この話を語り終えた後も、リュージェは私に色々なことを話してくれた。
(オリエンティーナ家の当主が列車事故で死亡か)
のニュースは、政府関係者、軍関係車の間を、瞬く間に駆け抜けていった。実際、軍部要人としてのマリーの身を狙っての犯行であった疑いは、今日も晴れてはいない。
(おかげで、あれ以来、本格的に深窓の令嬢扱いになった)
と、妻は笑った。
昔の貴族さながらに、常時、護衛がつく身となったというわけである。
(姉は軍人になるような人ではなかった。絶対にどこかで間違っていた……)
と、リュージェは云う。
私もそう思う。
妻は体が弱かった。
病弱だったという母親の血を濃く受け継いだせいか、若い頃から、冬になる度に風邪をこじらせ、辛そうにしていることが多かった。
それでも、苛酷な軍務に耐えてきたことは、単に彼女の意志の強さを示すに過ぎない。
何よりも、妻の性格自体が、軍人には合っていなかったように思う。
私は、妻の軍人としての力量を、悉さに見てきた。
たしかに、士官学校での成績が示す通り、武家の名門オリエンティーナの名に恥じない資質は備えていた。
戦史上の偉大な先達に比べても、決してひけをとるものではない。
しかし、一私人としての妻を思う時、やはり訝しまずにはいられないのである。
軍人にまず要求されること、すなわち、与えられた情報を素早く的確に判断し、その場で迷わず重大な決断を下し、ときに鋭利にかつ冷酷になることなど、彼女がもっとも不得意とすることのはずだった。
そう。そんな人だったのだ。少なくとも、私が学生時代に恋した少女は……。
(そんな姉が、なぜ軍人になる道を選んだのか? 当時の私には、まるでわからなかった。私が理解したのは、否、理解したつもりになったのは、もっとあとになってからのことである)
リュージェの著述の中の言葉である。
おそらく、正直な胸の内ではなかったか。
マリーが士官学校に進んだのは、公と私との狭間を揺れ動き、結局、私を殺して公をとった結果である。
公とは、この場合、事実上、当主不在のオリエンティーナ家の事情、および、そのオリエンティーナ家の武力を柱石と頼む国軍の事情であった。
マリーの父親は、オリエンティーナ家の家督を握りながら、士官学校を十分な成績で卒業することができず、その後の武功も不十分であり、ついに提督号を付与されるには至らず、佐官止まりで生涯を終えることが、ほぼ確実になっていた。
そのままでは、オリエンティーナ家の本流の地位を返上しなくてはならない。
しかし、当時、オリエンティーナの傍流諸家は、互いに激しく対立しており、どの分家が家督を握っても、一門の分裂は避けられない状態にあった。
かかる状況にあっては、本家の才媛マリーの存在は、一門の分裂を回避したい者たちにとっては、まさに僥倖であった。
はたして、マリーは、ついに父親が手にすることのなかった提督号を、わずか十八歳で手に入れる。
マリーが正式に家督を継いで、わずか一年後のことであった。
自分の姉が、遥かに遠い彼方を歩いていたということに、やっと気付いた瞬間、それがあの雨あがりの夜だったと、リュージェはもらす。
妻は、リュージェの研究業績の自慢話が多かった。ジークを戦功で誉めたことは一度もなかったのに、である。
(ほら、みて。リュージェが勲章をもらった論文だよ)
妻は、私に胸を張った。複雑な数式の並ぶ論文を、いつも自分の執務室の戸棚に大事にしまっていた。もちろん、妻がそれを読んで理解していたとは思えない。
ジークが戦死した夜、妻は涙を見せなかった。
戦陣で、その報を受け取ったときにも、動揺は見せなかったという。
(女ながらも、そこは提督よ)
と、世間は褒めそやした。
しかし、亡き弟の独身官舎を自らの手で片付けていたとき、妻は声を殺して泣いた。
(知っていた? あの子にも好きな人がいたのよ?)
妻は妊娠を拒んだ。
軍務に差し支えないための配慮と受け取る者が多かった。
しかし、実際は違う。
さきの大戦末期、最後の出撃を控え、妻は私にこっそりと云った。
(これで、オリエンティーナの嫡流は自然と断ゆる。あとは、よろしく)
(縁起でもない)
と、苦虫を噛み潰す私に、
(ゴメンね)
と、妻は云った。
ほっと安堵した表情にも見えた。
妻が、私との間に子をもうけることができなかったのは、政争の道具にされることを恐れたからである。
しかし、出産は、両家の公事である前に、夫婦の私事である。
私は、妻が、子を産めなかったことをずっと気にしていたということを、このとき、初めて知った。
そして、私は妻を失った。
オリエンティーナの家は、当主を失い、否応なく、私の家の家制に組み込まれていった。
当主の夫の家の家制である。
体面上は何の問題もない。
妻は、オリエンティーナの家の争いに、いかに終止符を打つかを、最初から、考えていたと、今では思う。