2 凶報

 明くる日も、天気はぐずついていた。
 リュージェが学校から帰ってきたのは、夕方だった。
「お帰り」
 伯母が、いつもの通り、出迎えた。
 今日は、大きなため息をつかずに、リュージェは二階の自分の勉強部屋に上がっていった。

 伯母が階段の踊り場から声をかけた。
「今夜、マリーが来るんだって? 誕生日のお祝いはそれからでいいよね?」
「はい……」
 リュージェは曖昧に返事をした。そして、幾分、低い声で付け加えた。
「すみません、わざわざ……」
「いえいえ。誕生日ってのは、人に祝ってもらうためにあるんだからね。特にあんたぐらいの年齢のときは……。あたしくらいになると、煩わしいだけだけどねえ」  伯母はひどく陽気だった。
 しかし、それは一種の脅迫としか聞こえなかった。

 リュージェは自室にこもると、カバンを机の脇に引っ掛けて、椅子に座った。窓の景色は昨日とまったく変わらない。ただ、壊れかけたシャワーのような小雨が、今は止んでいる。

 定期考査のできは、あまり良くなかった。
 去年、今の中学校に転入してきて以来、一度も明け渡したことのなかった校内席次一番の座は、どうやら確実に失いそうだった。
(田舎中学で一番を取れないようじゃ情けない)
 それが、今日までの自分を支えてきた自負心の一つだった。
 しかし、どこか歪んだその自信は、いま、足元から崩れ去ろうとしていた。今日まで、クラスメイトたちを一段低く見てきたことが悔やまれてならなかった。つまらない虚勢を張っていると、自分でもわかっていたのに……。
(今度、一番じゃなかったら、あいつら、みんなで僕のこと嘲笑うに違いない)
 リュージェは、明日、学校に行くことさえ、極端に恐れていた。
(どうしよう? 大口を叩いた手前、いったいどの面さげて行ける?)

 昔は、こんな嫌な奴じゃなかったのにと、リュージェは思う。まだ、両親が健在で、市街の学校に通っていた頃、たしかに、リュージェは気立ての良い、いたって普通の中学生だった。成績は、士官学校に合格した姉のように「ずば抜けていた」というわけではなかったが、それでも、常に準トップクラスの水準を保っていた。数学や理科だけなら、誰にも負けなかった。
 何よりも、テストの点に執着する点取り虫ではなかったのだ。活発な生徒で、友人も少なくなく、クラスでもどちらかといえば目立った存在だった。もっとも、運動は、なぜか兄に似ず、あまり得意ではなかったが……。

 ところが、去年の夏。
 軍人だった父が戦死し、また、病弱だった母が、その後を追うようにして亡くなり、リュージェの日常生活は一変した。姉は士官学校に在学中のため、また、兄は戦闘操縦士学校への進学を決めていたため、上の二人は共に市内に残ることになり、リュージェだけが、一人、ラントゥール地方の伯母夫婦に預けられることになった。姉と兄とが卒業した馴染み深い学校を、去らなければならなかったのである。
 今となっては姉と兄としか知らない自分の「脆い性格」を考えれば、独りぼっちの転校は大きな心の負担であった。
(いつまでもくよくよしていてはいけない。つらいのは僕だけじゃないんだ)
 そう思って、気を取り直したものの、続いたのは最初の二、三ヵ月だった。ここにきて緊張の糸はすっかり切れてしまったらしい。
 この半年間の出来事がすべてが面白くないことだったように思えてくる。実際、面白くないことが多かったのだけれど……。

「……ふう」
 リュージェは、我慢していたため息を、結局、ついた。今日が自分の誕生日であることを思い出し、一層、虚しさがつのってきた。
(姉ちゃん、来てくれるかな?)
 姉と話をすれば、いくらか気が楽になるかもしれない。リュージェは、今更のように、姉の帰りを心待ちにしている自分に気が付いた。

