(4)


 七月最後の週――
 夏期講習期間に入って三週目のことだった。

 明梨は午後になっても姿をみせなかった。
 どうしたかと戸惑っていると、夕方四時頃に、ひょっこり姿をみせた。

「今日から講習をとったの」
 と明梨は云った。
 この後、六時半からも授業があるという。

「ためになるかい?」
 と訊くと、
「さあ……」
 と小首を傾げ、笑った。

 久しぶりの笑顔だった。

 夏期講習は、市ケ谷の校舎ではやっていない。
 お茶ノ水の校舎でやっている。

 一方、明梨は池袋のアパートに住んでいた。
 池袋から有楽町線で市ケ谷まで出、JR総武線に乗り換え、御茶ノ水に向かう。

「新宿線なら御茶ノ水まで直通でいくだろう?」
 と問うたが、答えは明快だった。
「……だって、定期券がないもの」
 それに、空き時間は市ケ谷で自習するからいいのだと、明梨は云った。

 なるほどと思った。
(もしかして、僕に会いに来てるのかもしれない……)
 などと自惚れた自分を、僕は笑った。

     *

 八月になった。
 この頃、明梨は午後一時からの講座をとっていたらしかった。

 お茶ノ水から戻って来る明梨を心待ちにする自分に、僕は気付いていた。
 惹かれる自分を、どうしようもなかった。

 いつの間にか、下品な空想の相手が明梨になっていった。
 はっきりと明梨になっていた。

 深みにはまったのが、わかった。
(気持ちを伝えようか?)
 と思ったが、恐かった。
 その一線は越えられないと思った。

 明梨が僕を受け入れる確率は皆無のように思える。
 僕の本当の内面を知ったら、彼女は逃げる。

 かと云って、諦めることなど、思いもよらぬことだった。
(もしかして、受け入れてくれる……)
 との幻想が捨てきれない。

(見送ってしまえ……)
 と叱咤する声――
(気の迷いだ)
 と諭す声――
(いまを凌げば何とでもなる)
 と励ます声――

 ジレンマから抜け出すのは容易ではなかった。

     *

 八月、第二週――
 明梨は一度も姿をみせなかった。

 きっと、実家に帰っていたのだと思う。

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