は思った。
しばらく明梨の顔をみていたら、不意に明梨が向こうをむいたので、僕は所在なく自分の腕時計を確認した。
その行為が、逆に明梨を我に帰らせた。
「嘘? もう、こんな時間?」
と明梨は云った。
午前一時になろうとしていた。
「電車、まだある?」
「どうかな……」
と僕はとぼけてみせた。
「何で、こんな時間までやってるのよ、この店は!」
店先に出ていた「二十四時間営業」という看板を見損ねていたようだった。
「早く行こう。帰れなくなるよ」
明梨は、自分のトレイを持って、さっさと席を立った。
僕は、がっかりした。
(時間を延ばしていたのは、僕だけだったか……)
わかってはいたが、興が冷めた。