娘は悪びれなかった。
やや上目遣いに、恥ずかしそうに笑っていたが、はっきりとした口調で、
「すみません」
と云った。
「はい?」
と僕は慌てて返事をした。
「あの……、お金、貸していただけません?」
七月の夜だった。
予備校の模擬試験の帰り道だ。
僕は友人たちと飲んでいた。
試験会場は新宿だった。
試験が済むと、僕らは浮かれた気分で歌舞伎町に向かった。
スパゲティーを食べ、ビールを飲み、カラオケを歌い、水割りを飲んだ。
最後の店を出たのは午後十一時過ぎだったと思う。
友人の一人が具合を悪くした。
飲み過ぎだ。
酔いつぶれの扱いなど知らなかったから、僕らは途方に暮れた。
高校を卒業して間もなくのこと――酒自体に慣れていなかった。
その友人はJR新宿駅の東口前で、吐いた。
派手に路面に巻き散らしてなお、治まりそうになかった。
階段を下り、地下の中央改札まできたときには、とうとう、しゃがみ込んで一歩も動かない状態となった。
「まだ、吐くぜ」
「全部、吐かせちまえよ」
「しょうがねえな……」
結局、僕以外の二人で便所に連れていくことにした。
僕はカバン持ちだ。
中央改札の前で、ただバカみたいに、ずっと立っていた。
新宿駅とはいえ、平日の夜十一時過ぎともなれば人通りは疎らだ。
バブルが弾けたせいで、サラリーマンたちが早くに帰宅していることとも関係あるのだろう。
僕にとっては拍子抜けだった。
田舎にいた頃、新宿駅というのは人が立っているのもやっとのところ、ときいていた。
凄まじい喧噪を想像した。
実際は、そんなでもなかった。
事件は、すぐに起きた。
背後で、うめき声がした。
女の短い声だった。
振り返ると、小競り合いである。
男が女を突き飛ばしたところだった。
男はデップリと太っており、黒いサングラスをかけ、派手な絵柄のシャツを着ている。
女は鮮やかな赤色のブラウスに、ケバケバしい化粧がマッチしていた。
「――目障りだ!」
と男は怒鳴った。
ドスのきいた声だった。
多分、堅気ではない。
しかし、女も負けていなかった。
男の腰にガシと突っ掛かり、何かを喚いている。
色情のもつれでは、なさそうだった。
働いた分の金をよこせ、というようなことを、女は云った。
通行人たちがチラチラと振り向く。
が、無言で通り過ぎていく者も多かった。
少し離れたところの者たちは、僕も含め、騒ぎの一部始終を見物していた。
「何すんのよ!」
と女が叫ぶ。
男が女の財布を奪ったのだ。
財布は空だった。
逆さにしても、何も落ちてこない。
男はケッと唾を吐き、ポンと財布を投げ落とすと、出っ張った腹を誇示するように、地下街の方へと歩き出した。
興奮が覚めないのか、
「――おら、どけ!」
と事情のわからぬ通行人たちを押し退けていた。
残された女は、しばらく、うつぶせに倒れていたが、やがて、よろよろと立ち上がり、衣服の乱れを直し始めた。
見せ物じゃ、ねえんだよ、というようなことを云ったが、泥酔しているらしく、言葉になっていなかった。
事は、おさまったかにみえた。
見物人たちは一斉に歩き出す。
僕も視線をずらした。
が――
すぐに視線を戻した。
意外なことが起こったのである。
女の元へ、別の女が駆け寄った。
こちらは、ごく普通の娘だった。
「――好きなだけ使って」
と自分の財布を差し出している。
女はキョトンとし、すぐに、信じられない、という顔で何事かを呟いたが、僕には聞き取れなかった。
やがて、女は差し出された財布をひったくり、先ほど男が消えていった方へと立ち去った。
娘は、しばらく、その後ろ姿をみていたが、その顔には何の感情も表れてはいなかった。
今度こそ事は、おさまった。
それでも――
僕は、この娘から目が離せなかった。
清楚で、真面目そうな少女だった。
こんな時間に新宿をふらついているのが不思議なくらいだ。
丹念に結った黒髪には光沢があり、生白い首筋を際立たせている。
色気があった。
僕は、その娘を知っている。
毎日みかける顔であった。
予備校の教室で、みかける顔だ。
偶然ではない。
僕らは夕方まで近くで同じ模擬試験を受けていた。
もっとも試験終了から何時間も経っている。
今まで何をしていたのか、という疑問は残る。
やはり、飲んでいたのだろうか?
一人で?
まさか――
気付くと、娘は切符自販機の前で立ち往生していた。
どうやら、財布と共に帰りの電車賃もなくしたことに気付いたようである。
そのとき、僕と視線が合った。
僕は、すぐに視線をそらしたが、向こうは怯まなかった。
向こうも、僕のことを毎日みかける顔だと気付いていたらしい。
娘は悪びれることなく、僕の方へ近付いてきた。
再び、視線が合う。
やや上目遣いに、恥ずかしそうに笑って、娘は云った。
「すみません。お金、貸していただけません?」
「――えっと……、いくら……ですか?」
急いで財布を取り出す。
「少なくていいです。池袋までだから……」
と娘は云った。
中身は千円札二枚が全てだった。
それを手渡す。
「いいですよ、こんなに……。二百円もあれば……」
「……でも……」
と僕は無理に二枚、持たせた。
「――すみません。ちゃんとお返ししますから……」
「急がなくていいから……」
「どうも、ありがとう」
娘は軽くお辞儀をし、切符自販機に向かった。
*
「知り合いか?」
と声がしたので振り返る。
トイレに行っていた友人たちが戻ってきていた。
僕は逆に、
「もう、いいのか?」
と訊いた。
いいのだ、と吐いた友人が云った。
「じゃあ、帰ろうぜ」
と僕が云う。
「今の誰だよ?」
その問いを無視し、僕は切符自販機の方へ歩きだした。
答えようにも、答えられない。
知っているのは顔だけだ。
このとき、僕は名前さえ、まだ知らなかった。