グラスの向こう側(1)
ロベリア・カルリーニの話を聞きたいだって? おいおい、勘弁してくれよ。今日だけで3人目だぜ、そうやって聞いてくるのはよ。
もう今日はやめだ。また明日にしてくれ。
あん? どうしても今日聞きたい、だと? 悪いが気乗りがしねぇんだ。気の乗らねぇ時に話たって、大して面白い話なんてできやしねぇしよ。まぁ、もっとも、コニャックの一杯でもあれば話は別だがね。
...ほう、兄ちゃん、話が分かるねぇ。もう一杯飲めば、俺はあんたのこと気に入っちまいそうだぜ。
おや、本当にいいのかい? 悪いねぇ。行動が早いあたり、気持ちがいい。自然と気分も良くなるってぇもんだ。
そこまでされちゃ、しょうがねぇ。話してやろうじゃねぇか、世紀の大悪党、ロベリア・カルリーニの昔話をよ。
なんてったって、奴について知ろうと思ったら、俺に聞くのが一番手っ取り早い。こう言っちゃぁなんだが、奴以外で奴のことを一番知ってる人間っていったら、間違いなく俺だからな。
ところで、あんた中国人かい? 黒い髪をしているのは中国人くらいのもんだからな。
日本人? 日本人も黒い髪をしているのか。そいつは知らなかった、悪い悪い。
しっかし、その日本人がロベリアについて聞きたいたぁ、どういう風の吹き回しだい? ひょっとして日本でもロベリアのことは有名なのかい?
なに? ただ好奇心が沸いただけでこんな裏路地のバーまでわざわざ聞きにくるか、普通? しかもどこで俺のことを知ったんだい? あんた、ひょっとしてサツの回しもんじゃねぇだろうな? 外国人にしちゃぁ、随分流暢なフランス語を喋るじゃねぇか。
なんだい、クロードの紹介かい。そいつを早く言ってくれよ。肝を冷やしちまったじゃねぇか。やつは表にも顔が利くからな、こうして裏の情報を表の物好きとか探偵に売り渡すのを仕事にしてる。裏の人間にもいろんなのがいるのさ。
おっと、ちょいと無駄話が過ぎたようだな。隠さなくてもいいんだぜ、あんたの眼が早くしろって言ってる。心配すんな、夜は長ぇんだ。店が閉まる頃には、終わるだろうよ。さて、はじめようか。
あれは7年前、1919年の12月11日のことだった。へへ、何度も話してるもんだから細かい所まですっかり覚えちまったままでいるのさ。
俺は同じ年の4月に戦争で荒れ果てた田舎を捨て、こっちの方へ出てきていた。はじめは真面目に働くつもりだったんだが、モンマルトルを歩いていたら突然追いはぎにあっちまってな。紹介状もなにもかも取られちまった。
仕方がないんで、俺はあるグループに入れてもらって、まぁ、人様には言えないようなことをはじめた。喰ってくためだ、そうしかめっ面をするなよ。で、半年もすると、生来の手際の良さから、仲間内で一目置かれるようになっていた。
でな、その日は雨が降っていた。
俺がいつも通り薬の取引を終え、仲間のところに戻る途中、人気の無い裏路地に入った。ふと見ると、17,8くらいの女のガキが座り込んでふるえていた。この雨の中、傘も差さずにだ。女っていうのは商売道具になる。ここ巴里、特にモンマルトルはそういうので有名だからな。そこで品定めをするべく、近づいてそのガキに話しかけた。
「おい嬢ちゃん、こんなとこで何してるだい?」
俺はできる限り優しい声音を作って話しかけた。なりが汚かったから疑われるかもしれなかったが、一応人のいい貧乏労働者を演じたんだ。だが返事はなかった。
「迷子かい? だったら俺が送っていってやろう。家はどこなのかな?」
相変わらず、そのガキはうつむいたまんま、ただ黙ってる。俺はなんとかそいつにしゃべらせようとした。
「おいおい、黙ってちゃぁどうしようもないじゃないか、え?どこに住んでいるんだい? 家まで送っていってやるよ。ご両親が心配してるだろう。」
奴はやっと口を開いた。相変わらずうつむいたまんまだったがね。
「 ...うるさい。」
「え?」
「 ...うるさいっつってんだろ。怪我したくなかったらとっとと失せな、おっさん。」
「おっさんはひどいなぁ。俺はこれでも24だぜ?」
「 ...すぞ。」
「ん?」
「いい加減そのうるさい口を閉じねぇと燃やす、って言ってんだ。」
俺は言葉の意味が理解できなかった。燃やす、ってどういうことだ? マッチで俺の服に火を点けようっていうのか? だがあいにくこの雨じゃぁ、マッチは役に立ちそうにもない。俺が分かったのは、どうやら俺の演技も徒労に終わったらしい、ってことだけだった。俺が困惑しながら突っ立っていると、やつは言葉でなくって行動で説明してくれた。
やつは手をちょいと持ち上げ、手のひらを上に向けた。そしてム確かに俺にはそう見えたム手のひらの上に小さな火があがった。雨の中でもその火は小さく、しかし力強く燃えていた。自分の目を疑ったよ、あん時はね。でも、本当の話だぜ?
