(5)


 八月最後の土曜日の朝――
 僕は模擬試験を受けに池袋へ出た。

 僕の住んでいるところから池袋までは三つのルートがある。
 いずれも、地下鉄を利用すれば、かなり近い。

 が、地下鉄のことは、よく知らなかった。
 結局、秋葉原からJRで上野経由に池袋へ向かうルートを採った。
 それが一番の遠回りだと、後で知った。

 お陰で試験会場に飛び込んだのは開始五分前だった。
 が、問題はない。
 現役生ならいざ知らず、二浪生ともなれば、この程度のハプニングは何でもない。
 僕は何食わぬ顔で会場に入り、試験監督員から問題を受け取り、周囲をじろりと見渡し、悠々と着席する。

 しかし、そのために僕は重大なことに気付かなかった。
 すぐ後の席に明梨が座っていたのである。

 気付いたのは昼食時間になってからだった。
 聞き慣れた声が他愛のない雑談の相手を務めていた。
 明梨だった。

 明梨にとっては、僕は目の前だった。
 もちろん、気付いていたと思う。
 が、女友達と一緒だったので話し掛ける機会を失ったようだ。
 あるいは、最初から無視を決め込んでいたか……。

 明梨は一度も話しかけてこなかった。
 僕の方からも話しかけなかった。

 そうするのが自然だった。

   *

 試験の手応えは悪かった。
 終わると、僕は大きくため息をついた。

 もっとも、今回の模擬試験は難しく作られることが予告されていた。
 不出来は予想の範囲内ではあった。

 僕は足早に会場を後にした。

 真っすぐ部屋に帰る気はしなかった。
 適当な寄り道を探した。
(本屋にでもいくか……)
 池袋のデパートの書店を思い出していた。

「一人?」
 と声をかけられたのは、そこで立ち読みをしているときだった。
 明梨だった。
 穏やかに笑っていた。

「ああ……」
 と曖昧に答えると、ふうんと明梨はうなずいた。
 そして、本を手に取り、パラパラとめくりながら試験の感想を訊いた。
「いたでしょ? さっき?」
 と云う。
「ああ……」
 僕は曖昧にしか返事ができなかった。

 本当は、声をかけられて嬉しかった。
 けれど、それを素直には表せなかった。
 恐かった。

 僕は臆病者か?
 それとも卑怯者か?

 明梨は、手にした本を戻しながら、
「ちょっと困ったな、私……」
 と呟いた。
 何のことかと思ったら、試験の話だった。

「全然できなかったよ。いいのかな、こんなんで……」
 試験の愚痴を洩らす明梨は珍しかった。
 よほど、できが悪かったようだ。

「後期から私、クラス下がるから……」
 と云った。

 僕らの予備校では、模擬試験の成績を基にクラスが編成される。
 前期や夏期講習中の模擬試験の成績によって席次が決定され、その席次によってクラスが編成される。
「席次が二百番ぐらい下がってたの。……で、今回、とても挽回できたとは思えないので……」
 と明梨は云った。

 今日の明梨は、やけに成績にこだわると、僕は思った。
 受験生だから、当然だが……。

「スランプだろう。気にしないようにすればいい」
 と云ってみたが、明梨は首を振った。
「スランプも、これだけ慢性的になると、だんだん自分の実力じゃないかって思うようになってきた」
「けど、要は来年二月の本番の成績だろう?」
 と慰めたが、明梨の表情は晴れなかった。

 そんな自分を、つまらない奴だと思った。
 情けない奴だと思った。

 話題を変えようと、
「今、何時?」
 と訊いた。
 明梨は自分の腕時計をみた。
 六時過ぎだと云う。
 そろそろ外が暗くなりはじめる頃だ。

「おなか、すかない?」
 と明梨が云った。
 素晴らしく自然な誘いだった。
 戸惑う必要はなかった。

「ああ……」
 と僕はうなずいた。

 僕らは書店のフロアを出た。

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