(3)


 七月中旬――
 予備校の前期の授業が終わった。
 以後、約一ヵ月は夏期講習期間である。
 予備校生が各自、講座を選んで受講する期間だ。
 どこの予備校でもやっている。

 僕は二浪生ということもあって、今さら受講したい授業もなかったので、アパートの部屋にこもって勉強することにした。

 が、勉強は思うように進まなかった。

 一番の敵は欲求不満だ。
 何しろ高校を出て以来、ろくに運動もしていない。

 加えて、女っ気のない環境である。
 空想は自然、あらぬ方へ向いた。
 男とは所詮そういう風に、できているらしい。

 空想の対象は明梨(あかり)であった。
 いや――
 明梨であって明梨ではない何か――

 僕は明梨を気に入っている。
 結構な美人だし、スタイルもいい。
 だから、下品な空想に、明梨が全く関わらなかったと云えば、嘘になる。

 とはいえ、多くの男どもがそうしているように、明梨のことを頭の中で身ぐるみ剥がすような妄想は、しない。

 そんな妄想も時にはするけれども、そこに明梨は出てこない。
 妄想の相手は不特定多数の女である。
 ぼやけた「女」というイメージ――それを相手に妄想に耽る。

 もちろん、誰か特定の女性――例えば、明梨――を念頭におけば、
(もっと興奮できる)
 とは思う。

 が、そうする気は起きない。
 受験生の欲求不満なんて、本当は可愛いレベルなのかもしれない。

 可愛いレベルだからこそ、始末に終えない。
 むしろ、稚拙な分、鬱屈はたまる一方であった。

 狭いアパートの部屋で、僕は日増しに欝屈していった。
 しまいに、頭が豆腐のようになり、自宅学習を断念――
 次の日から予備校の自習室で勉強することにした。

 夏期講習期間に入って七日目のことだった。

   *

 予備校の自習室に通うと決めた日の翌日、家を出たのは正午過ぎだった。
 体がだるく、早起きをする気力がなかった。

 外に出てみると意外な陽気だった。
 マスコミは冷菓だと騒いでいたが、今日は違うらしい。

 僕は長袖のシャツしか着ない。
 冷房が嫌いだった。
 が、冷房のないところでは仇になる。
(ベットリ汗かくな)
 と僕は思った。

 予備校の校舎はJR市ヶ谷駅からお堀を渡ってすぐのところにあった。
 改札を出、お堀にかかった橋を渡り、外堀通りへ歩く。
 前期の授業中、何度となく通った道だった。

 熱い風が鼻に纏わりつく。
 お堀の湿り気を吸って、不快だった。

 後悔した。
 わざわざ自習室で勉強するためだけに出てきたことを、後悔した。

 そのとき――
 明梨(あかり)の後ろ姿を見付けた。
 偶然だった。

 明梨は、ちょうど、お堀の橋を渡り終えたところだった。
 僕は橋の上を駆け、明梨と同じ信号を渡った。
 渡り終えたとき、明梨は僕の十メートルくらい先を歩いていた。

 僕は明梨に声をかけようと再び駆け出し、でも、不意に歩調を緩めた。
 なぜか、ためらいを感じた。

 なぜだろう?

 プライドかもしれなかった。
 くだらないプライドだ。

 僕は薄く笑った。

   *

 明梨に遅れること数分で、予備校の自習室に入った。
 自習室といっても、通常の教室を自習用として開放しているだけである。

 僕は明梨が座った位置を確認しつつ、そことは離れた空席を探し、腰を下ろした。

 明梨は僕には気付かない。
 それでいいと思った。

 その日は夕方まで勉強をし、明梨が帰宅したのを見届け、僕もアパートへ帰った。
 結局、明梨とは一言も言葉を交わさなかった。

     *

 それから毎日、僕は自習室に通った。
 明梨が毎日、通ってくるからだった。

 そんな自分をバカだと思った。
 が、どうにもならなかった。

 三日目ぐらいに、明梨は僕のことに気付いた。
 いや――
 気付いてくれた……と云うべきかもしれない。

「来てたの?」
 と云う。
「家にいても、やる気になんないしね」
 と僕は云った。
 半分は本当だった。

 明梨は何も云わなかった。
 前期の授業の頃とは違い、明梨は無口になっていた。
 何かが変わっていた。

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