受傷後、夫は十も老けこんでしまったようにみえる。
もともと、実年齢よりも若くみられることが多かっただけに、衰えは尚更に目立った。
正午を過ぎている。
来客は予定どおり現れ、型通りの挨拶をすませ、予定時間を相当に残して、午前中で帰っていった。
その後、身内だけで昼食を取って、一息ついたところであった。
夫の療養室での簡素な食事であった。シュトミール家やオリエンティーナ家の要人が四人も揃ってとる昼食としては、異例の簡素さであった。
しかし、そんなことを気にする者は誰もない。気にするとしたら、両家の執事以下、家政の実務者たちであろう。
しかし、甥も嫁も、彼らに内緒でやってきている。気兼ねは要らなかった。
いま、療養室には、夫と自分と以外には、誰もいない。
先ほどまで、甥っ子夫婦が座を賑わせてくれていたが、せっかくの機会だから付近を散歩してまわると云い、二人して出ていったところであった。
彼らなりに気をきかせたものだと、ターナは思った。
もちろん、実際は、少しでも長く夫の病床についていて欲しかったのが……。
「まだまだ、若いな」
と、夫は苦笑した。
それまで、若い夫婦の会話の妙を楽しんでいた夫は、今度は自分が長年連れ添ってきた妻に対し、何かを語らなければならないと思ったのだろう。
二人きりになって、しばらくすると、こほんと咳払いをし、妻の方を見やった。
「今年、幾つになった?」
まるで幼子に聞くかのような口調だった。
「四十……、五になります」
突然の質問に苦笑しながら、ターナは、はにかむように、答えた。
少し、年甲斐がなかっただろうか?
「四十五?」
と、夫は意外そうに、ターナの顔を見上げた。
「ええ、四十五です」
と、ターナは苦笑した。
「そうか」
と、夫はうなずいた。
「すると、五十六か……」
妻の年齢から自分の年齢を算定したらしい。
無理もない。現役時は自分の年齢を振り返る余裕もなかった。
夫は短く、ため息をついた。
「とうとう、子供はできなかったな」
苦笑混じりのため息だった。込められた憂慮は深い。
(あなた……)
と、云いかけ、ターナは表情を陰らせた。
夫は、顔をほころばせ、わずかに首を横に振った。
云いたいことは、わかる。
一般には、まだまだ諦める歳ではなかった。現在の社会制度は、決して高齢出産に冷くはない。夫くらいの歳で、あるいは自分くらいの歳で、出産を経験する夫婦も、めずらしくはない時代だ。
本来ならば……。
夫が云ったのは、年齢のことではなかった。
それは、夫の意識が回復し、ようやく喋れるようになった頃のことである。
(お子さんは?)
(はい?)
医者にいわれ、すっとんきょうな声をあげてしまったことを、ターナは今でも覚えている。
(おりませんけれど……?)
そう答えると、駆出しらしい若い医者は、やや人工的に沈痛な面持ちで、たずねた。
(ご主人の精子を、どこかへ預けているということは?)
これは、当世の軍人がよくやることであった。どうしても夫の子が生みたいという妻のため、精子を保存しておくのである。
しかし、あいにく、ターナたちは、そうした処置を取っていなかった。
一つには、夫もターナも、子供に執着していなかったということが挙げられる。
結婚して十五年も経っていた。そうまでして子供に執着するくらいなら、とっくの昔にもうけている。
もう一つは、シュトミール家の事情であった。
夫は、嫡流ではない。
シュトミールの家は、本来、夫の兄が継ぐべきところだった。だが、夫の兄は兵卒として出征し、若くして帰らぬ人となっていた。
夫の兄の死後、保存していた精子から生まれた子が、甥のリウスである。
十年程まえに亡くなった舅の遺言は、
(リウスを後継に……)
というものだった。
夫の兄が、周囲の反対を押し切って、兵卒として出征したのは、舅との確執が原因と伝えられる。
舅は、そのことをずっと後悔していた。
だから、甥の後継指名に踏み切った。以来、
(リウスが成人し、正式に後継指名をとりつけてから、子を産む)
というのが、夫との間の不文律となった。
もちろん、根底には、
(子供なんていつでも……)
という甘い気持ちがあった。
そう思っているうちに、この夫の負傷である。
夫がこうなるまで、実は、夫はいつ死んでもおかしくはない身であったということに、とうとう思いがいかなかった。
おそらく、夫自身も、そうだったのではなかろうか。
夫は下半身の機能をほとんど失い、生殖機能も併せて失った。
医者には、妊娠をする可能性は、万に一つもないと云われた。
そのことは夫には告げていなかった。
もちろん、医者からの説明は、夫も受けていただろうとは思う。
そのことが夫婦間で話題になったのは、今日が初めてだった。
つまり、いまになってようやく、ターナは、夫がその事実を知っていたことを確認したのである。
「まあ、いい」
と、夫は云った。
「こうして私たちにも息子と娘ができた」
夫は、寝床から病室の窓ごしに庭の景色を見下ろしながら、云った。
何が見えるのだろうと、ターナも近寄って見下ろすと、のどかな秋の日の昼さがりに、若夫婦が二人、噴水の水を掛け合って戯れている。
その様子があまりのも無邪気だったので、ターナは思わず苦笑した。
「そろそろ三十に手が届くというのに、二人とも……」
二人への非難と受け取ったのか、夫は庇うように云った。
「久しぶりに私の顔色が良いので、気が晴れたのだろう」
と、云った。
「そうでしょうか?」
「たまには、はめを外すのもいい。まだ若いのだし……」
「そんなつもりで云ったのではありませんわ」
ターナは幾分、うつむいた。
「ただ、ちょっとおかしかったもので……」