3 姉、還らず

 ラジオのスピーカから一様なアナウンスが流れていた。

「……繰り返しお伝えします。今夜、午後八時十一分ごろ、イフリディーティ市内タユ地区で、高架線列車が脱線、転落し、およそ十五グダフ下のソムリ河の水面まで落下しました。客車二十四両のうちの何両かは押し流された模様です。鉄道会社によりますと、転落したのはレント発イフリディーティ経由ラントゥール行き特別急行列車七〇二号で、本日の同線の最終急行列車だったとのことです。休日よりも乗客の数は少なかったとのことですが、折からの長雨で河川の水量は増大しており、乗客乗員併せて二五四名全員の安否が気遣われます……」

 リュージェは首をひねりたい気分だった。どうあっても、そのニュースを信じる気にならないのである。
(嘘みたいじゃないか。これに姉ちゃんが乗っていたなんて……)
 さっきと同じように、茫然と、暗い窓の外を眺めているその顔は、まだ衝撃に実感が伴っていなかった。自分でも、それがよくわかった。

 屋根が激しく叩きつけられている。いつの間にか、外では雨足が強くなっていた。

 あの時、受話器の向こうの兄は取り乱していた。
 あの兄が、である……。
(姉さんは間違いなくそっちに向かった。本当にまだ来てないのか?)
(来てないよ。何度云わせるんだよ)
(何か連絡は?)
(ねえよ、何も)
(何も?)
(まったく……)
(じゃあ、やっぱり姉さんはあの事故に……)
(ちょっと待てよ、きっと何かの間違いだよ)
(いや、たしかにリウスさんには、そう云って出掛けたらしい。その列車に乗っていくって……。そうまでして行く必要があるのかって云ったら、笑ったそうだよ)
(……)
(俺だって信じたくはないさ。でも、寮の部屋に電話入れても出ないし、学校に電話入れてもいないし、どうやら……)
 間違いないと、云おうとしたのか……?

(鉄道会社へは聞いてみた?)
(ああ……)
(何だって?)
(お気の毒ですが何とも申し上げられませんって……)
(そんな……)
(少なくとも、あの急行の指定席をとっていたことは間違いないそうだ)
(……)
(列車が引き上げられるのは明朝らしい。それまでは行方不明の捜索も身元の確認もやりようがないんだと……。もっとも、それだって、河の水に流されていなけりゃの話だろうがな……)
(……)
(……やれやれ、なんてことだ)

 いつもは憎らしいほど冷静な兄も焦燥の色は隠せなかった。生まれてからずっと一緒だった兄の動揺は、たとえどんなにわずかしか表層に見えてなくても、十分に伝わってくる。兄の声は震えていた。あんな兄は、父の戦死の報せが届いた時や、母の臨終を告げられた時にも見ることはなかった。

 居間の大きな柱時計が十一時を告げた。
 父が生前に下町の骨董品売り場で見付けてきた柱時計だ。姉弟が両親の家を手放す際にも、処分せずにもってきた。
(ねえ、これ本当に持ってくの? 売っちまお)
(だめ)
(何でさ? いいじゃないか。お金足りないんだろう?)
(だって、お父さんの形見でしょ?)
(大きすぎるんだよ、この時計)
(どのみち売ったって大したお金にはならないわよ。買ったときだって、がらくたみたいな値段だったんだもん)
(でも、金は少しでも多いほうが……)
(……こらこら)
(苦しい家計のためだ。父さんだって許してくれるよ)
 末弟のあまりもの現実路線に、姉はため息混じりで云ったものだった。
(先が思いやられるよなあ)
(……)
(私も、うかつに戦死できやしない。形見になりそうなもの、みんな売られちゃいそうで……)
 本気とも冗談ともとれる口調だった。

 あの時の姉の苦笑した表情が浮かんでは消えていった。
 本当に、転落した車両の中に、姉はいたのだろうか?
 もしかしたら、こうしている今も、姉は河底に沈んだ車体の中に閉じこめられているかもしれない。
 あるいは流されてしまっているかも……。
 まだ春になったばかり。河の水はさぞ冷たいだろうに……。

