笑い続ける必要はない――その人はそう、言ってくれた。
泣きたい時には泣いてもいい。自分の心に正直になれ、と。
過去の思い出に捕われ、ただ淋しく笑うことしかできなかったわたしに、その人は心の傘をさしてくれた。
その人は、遥か東の果て、わたしの故郷からやってきた人だった――。
「ちょっと、お伺いしてもよろしいですか?」
7月の巴里、昼下がりのこと。料理の皿が下げられ、コーヒーが運ばれてくると、花火はこう切り出した。
「ええ、いいですよ。」
「日本では、お世話になった方とか、親切にしてもらった方へ、毎年決まった時期に贈り物をするそうなのですが...。」
「ああ、お中元やお歳暮のことですね。今の時期なら、お中元かな?」
「2種類あるのですか?」
「はい。年末に贈るのがお歳暮、7月に贈るのがお中元です。」
「そうなんですか...。」
「ええ。あたしは、贈ったことはありませんけれど、母や祖母は、毎年この時期になると贈っていますね。」
「『おちゅうげん』や『おせいぼ』とは、どういったものなのでしょうか?」
「贈る内容のことですか?食べ物であることが多いみたいですよ。」
「食べ物...? 『おちゅうげん』や『おせいぼ』とは、食べ物なんですか?」
「え? いえ、そうではなくって...。」
「では、どういったものなのですか?」
「ええっと...。」
さくらは、返答に窮してしまった。「お中元」も「お歳暮」も、何か特定のものを表す言葉ではない。目上の人等に、儀礼的に贈るものを「お中元」や「お歳暮」と呼ぶが、ものであってものを指す言葉ではない。長年日本に住み、言葉に慣れ親しんでしまったさくらには、説明するのが難しく思われた。
「その、儀礼的に贈るもののことなんですけど...。」
「それは分かります。具体的にどういったものなのか、できればお教え願いたいのです...。」
「うーん...。具体的にどういうものなのか、っていうのは言えないんです。」
「なぜですか...?」
「具体的なものではありませんから...。」
「ええっ?」
今度は花火が困惑する番だった。てっきり、「おちゅうげん」や「おせいぼ」とは具体的な物品を表す言葉だと思っていたが、少々違うようだ。しかし、まさか抽象的な概念や思想を贈り物にするわけではあるまい。
「具体的なものでないものを、どうやって贈るのですか?」
「ええっと...。他の贈り物と同じように、箱に入れたり、紙に包んだりして贈りますよ。」
「箱に入れたり、紙に包んだりすることができるんですか?」
「それは...まぁ...具体的なものですから。」
「失礼ですが、先ほど具体的なものではない、とおっしゃった記憶があるのですが...。」
さくらは言葉に詰まった。いよいよ混乱が深まってくる。
「ええっと、ですから、具体的なもののことを指すんですけど、具体的なものではないんですよ!」
もはや自分でも何を言っているのか分からない。不思議と興奮してしまい、語気が強くなっている。申し訳なさそうに、花火はうなだれた。
「すみません...。つまらないことをお聞きしてしまって...。」
「いえいえ、そんな...。こちらこそ、説明が至らず、すみません...。」
「いえいえ。もうこの話題はやめにして、散歩に行きませんか?」
「そうですね、そうしましょうか!」
二人は、巴里の街へと繰り出していった。
心なしか空には先刻よりも少々多く雲が出てきているように思えた。
帝国華撃団・花組の隊員が巴里に到着したのは、6月の末であった。
派遣されたメンバーは、さくら・すみれ・アイリスの3名である。
凱旋門前での戦いに大敗し、光武Fに多大な損傷を受けた巴里華撃団の一時的な支援のために派遣された――というのが、表向きの理由である。もちろん、彼女達自身の希望もあったのであろう。
3人は巴里市内のホテルに宿泊していたが、日中は外に出ていることが多かった。
すみれも、例に漏れず、カフェで紅茶を飲みながら、くつろいでいた。
「あの...すみれさん?」
呼ばれてふと顔をあげると、そこには黒い服を着た少女が立っていた。
「あら、花火さんじゃありませんか。ささ、どうぞおかけになって。」
「では、お言葉に甘えまして...。」
花火は、すみれの向かい側に腰掛けた。
3歳からずっと巴里で暮らしているということだが、顔立ちといい服装といい、こうして間近で見てもずっと日本で暮らしてきた日本人とあまり変わるところがない。
むしろ、ずっと日本で暮らしているすみれ達よりも、より日本人らしく見えた。
「花火さんは、よくこちらのカフェへいらっしゃいますの?」
「グリシーヌと、時々来ることはありますけど...。そこまで頻繁には。」
「あら、そうでしたの。グリシーヌさんといらした時には、いつも何をお召し上がりになりますの?」
