2 シュトミール家の事情


 ターナの嫁いだシュトミール家は、新興の武家であった。
 舅が、希有の戦功によって、一代で確立した。
 そんな武家の二代目の当主である。夫の再起不能は、即、家の衰退に結びつきかねなかった。
 しかも、夫の場合、我が身が負傷しただけでは済まなかった。何十万という部下の命を失わせた上での退官だった。

 敗軍の将に、政府も国軍当局も冷たかった。
 補償金は、規定の一割しか支給されないことになっていた。財政上の理由で、功無き将に報いられる分は極端に切り詰められることになっていた。
 ――上位よりも下位を。
 それが現政府の確固たる指針であった。
(無体な……)
 と、ターナは思った。

 しかし、夫に云わせれば、その方が理にかなっているのだという。
(一兵卒の家庭への補償が、一将官の家庭よりも優先されるのは当然だ。私の誤りで彼らを死なせたのだから……)
 本来は巨額の退職金を手にできたにもかかわらず、夫は一切、不平を云わなかった。
 また、妻である自分にも、不平を云うことを、無言のうちに戒めた。

 せめてもの救いは、甥のリウスが、分家との争いを制し、夫の跡目を無事に継いだことである。
 夫との間に実子はない。
 だから、甥を養子に迎えた。甥の後継は、望みうる最高の結果といってよい。

 むろん、夫が、シュトミールの当主の座を追われてからも、甥っ子夫婦の態度は変わらなかった。
(私たちで何とかしますから)
 と、嫁は云った。
(隠居暮らしの賄いくらい、何とかなりますよ)
 と、甥も云ってくれた。
 もちろん、二人は、純粋な労りの気持ちから、そう申し出てくれたのだろう。しかし……。

 つまらない矜持が邪魔をした。
 家を出たいと、ターナは思った。
 家政が甥たちに代替りした以上、いつまでも厄介になるのは、御免だった。
(できれば、あなたにも一緒についてきて欲しい)
 と、ターナは夫に云った。

 夫は、しばらく無言のまま天井を見上げたあと、
(お前の好きなようにしよう)
 と、云った。
 二度と戦陣に立てない身となっては、自分も、この家にとっては無用の長物なのだということを、夫は云った。
(これからは、二人だけで、慎ましく生きていこう)
 そう、夫は云った。

 もちろん、甥っ子夫婦は反対した。
 甥たちの庇護を拒んで生きていくなど、簡単なことではない。
 夫は、働くことはおろか、動くこともできないのだ。
 働くとしたら、ターナだけである。

 しかし、四十を過ぎた中年女を求める職場など、そうあるものではなかった。
 まして、永く打ち続く戦乱の混乱期に、社会は動揺し、景気も悪い。納得できる職など、見当るはずもなかった。
(それでも……)
 と、ターナは我を通した。

 やっとのことで見付けた職は、「給食の小母さん」であった。環境も条件も決して良いとは云えない公営食堂の給食員である。
 本当は、破格の条件の職が持ち込まれていた。思わず飛びついてしまうほど待遇のよい職であった。
 が、経緯を知り、気が進まなくなった。

 病床の夫が、知人のつてで探してくれたものと、最初は承知していた。
 ところが、実際は、嫁のマリーが、公務の合間を縫って、探し出してくれたものだったのである。
 姑の気持ちを考え、仕事先は夫の口から伝わるようにと配慮したらしい。
 おそらく、それぐらいのことはやってしまう娘だった。

 まったく申し分のない嫁だと思った。自分たち一家にはもったいないぐらいである。
 ターナの理性は、嫁を絶賛していた。
 気立てが良く、年長者を敬い、夫たる甥には歩調をあわせ、それでいて、自分の経歴をしっかりと築き上げていく。
 何よりも容姿が申し分ない。若くて綺麗な顔立ちは、女の自分も、ほれぼれとしてしまうことがあった。

 こんな女性も、たまにはいるのだ。
 世の中は、どこまでも不公平にできている。

 ところが、その夫たる甥ときたら、
(短所を隠すのが上手いだけですよ)
 と、笑う。
 甥は、自分がどれだけすばらしい妻に恵まれているのか、まるで知らない風であった。

 だから、甥が妻の悪口を云うのを耳にすると、つい、
(そんな罰当たりなことを云うものじゃありませんよ。もっと大切にしてあげなさい。あなたには、すぎた奥さんなんだから……)
 と、詰ってしまう。

 誰よりも嫁を高く評価し、好ましく思い、大切にしたい反面、誰よりも気兼ねし、煙たく追い払い、息の詰まる思いをしている。
 二十も歳の違う娘相手に――

 その苛立ちを、おそらく、この娘はわかっているのだ。その黒い円らな瞳の奥には、底知れぬ知性の輝きを宿している。
 それは、高々二十年足らずの経験差をも補って余りあるように、ターナには思えた。
(いったい、何を恐れているのだろう?)
 莫迦げている。
 思わず、ターナは、ゆっくり自分の首を左右に振った。

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