七月中旬――
予備校の前期の授業が終わった。
以後、約一ヵ月は夏期講習期間である。
予備校生が各自、講座を選んで受講する期間だ。
どこの予備校でもやっている。
僕は二浪生ということもあって、今さら受講したい授業もなかったので、アパートの部屋にこもって勉強することにした。
が、勉強は思うように進まなかった。
一番の敵は欲求不満だ。
何しろ高校を出て以来、ろくに運動もしていない。
加えて、女っ気のない環境である。
空想は自然、あらぬ方へ向いた。
男とは所詮そういう風に、できているらしい。
空想の対象は明梨(あかり)であった。
いや――
明梨であって明梨ではない何か――
僕は明梨を気に入っている。
結構な美人だし、スタイルもいい。
だから、下品な空想に、明梨が全く関わらなかったと云えば、嘘になる。
とはいえ、多くの男どもがそうしているように、明梨のことを頭の中で身ぐるみ剥がすような妄想は、しない。
そんな妄想も時にはするけれども、そこに明梨は出てこない。
妄想の相手は不特定多数の女である。
ぼやけた「女」というイメージ――それを相手に妄想に耽る。
もちろん、誰か特定の女性――例えば、明梨――を念頭におけば、
(もっと興奮できる)
とは思う。
が、そうする気は起きない。
受験生の欲求不満なんて、本当は可愛いレベルなのかもしれない。
可愛いレベルだからこそ、始末に終えない。
むしろ、稚拙な分、鬱屈はたまる一方であった。
狭いアパートの部屋で、僕は日増しに欝屈していった。
しまいに、頭が豆腐のようになり、自宅学習を断念――
次の日から予備校の自習室で勉強することにした。
夏期講習期間に入って七日目のことだった。
*
予備校の自習室に通うと決めた日の翌日、家を出たのは正午過ぎだった。
体がだるく、早起きをする気力がなかった。
外に出てみると意外な陽気だった。
マスコミは冷菓だと騒いでいたが、今日は違うらしい。
僕は長袖のシャツしか着ない。
冷房が嫌いだった。
が、冷房のないところでは仇になる。
(ベットリ汗かくな)
と僕は思った。
予備校の校舎はJR市ヶ谷駅からお堀を渡ってすぐのところにあった。
改札を出、お堀にかかった橋を渡り、外堀通りへ歩く。
前期の授業中、何度となく通った道だった。
熱い風が鼻に纏わりつく。
お堀の湿り気を吸って、不快だった。
後悔した。
わざわざ自習室で勉強するためだけに出てきたことを、後悔した。
そのとき――
明梨(あかり)の後ろ姿を見付けた。
偶然だった。
明梨は、ちょうど、お堀の橋を渡り終えたところだった。
僕は橋の上を駆け、明梨と同じ信号を渡った。
渡り終えたとき、明梨は僕の十メートルくらい先を歩いていた。
僕は明梨に声をかけようと再び駆け出し、でも、不意に歩調を緩めた。
なぜか、ためらいを感じた。
なぜだろう?
プライドかもしれなかった。
くだらないプライドだ。
僕は薄く笑った。
*
明梨に遅れること数分で、予備校の自習室に入った。
自習室といっても、通常の教室を自習用として開放しているだけである。
僕は明梨が座った位置を確認しつつ、そことは離れた空席を探し、腰を下ろした。
明梨は僕には気付かない。
それでいいと思った。
その日は夕方まで勉強をし、明梨が帰宅したのを見届け、僕もアパートへ帰った。
結局、明梨とは一言も言葉を交わさなかった。
*
それから毎日、僕は自習室に通った。
明梨が毎日、通ってくるからだった。
そんな自分をバカだと思った。
が、どうにもならなかった。
三日目ぐらいに、明梨は僕のことに気付いた。
いや――
気付いてくれた……と云うべきかもしれない。
「来てたの?」
と云う。
「家にいても、やる気になんないしね」
と僕は云った。
半分は本当だった。
明梨は何も云わなかった。
前期の授業の頃とは違い、明梨は無口になっていた。
何かが変わっていた。