夫は、珍しく茶目っ気を出して尋ねた。
「リウスの奴、さっき私に何といったかわかるか?」
「いいえ」
と、ターナは答えた。
夫は云った。
(今日まで、父に代って育ててくれたことを感謝致します)
と。
「まあ、あの子がそんなことを?」
ターナは、思わず問い返した。
夫は笑った。
「これまで、神妙な口調など聞かせたこともなかったくせにな」
「やはり、結婚すると、かわるものですね」
「それとも、教育を受けたかな? あの娘に……」
「出来すぎた結婚ですよ。あの子にしては……」
「また、ターナの『マリーさん讃歌』が始まるのか?」
ターナは笑った。
いまは笑えるだけの余裕があった。
「私、そんなにあの娘のこと誉めていますか?」
「誉めているね」
「恥ずかしい」
と、ターナは笑った。
「別に誉めるなと云ってるんじゃない」
と、夫は云った。
「あの娘はいい娘だ。あいつとは釣り合いがとれないくらい、いい娘だ」
「私もそう思います」
「きっと、誰よりもそう思っているのは、あいつ自身だろう」
「そうでしょうか?」
疑わしい視線を窓の下に向けたとき、ターナは、ふざけあう二人の姿が、もはや見えなくなっていることに気が付いた。
「賭けてもいい。誰よりもあの娘を認めているのは、あいつだ。その妻に見合うだけの夫になってみせる。そんな決意の一つも、あるところだろう」
「まさか、そんなことも云ったんですか? あの子が?」
「いや、口に出すようでは、信用できん。云わないからこそ、重みも出る」
「女は、ときには口に出してほしい時もあるんですけどね……」
「もちろん、そうだ」
ターナが、幾分、拗ねてみせたのを、夫は感じ取ったらしい。
夫は続けた。
「ああみえて、あいつも思慮深い。その辺は大丈夫だろう。それに……」
と、云いかけて、夫は云い淀んだ。
「……相手は良妻だし――ですか?」
ターナの意地悪な質問に、夫は面食らったようだったが、すぐに、
「なあに」
と、いたずらっぽく、笑ってみせた。
「妻を比べたら、うちも負けないよ」
この夫は、もう結婚して何年にもなるというのに、ときとして妻をどきりとさせる台詞を口にする。
それがわずらわしいときもあれば、泣きたいほど嬉しいときもあった。
込み上げるものを抑え、ターナが何か云おうとしたとき、
「あのう……?」
という遠慮がちな声が、扉の向こうから伝わってきた。
嫁のマリーだった。
庭で甥っ子夫婦が戯れていたのは、たったいまのことだ。
散歩にいくと云って、いかず、すぐに戻ってくるとは、いったい、どうしたことだろう?
「どうしました?」
ターナは、心持ち、やさしげな声色を作って問うた。
「また、お客さまがおみえです」
先ほど、夫の元上官という客がみえたばかりだ。
「どなたですの?」
嫁は、後ろ手に扉をぱたんと閉め、夫の病床に近寄って、云った。
「前(さき)の元帥卿です」
「元帥卿?」
「はい。もっとも、いまは元帥家の家督は譲られ、田舎で牧場経営をされているそうですけど……」
と、嫁は付け足した。
「おそらく、元帥卿として来られたのではあるまい。元大佐として来られたんだ」
と、夫は云った。
ターナにも、そして、おそらく嫁にも、夫の言葉の意味は、良くわからなかった。
夫は説明した。
「私が新米少尉だった頃の上官だ。かつての部下が近くに越してきたので、昔話でもしようという気になったんだろう」
「では、お通ししますか?」
と、嫁が問うと、
「ああ」
と、夫は即答した。
「どうしましょう。そんな方がおみえとは……」
と、ターナがこぼすと、
「なに、気遣いは無用だ。気遣って欲しいなら、こんなところまで来るものか」
と、夫は笑った。
そういえば、夫は、これまで、仕事場の人間関係については、ほとんど話したことがなかった。
「せめてお茶くらい……」
慌てて部屋を出ようとしたところ、夫が制した。
「まあ、いいから、お前は座っておけ」
あの嫁がいいように調えてくれる。
そう、夫の口元は笑っていた。