「コーヒーを頂いています。緑茶があれば、いただくのですが...。」
「確かに、こちらでは緑茶をいただけるところはあまり多くはなさそうですわね。そういえば、花火さんは、茶道の心得はお有りですの?」
「ええ、まぁ...。」
「でしたら、日本に帰ったら最高級の茶葉をお贈りしてもよくってよ。」
「いえ、わたしは...。」
「遠慮なさらなくてもいいのですよ。わたくしにとっては、何でもないことですから。」
「お心遣い、感謝いたします。...あの、すみれさん?」
「はい?」
「ちょっとお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、なんなりと。」
「『おちゅうげん』に関してなのですが...。」
「お中元? お中元がどうかいたしましたの?」
「あの、『おちゅうげん』というものがどういうものなのか、お尋ねしたいのです。さくらさんに一度お聞きしたのですが、よく分からなくって...。」
「あら、そう。それで、どなたにお贈りするおつもりですの?」
「えっと...それは...その...。」
どぎまぎしているところを見ると、どうやら大神に贈ろうとしているようだ。同じく大神に好意を寄せているすみれとしては、少々面白くない。自然と、いたずら心が沸いてくる。
「ま、そんなことはこの際どうでもよいことですわ。で、花火さんはお中元に関して、さくらさんにどういったことをお聞きになったのかしら?」
「なんでも、『具体的なものであって、具体的なものでない』とか...。」
「はぁ?」
思わずすみれは眼を丸くする。いったいさくらはどのような説明を花火にしたのだろう。
「ええと...。すみません、よく分からなかったもので...。」
「いえいえ、お気になさることはありませんわ。あの田舎娘の言うことは、常々理解しづらいものですから。よろしければ、さくらさんがどのようにおっしゃっていたか、詳しく聞かせて下さる?」
「あ...はい。」
花火は、思い出せる範囲でさくらとのやりとりをすみれに話した。聞いているうちに、すみれには要領が分かってきた。
要するに、花火は「お中元」や「お歳暮」を、何か具体的なものを表す言葉だと勘違いしているのだ。「お中元を贈る」といった表現があるので、無理もないことなのかもしれないが。
そのことをさくらは理解できなかったらしい。
すみれは、微笑みを作りながら言葉を続けた。
「さくらさんのおっしゃりたかったことが、段々分かって参りましたわ。」
「本当ですか?」
「ええ。そもそもお中元というのは、昔は7月に贈る贈り物全般のことを指していたのです。以前は、何でも良かったのですが、現在ではある決まった食べ物を贈ることになっています。それをお中元と呼ぶのです。」
「そうだったのですか...。」
「昔ながらの言い方をすれば、お中元というのは、7月に贈る贈り物全般を指すのですから、具体的な何かを指しているわけではありません。しかし、現在では、きちんと『お中元』と呼ばれるものがあるのですから、その意味では具体的な何かを指していることになります。さくらさんのおっしゃりたかったこととは、こういうことなのでしょう。」
「そうだったのでしょうか...?」
「そうに決まっていますわ! この帝劇のトッッップスタァが言うのですから、間違いありません。おっほほほほほほ!」
「それで、その『ある決まったもの』とは、何なのでしょうか?」
「それは...。」
すみれは、巴里では手に入るはずもないであろうものの名前を告げた。日本から取り寄せたとしても、お中元として贈るには時期が遅すぎるであろう。
これによって花火の大神へのプレゼントを邪魔することができるはずであったのだ...が。
「ああ、良かった...。それでしたら、すぐに手に入れることができます。」
「なんですってぇ!?」
驚きのあまり思ったことが素直に口に出てしまう。
「あの...そんなに意外でしたか?」
「え...いえ、あの、その...おっほほほほほ、わたくしとしたことがつい取り乱してしまいましたわ。ごめんなさいね、ちょっと驚いたものですから。まさか巴里であんなものがすぐに手に入るとは、思いも寄りませんでしたわ。」
「最近では、巴里でも色々な国のものが手に入るようになったんですよ。レストランでも、日本食のメニューを置いてあるところもありますし。」
「そ、そうでしたの...。それは初耳ですわ。」
「では、それを贈れば良いわけですね?」
「え...ええ、それはもう、もちろん。」
「親切にお教えくださり、どうもありがとうございました。では、ごきげんよう。」
「はい、では、また...。」
花火は、嬉々として去っていった。
花火の後姿が視界から消えた後、すみれはひとりごちた。
「悪いことは、そうそうできるものではありませんわね...。」