5 夫


 受傷後、夫は十も老けこんでしまったようにみえる。
 もともと、実年齢よりも若くみられることが多かっただけに、衰えは尚更に目立った。

 正午を過ぎている。
 来客は予定どおり現れ、型通りの挨拶をすませ、予定時間を相当に残して、午前中で帰っていった。

 その後、身内だけで昼食を取って、一息ついたところであった。
 夫の療養室での簡素な食事であった。シュトミール家やオリエンティーナ家の要人が四人も揃ってとる昼食としては、異例の簡素さであった。
 しかし、そんなことを気にする者は誰もない。気にするとしたら、両家の執事以下、家政の実務者たちであろう。
 しかし、甥も嫁も、彼らに内緒でやってきている。気兼ねは要らなかった。

 いま、療養室には、夫と自分と以外には、誰もいない。
 先ほどまで、甥っ子夫婦が座を賑わせてくれていたが、せっかくの機会だから付近を散歩してまわると云い、二人して出ていったところであった。

 彼らなりに気をきかせたものだと、ターナは思った。
 もちろん、実際は、少しでも長く夫の病床についていて欲しかったのが……。
「まだまだ、若いな」
 と、夫は苦笑した。

 それまで、若い夫婦の会話の妙を楽しんでいた夫は、今度は自分が長年連れ添ってきた妻に対し、何かを語らなければならないと思ったのだろう。
 二人きりになって、しばらくすると、こほんと咳払いをし、妻の方を見やった。
「今年、幾つになった?」
 まるで幼子に聞くかのような口調だった。
「四十……、五になります」
 突然の質問に苦笑しながら、ターナは、はにかむように、答えた。
 少し、年甲斐がなかっただろうか?

「四十五?」
 と、夫は意外そうに、ターナの顔を見上げた。
「ええ、四十五です」
 と、ターナは苦笑した。
「そうか」
 と、夫はうなずいた。
「すると、五十六か……」
 妻の年齢から自分の年齢を算定したらしい。
 無理もない。現役時は自分の年齢を振り返る余裕もなかった。

 夫は短く、ため息をついた。
「とうとう、子供はできなかったな」
 苦笑混じりのため息だった。込められた憂慮は深い。
(あなた……)
 と、云いかけ、ターナは表情を陰らせた。
 夫は、顔をほころばせ、わずかに首を横に振った。

 云いたいことは、わかる。
 一般には、まだまだ諦める歳ではなかった。現在の社会制度は、決して高齢出産に冷くはない。夫くらいの歳で、あるいは自分くらいの歳で、出産を経験する夫婦も、めずらしくはない時代だ。
 本来ならば……。

 夫が云ったのは、年齢のことではなかった。
 それは、夫の意識が回復し、ようやく喋れるようになった頃のことである。
(お子さんは?)
(はい?)
 医者にいわれ、すっとんきょうな声をあげてしまったことを、ターナは今でも覚えている。
(おりませんけれど……?)
 そう答えると、駆出しらしい若い医者は、やや人工的に沈痛な面持ちで、たずねた。
(ご主人の精子を、どこかへ預けているということは?)

 これは、当世の軍人がよくやることであった。どうしても夫の子が生みたいという妻のため、精子を保存しておくのである。
 しかし、あいにく、ターナたちは、そうした処置を取っていなかった。
 一つには、夫もターナも、子供に執着していなかったということが挙げられる。
 結婚して十五年も経っていた。そうまでして子供に執着するくらいなら、とっくの昔にもうけている。

 もう一つは、シュトミール家の事情であった。
 夫は、嫡流ではない。
 シュトミールの家は、本来、夫の兄が継ぐべきところだった。だが、夫の兄は兵卒として出征し、若くして帰らぬ人となっていた。
 夫の兄の死後、保存していた精子から生まれた子が、甥のリウスである。
 十年程まえに亡くなった舅の遺言は、
(リウスを後継に……)
 というものだった。

 夫の兄が、周囲の反対を押し切って、兵卒として出征したのは、舅との確執が原因と伝えられる。
 舅は、そのことをずっと後悔していた。
 だから、甥の後継指名に踏み切った。以来、
(リウスが成人し、正式に後継指名をとりつけてから、子を産む)
 というのが、夫との間の不文律となった。

 もちろん、根底には、
(子供なんていつでも……)
 という甘い気持ちがあった。

 そう思っているうちに、この夫の負傷である。
 夫がこうなるまで、実は、夫はいつ死んでもおかしくはない身であったということに、とうとう思いがいかなかった。
 おそらく、夫自身も、そうだったのではなかろうか。

 夫は下半身の機能をほとんど失い、生殖機能も併せて失った。
 医者には、妊娠をする可能性は、万に一つもないと云われた。
 そのことは夫には告げていなかった。
 もちろん、医者からの説明は、夫も受けていただろうとは思う。
 そのことが夫婦間で話題になったのは、今日が初めてだった。
 つまり、いまになってようやく、ターナは、夫がその事実を知っていたことを確認したのである。

「まあ、いい」
 と、夫は云った。
「こうして私たちにも息子と娘ができた」
 夫は、寝床から病室の窓ごしに庭の景色を見下ろしながら、云った。

 何が見えるのだろうと、ターナも近寄って見下ろすと、のどかな秋の日の昼さがりに、若夫婦が二人、噴水の水を掛け合って戯れている。
 その様子があまりのも無邪気だったので、ターナは思わず苦笑した。
「そろそろ三十に手が届くというのに、二人とも……」

 二人への非難と受け取ったのか、夫は庇うように云った。
「久しぶりに私の顔色が良いので、気が晴れたのだろう」
 と、云った。
「そうでしょうか?」
「たまには、はめを外すのもいい。まだ若いのだし……」
「そんなつもりで云ったのではありませんわ」
 ターナは幾分、うつむいた。
「ただ、ちょっとおかしかったもので……」

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