「姉ちゃんじゃないか?」
リュージェは叫んだ。
「何よ、急に……」
雨に少し濡れたセミロングの黒い髪に、少し疲れ、くすんだ黒い瞳。ちょっと背が高めで、士官候補生にしては華奢で、お気に入りの紫紺のコートに身を包み、不平がましく自分を見ている少女は、紛れもなく、姉マリーだった。
「なんで?」
「ん?」
「無事だったの? 姉ちゃん?」
「え?」
「事故は?」
「事故?」
「どうやって助かったの?」
「助かった? 誰が?」
「……」
「事故?」
「……」
「……何?」
姉は無邪気だった。
事態は収束にむかって動きだした。リュージェは全身の力が一気に抜けていくのがわかった。
「いったい、どうしたの?」
姉は不思議そうに問うた。
「何でも……」
「ん?」
「……いいんだ。姉ちゃんには関係のないことだったんだ」
弟が泣いていたことに、姉は気付き損ねた。
「あ、そうだ。ごめん。リュージェ。実は誕生日のプレゼントのことなんだけど、結局、時間がなくて買えなかった。ごめん! 本当にごめんなさい。今度、来る時は、この埋合わせはするからね、その時までは、ごめん。ね?」
姉は、弟の癇癪を覚悟していたのかもしれない。
しかし、弟は姉の必死の釈明など聞いていなかった。姉の元気な姿を見た時から、胸の内の何かが、堰を切って、怒涛のごとく流れゆこうとしていると感じた。先ほどとはまったく違うこの激情が、いったいどういうものなのか、理解しようと必死になった。
次の瞬間。
リュージェは自分でもびっくりするぐらい、何のためらいもなく、姉の胸の中に飛び込んでいった。
「痛!」
姉は不意を突かれ、背中を玄関の扉に嫌というほどぶつけた。
「ちょっと、痛いよ。何度ぶつけたら……」
しかし、弟が幼子のように泣いているのを知って、姉は力なく抗議を取り下げた。
「何かあったの?」
姉は、自分の背丈と変わらない弟に抱きつかれ、困ったような顔を伯母の方に向けた。伯母は、半分泣いたような笑顔で、その様子を見守りながら、わざとぶっきらぼうに云ってみせた。
「いいんだよ。人を散々心配させといたんだからね。少しは甘えん坊のお守りでもしてもらわにゃ、採算が合わんよ」
「……?」
その言葉は、姉を一層困惑させるだけだった。
「要するに最終の特急には乗らなかったんだね?」
泣いている弟の背中をさすりながら、姉は決まり悪そうに云った。
「……うん。実は乗り遅れちゃって、慌てて普通線で乗り継いで来たの。まいっちゃった。時間はかかるし、お金もかかったし。ねえ、あの指定席券って、もう払い戻しできないのかな?」
伯母は目尻を光らせて笑った。
「そんなことだろうと思ったよ」
「え?」
覚悟していた落雷がなく、姉は、またまた戸惑ったようだ。
「そういえば、なんで、指定席券を無駄にしちゃったこと、知ってるの? 今からどうやって云い訳しようかと思ってたのに……」
「……はは。さあねえ……」
苦笑しただけで伯母は何も云わなかった。
「なんだ、事故ってそういうことだったの……」
ほとぼりが醒めた頃、リュージェはソファに姉と向かい合って座っていた。さっきからそわそわして落ち着きがないのは、もちろん弟のほうだった。
「さっきはごめん」
頬と耳とを真っ赤に染めて、リュージェは云った。
「いいよ、別に」
姉はうつむいて笑った。
「でも、まさか、抱きつかれるとは思わなかったなあ。あなた、今年でいくつになったの?」
「うるさいなあ、もうしねえよ。あんなことノ」
弟の怒った顔を見て、姉はからかうのをやめた。
「ところで……」
「うん?」
姉は弟の瞳を見た。
「誕生日のプレゼント、買ってないって云ったよね?」
「うん」
「もういいよ。いらない」
姉はきょとんとした。
「なんで?」
「もう、いいんだ」
「……いつもねだるくせに?」
「いや、ホントに。もういいよ。ここに来るのも、姉ちゃんが本当に来たくなった時だけでさ……」
姉は、弟のいつになく大人びた眼差しをどう受けとめていいものか迷った。
「ホント、もういいんだ。姉ちゃんがホントに事故にあってもいけないし」
弟が笑ったのを見て、姉もつられて笑った。
それを見た弟は、さらに嬉しそうに笑った。
「……よし。いいよね、もう」
「なにが?」
弟は笑顔を引っ込めた。
「変な心配かけたくなかったから、黙っていようと思ったけど、やっぱり、あなたには話しておく」
「え?」
姉の幾分もったいぶった云い方が気になった。
「来月、私たち士官学校二年生は、一ヵ月の実戦訓練に出ます。訓練と云っても、いつどこで何があるかわからないので、万一のことも覚悟しておいてください。以上」
姉は笑いながら軽く左手を挙げ、弟に敬礼の真似事をしてみせた。
「……そうやって家族に報告するように、学校で云われたんだけどね。まあ、大丈夫。危ないところには近付かないから……。だいたい、うちの先生はいつも大げさなのよ。あ、でもこれ、伯母さんには内緒よ。きっと大慌てするから……」
姉はぺろっと舌を出して笑った。
しかし、弟のほうは、さすがに姉ほどあっけらかんとするわけにはいかなかった。
「実戦って、まさか……」
「大丈夫。まだ本当に戦争にいくんじゃない。これは本当。嘘じゃない」
「……」
「でも、いずれは行かなくちゃならないわけか……」
姉は少しだけうつむいた。
「ねえ。いったいどういうことだよ」
リュージェは思い切って尋ねてみた。
「あんなに父さんに反発していた姉ちゃんが、何で士官学校になんか……。今、姉ちゃんにもしものことがあったら、やっぱり困るよ、僕も兄貴も……」
姉は微笑んだが、表情には幾分くすみが見えていた。
「本当だね。何でかな? 私にもよくわかならない……」
「……」
「リュージェ?」
「うん?」
「これだけは云っておくとね……」
姉は大真面目にも、少し照れているようにも見えた。
「あなたはバカなことしちゃ駄目だよ。私やジークのように……」
「うん……?」
リュージェは姉の真意がわからなかった。わからなかったけれど、姉の本音に初めて接したことは知った。
しかし、それだけだった。やはり、姉のわずかな表情の動きから、すべてを読み取るのことは無理だ。黙ってうなずくより他はなかった。
いつしか、屋根が叩きつけられる音も止んでいた。辺りは、すがすがしいまでに静まり返っている。激しかった雨は、すっかりあがったらしい。
三月を過ぎると、雨期もそろそろ終わりを告げる。最初に青空を見れる日はいつのことだろうか? リュージェには、さほど遠くないことのように感じられた。