俺がおったまげてぽかんとしてると、奴はその火を近くに打ち捨ててあった廃材に向けて放った。廃材はものすごい勢いで燃え、一瞬の後には炎とともに...その場から消えて無くなっていた。正にあっという間の出来事だった。
普通の奴なら恐怖のあまり逃げ出すんだろうが、俺の場合恐怖を通り越して感動すら覚えていた。それを見て、俺にはある一つの計略が浮かんだ。今でもなんであんなことを考えついたんだか分からねぇ。
「 ...今の力、本物か?」
「見たとおりだ。さっさとシッポ巻いて逃げないと、次はアンタが燃える番だぜ?」
「俺と、手を組まないか?」
「なに?」
「その力があれば、普通だったら武器が必要な仕事も、武器なしでできる。強盗とかな。それでサツの意表をつけるだろう。いざとなったら、その力でおまわりを殺すなり、手錠を焼き切るなりもできる。サツを怖がらずに仕事ができるっちゅうのは、中々いいもんだぜ?」
「興味が無い。」
「見たとこ、喰うもんに困ってるみたいだし、住む家だってないんだろ? 18くらいの女じゃぁ、雇ってくれるところもねぇ。まぁ、女郎宿は除いてな。だったら、生きるためには、俺と組むしかねぇんじゃねえのか?」
やつは、俺のことをじっと見据えた。俺は、この時分になってやっと恐怖が芽生えてきた。もし交渉に失敗すれば、俺は間違いなく殺される。冷や汗が流れてきはじめた。奴は少し間を置いてから、言った。
「アンタと組んでアタシに何の利益がある? アタシは、一人でアンタの言うことをやってもいいんだぜ?」
「まず、情報だ。俺は裏の連中に顔を知られているから、裏の情報屋を利用できる。強盗とかしようにも道具がいるだろ? 金庫のドアまで焼き尽くせれば苦労はないからな。その道具だって揃えられる。あと、これが一番大事なことなんだが...。」
「なんだ?」
「当面の飯と寝床を揃えてやれる。表の宿屋とかは利用できないだろ?裏の宿屋を利用しようにも、たいてい誰かの紹介がないと泊めてもらえねぇ。」
「 ...。」
「どうだ?悪い話じゃないとは思うんだが。」
「 ...いいだろう。ただし、一つだけ条件がある。」
「先を聞こう。」
「アタシの側にずっといること。アンタが余計なことをしようとしたら、いつでも焼き殺せるようにな。」
「言ってくれるじゃねぇか。まぁいい、それぐらいの用心はしてもらわないとむしろ困るのはこっちだからな。それじゃ、これで契約成立だな。」
「ああ。」
一応、交渉は成功したかのように思えたが、まだ安心はできなかった。突然気が変わって俺のことを燃やしにくるかもしれねぇ。内心びくびくしながらも平静を装って、俺は自分の知ってる宿屋へと奴を連れて行った。商売をしている女どもが根城にしている宿だ。
宿に行く途中で、やつはロベリア、と名乗った。自分のことについてはそれしか言わなかった。俺もあえて聞かなかった。聞いたところで何になる? やつの出身地だの、親はどうしただの、俺は興味がねぇ。宿に着いて、着替えをさせ、食事が終わったところで俺は仲間のところへ戻ろうとしたが、ロベリアは契約の条件を持ち出してきた。俺が宿に一緒に泊まるか、仲間の所に一緒に連れて行くか、どちらかを選べと言われた。俺は前者を選んだ。俺がロベリアと手を組んだのを、できれば仲間に知らせたくなかったからだ。こんな金づるを取らちゃぁ、たまったもんじゃねぇしな。
たまたま出くわしたグループの下っ端に、その日の取引で得た金を渡し、伝言をした。ちょいと気分が悪いから今夜は自分の住処に早々に戻る、とな。んで、その日はロベリアと一緒の部屋に泊まった。
もちろん何もありゃしなかったさ。下手なことをすれば怪我するのは俺の方だからな。