 そこまで考えて、リュージェは居ても立ってもいられなくなった。
 拳を壁に思いっきり叩きつけた。
 最初、一回だけ、どすんという音がした。そして、その後、何回も繰り返された。

 しばらくして、リュージェは玄関で靴を履いていた。
 一人になりたかった。
 今まで貯めていたものを、誰にも見られずに一気に吐き出せるようなところに行ってしまいたかった。
とにかく、この家にはいたくなかった。伯母と、そして他のすべての人間と、顔を合わせたくなかった。

 伯母が台所から顔を出した。
「どこ行くんだい? こんな時間に?」
 伯母もまた、いつもの生彩は欠いていた。
 リュージェは小さく答えた。
「頭を冷やそうと思って……」
「冷やす?」
「散歩してくるだけですから」
「雨降ってるよ」
「大丈夫。冷やすにはちょうどいいでしょ?」
「何云ってるんだい。風邪ひくだろう?」
「……」
「とにかく、まず何か食べなさい」
「いいんです」
「いいって云ったって……、あ! ちょっとお待ちよ!」

 伯母の右手が甥の左手をつかんだ。
「待ちなって!」
「離してくださいよ、伯母さん」
 リュージェは、かすれた声で云った。
 伯母は離そうとしなかった。

「伯母さん、手を離してください」
 今度は、声が微妙に震えた。
 伯母は低く云った。
「……いいかい? まだ、あの子が死んだって決まったわけじゃないんだよ?」
 リュージェは反論した。
「乗客乗員全員の安否が気遣われるって……」
「あの子なら、生きているよ」
「嘘だ。本当の姉さんを知らないから、そんなことを……」
 伯母も負けじと云い返した。
「あの子が乗っていたっていう確かな証拠があるのかい?」
 リュージェは顔を背けた。
「いいんですよ。気休めは止しましょう。ありませんよ。証拠なんて。でも乗っていなかったという証拠もないでしょう?」
 履き捨てるような言葉だった。

「全部僕のせいなんです。僕がもう少し大人になっていたら、もう少し姉ちゃんを患わせずに済んでいたら、こんなことにはならなかった。全部僕のせいなんです。僕がもう少し、しっかりしていれば……、今夜だって、わざわざ式典の後、こんな時間に列車に乗ることもなかった」
 伯母は絶句した。
「あんた、知ってたの……?」
「僕が悪いんです。姉ちゃんが死んだの、僕のせいだ!」
「違う!」
 伯母は、これまでのどの伯母よりも、真剣に怒鳴った。
「あんたのせいじゃない。あの子が勝手に来ることにしたんだ。昔のように、あたしに甘えたくてね。別にあんたが無理強いしてたわけじゃない!」
「……知ってたんですよ。姉ちゃんが僕のこと、すごく気を使っていて、それが物凄い負担になっていたことも。学校の勉強も忙しいっていうのに、ちょくちょくこっちへ顔を出してくれて、本当はすまないと思っていたんです……。でも、僕は、姉ちゃんや兄貴と違って、父さんや母さんに可愛がられた覚えもないし、友達のいないこんな全然知らないとこに転校してきて、いっぱい嫌な目にもあってるから、これくらいはいいだろうって、少しくらいのわがままならいいだろうって、そう考えていたんですよ。ひどい弟ですよ。とんでもない弟です。きっと罰があたったんです」
「でも、ね……」
 リュージェは、伯母につかまれた左手を強引に降り払って、伯母を黙らせた。
 滴がぽたりと床に落ちた。
「しばらく一人に……」
(……姉さんに謝る言葉が見つかるまでは……)
 必死で嗚咽を堪えた声だった。

 伯母の返答を待たなかった。
 リュージェは、伯母の視線をかなぐり捨てるようにして、ドアを押し開け、傘ももたずに、降りしきる雨の中、飛びだした。
 もうどうなってもよかった。すべてが暴走しかかっていた。

 と、その時。

「痛!」
 何かがドアにぶつかった。
「……?」
 その出かかった言葉は、場違いにすっとんきょうだった。
「え?」
 額をさすりながら、玄関のポーチに立っているその人の姿を、リュージェはわが目を疑いつつ凝視した。

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