「お疲れではないのですか?」
ターナは振り返り、素っ気なく、返事をした。
「いいえ」
その声は、かえって本当のことを告げてしまった。
嫁は一瞬、立ち尽くしたあと、視線を床に落とした。腕まくりをしかけた中着(ブラウス)の袖が、そのままになっている。
その様子をみて、ターナは、思わずかぶりを振った。
(いけない)
この娘は聡い。きっと全部、見抜かれている。余計な嘘は自分を惨めにするだけだ。
しかし、そう思うと、かえって意地を張りたくもなるのだった。
「どうぞ、お貸し下さい。私が運びますから……」
気を取り直して、嫁は云った。
急須、茶葉、茶杯(ティーカップ)が敷き詰められた篭(バスケット)――
それら一式を引き受けようとする。
その腕を、ターナは制した。
嫁の笑顔は明らかに作りものであった。それがターナの癇にさわった。
再び、嫁は視線を床に落とした。
傍目には、嫁いびりにしかみえないだろう。
しかし、この嫁は、ただの娘ではない。
世の中には自分の思い通りにならないこともあるのだということを、少しは知っておいてもらわなくてはならない。
(いや……)
わかっている。
嫁に悪意はない。
この娘は、最近のターナが苛酷に働き詰めていることを、知っている。そんな自分を、嫁は、単にいたわってくれているだけなのである。
それなのに、あるいは、それゆえに、
「いいんですよ」
と、ターナは、すげなく拒否をした。
(結局、私は、この娘を快く思っていないだけなのかもしれない)
嫁の好意を拒んだ自分が、みすぼらしく思えた。
放っておいて欲しいというのが、本音だった。
(この娘は、なぜ、そんなに気を使うのか?)
それが、かえって心を逆なでしているということに気付かない。
(……いや)
と、ターナは思い翻した。
(私が気を使わせているのか?)
思い当る節が、ないわけではなかった。
ターナは由緒ある家庭に生まれた。中世から続く門閥の分家の出である。
厳格な両親に育てられ、高等教育を受けた。
良家への縁組みも決まっていた。
そんな親に敷かれたレールが嫌になり、自由奔放な生活を求めて家を出、いまの夫と一緒になった。
一方、嫁は武家の名門オリエンティーナの出であった。だから、家格はむしろ、嫁のほうが上である。
しかし、嫁は、オリエンティーナの宗家に生まれたのではない。前(さき)の当主の側女(そばめ)の連れ子であった。もともとは平民の出である。
ターナは、嫁の門閥らしからぬ振る舞いを気に入っている面もあった。そもそも、ターナとて、貴族然とした暮らしが嫌で出奔した身である。
嫁の気さくな人となりを煙たく思うような素地はない。
しかし、しみついた習性は抜けきらない。
娘時代、何人もの家人に囲まれて育った。と同時に、本家の親族への礼儀は過剰なまでに要求された。親族とはいえ、こちらから声をかけることは許されなかった。
自分が叩き込まれた厳しい縦の血縁関係を、ターナは、この娘にも押しつけてしまいがちなのである。
さらにもう一つ、それとは別に、ターナの気分を害する……というか、神経を逆撫でするものがあった。
嫁の制服姿である。
嫁は、十七でオリエンティーナ家の家督を継いだ。当家に嫁いだあとも、当主としての地位はそのままである。それが、婚礼の条件であった。
オリエンティーナは武家の名門である。当然、その当主たる者は軍籍にあらねばならない。
だから、嫁が軍の制服に身を固めていることは、自然なことであった。
紫紺の上着(ジャケット)。乳白色の中着(ブラウス)。葡萄酒色の生地に黒い刺繍の入った襟帯(ネクタイ)。
――そして、かつて夫も着けていた将官の階級章。
嫁には、若くして提督号が授与されている。
明らかに軍人とわかるいでたちは、こうして夫が不自由な生活を強いられたことへの忿懣をも、新たなものにしてしまう。
夫から健康な身を奪った象徴が、その制服姿であった。
と、同時に、それは、自分よりも二回近く若い娘が、かつての夫の上位にあり、夫を上回る兵権を持ち、万で数える部下を持つということを、今更のように思い出させる。
この歳で……。
自分は、この娘ぐらいのときに、いったい何をしていただろう?
堅苦しい家を捨て、一人、社会に出、ろくな技術も持たず、朝から晩まで労務に終われ、気が付くと自分の孤独を思い、やがて、あらぬ幻想に取りつかれていった。
ひたすらに自分を愛し、慈しんでくれるはずの将来の夫を心待ちにし、幸せな家庭、気ままな暮らし、可愛らしい子らに囲まれる生活などを夢見ていった。
そう――
あの頃の自分の、頭に描いた幸せを、ただ、そのまま、ひたすらに、待ち続けていただけではなかったか?
同僚は次々と結婚し、退職していった。
それを横目に焦りつつも、具体的にどうすれば良いのかもわからず、ただ漫然と毎日の生活を送るだけ――
ただ、それだけではなかったか?
(だから、いまの私があるというのか?)
夫は戦場で傷つき、二度と立ち上がれない体となった。
医者から再起不能と診断され、それまでの地位を全て明け渡すことになった。
軍の兵権。家の権益。
あの日、
(行ってくる)
と、云って出征していった夫の後ろ姿が忘れられない。
それが、五体満足な夫の、最後の姿であった。