 味気ないアナウンサーの声がもれてくる。抑揚のないその声は、おそらく国営放送のラジオニュースだった。
「……最高評議会議長官邸のライシス報道官は、今日の午後四時すぎに声明を発表しました。そのなかで、今回の第三七艦団を主力とする国軍の出動は、大規模な作戦行動を示唆するものではないとして、一部のマスコミの先走った報道に、強い懸念を示しました。さらに、ライシス報道官は、この後の公開質問の席で、政府としては、これ以上、ロスヴァニア戦線を拡大する意図はなく、リッティ・リュージェ側の出方を伺いつつ、戦線を縮小していくという見解を明らかにしました。これをうけて、同日午後五時すぎ、統合作戦司令部が発表した声明によれば……」
 リュージェは、その単調な報道を、居間のソファに腰掛け、何となく聞いていた。
 伯母は夕食の支度を終え、あとは火にかけるだけという段階に漕ぎ着けたところで、手を休めていた。

 日が暮れてから、だいぶ経っている。
「マリーのやつ、遅いな。どうする? 先に食べるかい?」
 リュージェは、それには答えず、代わりに、気のない声で聞いた。
「何時ですか?」
 伯母は、時計を見た。午後九時前だった。
「おかしいねえ。最終の特急に乗ったとしても、そろそろ着く頃だ。どうする?」
「もう少し待ちましょう」
「どれくらい?」
「姉が来るまで……」
「せめてうちの宿六がいたら、少しは賑やかなのにね」
 伯母は、出稼ぎに出ている夫のことを詰った。
「そんなこと……」
(……ないです)
 と、云いたげな甥の表情を見て、伯母は口篭もった。
「……はは。やめようね。湿っぽい話は……」
 伯母の笑顔は、すっきりしなかった。
 どうやら、姉はもう来ないものと思っているようだった。

 午後十時になっても、姉は姿を見せなかった。
 リュージェは、先ほどから、居間のソファを動こうとせず、やはり、ぼおっと窓の外を眺めていた。この時刻である。窓の外は暗やみで何も見えない。
 すっかり気落ちした甥を見て、伯母は云った。
「しょうがない。あきらめて、二人でささやかな祝杯をあげようじゃないか? 何歳になったんだっけ?」
 と、しきりに夕食の席に着くように勧めた。

 しかし、リュージェは頑として首を縦には振らなかった。
「きっと何かよほどの事情があったんだよ。あの子のことだもの……」
 伯母は、さらに根気よく誘ってみたが、甥は動こうとはしなかった。
「ほら、遅くまで何も食べないのは毒だよ。はやくこっちにおいで。いま、チキンをあたためなおすよ……」
「……いえ」
「ほら……」
 リュージェは、ませた口調で、慇懃に云った。
「いえ、どうぞ、お構いなく。先に食べてください」
 ぶっきらぼうな返事だった。

 伯母はむきになった。
「いいかい? 今日は私のじゃなくてお前の誕生日なんだよ?」
「はい。でも……」
「でも?」
「……いえ……」
 伯母は苛立った。
「いったい何を云いたいんだか、わからないね」

 その時、廊下の方で、電話のベルの鳴る音がした。
「誰だろうね、こんな時間に非常識なノノ」
 伯母は八つ当り気味にそう云った。そして、受話器を取りにいこうとしたところ……、
「あ、僕、出ます。多分、姉からです……」
「うん?」
 伯母が振り返った時、甥は口よりも早く行動に出ていた。
「そうか……」
 伯母は、ほっとしたように呟いた。

 ルルル……、ルルル……。
 黒く冷たい空気を払うようにして、無機質な機械音がこだましていた。
 リュージェは電灯のスイッチを探り当て、こほんとばかり咳払いをして、おもむろに受話器を取り上げた。
「はい……」
 リュージェはいつもの自分を装った。姉に、何かを感付かれるのは嫌だった。

 ところが、電話の相手は姉ではなかった。
「なんだ、兄貴か……」
 思わず舌打ちをした。
 兄相手に、うっかり、心の奥底を露呈してしまい、気分が悪かった。

 しかし、受話器の向こうの兄は、それを質そうとはしなかった。それどころではなかった。
「姉さん、そっちに来てるか?」
「ん? ……いや、来てねえよ。さっきから待ってる……」
「本当か?」
「ホントだよ。いったい何だよ? 急に?」
 兄の報せは衝撃的だった。
「……え? ニュース? 何で?」
 リュージェは自分の耳を疑った。

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