この夏の花火


 アイツとは中学からの付き合いだった。
 幼なじみといってもいい。

 可愛らしいヤツだった。
 いま思えば、男好きのする顔立ちでもあった。

 けど――
 それに気付いたのは、アイツがいなくなってからだ。

 アイツは――

 アイツは僕に何を求めたんだろう?

     *

 高校を卒業して二年目の夏――

 僕は江戸川の土手を歩いている。
 一人、歩いている。
 川下に向かって歩いている。

 きっかけは、数日前の新聞記事だった。

 ――今年も浅草の花火大会に数十万人が集まった。

 という。
 そのことを知人に話したら、今夜、江戸川で花火大会があることを教えてくれた。
(一度みれば十分の、何とも、しけた花火大会――)
 であるらしい。
 江戸川が自宅から近いこともあって、どことなく気になって、結局、一人、ブラリとやってきたわけである。

 本当は――
 気になったのは花火のことではない
 アイツのことだ。

 夏の夜空を火焔の花々が彩る。
 舞い上がる光――湧き上がる喝采と惜しみない拍手――そして、ため息――江戸川の土手に異世界が醸しだされる。
 それが、なぜか、どうしようもなく心地よくて、
(なかなか、いいもんじゃないか……)
 と僕は思った。

「ここから先へは通れません! 河川敷におりてください!」
 警官がハンド・スピーカーを片手に注意を促した。
 云われるままに、僕は河川敷におりる。

 河川敷も眺めは悪くない。
 無理のない角度で見上げれば、炎の炸裂を、ほぼベストの視野に収めることができる。

 去年は、もっと、きつい角度だった。見晴らしも悪かった。
 込み入ったビル街の――ど真ん中だった。

 不意に――
 苦味がよみがえる。苦い記憶である。
 去年の浅草だ。
 アイツといた――あの夏の夜の浅草である。

     *

 中学だけじゃない。アイツとは高校も一緒だった。
 だから、僕は「アイツ」と呼ぶことができる。そう呼べる女は、アイツだけだ、今でも――

 アイツはライバルでもあった。
 学年の成績トップをかけた争いだ。

 アイツはバカみたいに勉強をする。
 お陰で、こっちは、いつでも二番――

 でも、特に悔しくはなかった。アイツに負けるぶんにはしょうがない、と思った。
 アイツが、毎日どれくらい努力しているか、よくわかっていた。

 中学を卒業後、市内の進学校に二人揃って入った。
 そこでも、僕らは成績を競った。

(ちきしょう、また負けた!)
(勉強、足らないんじゃないの?)
(オメーみてーに、一日六時間もできるか!)
(そんなにやってないよ。五時間くらいだよ)
(五時間も六時間も変わんねえじゃねえか!)

 こんな調子だったので、僕らは「公認の仲」だった。
 毎日、当たり前のように一緒のバスで通い、長い世間話に興じることも度々だった。

 けど――僕らは「付き合う」ということをしなかった。
 例えば、日曜日に映画に行くとか、手を繋いで公園を歩くとか、親の目を盗んで外泊するとか――そういう恋人らしいことはしなかった。

 高三の冬――
 二人とも意地をはって難関大学を受験した。
 アイツはうかるかと思ったが、結局、二人して不合格――揃って浪人することになった。

(くされ縁だね)
(全くだ)
(もう七年も一緒だよ、アタシたち――)
(ありえねえ!)

 実を云うと、本当は嬉しかった、そう云われて――
 今さら伝えようがないけれど……。

 僕らは浪人のために上京した。
 アイツは予備校の女子寮に入り、僕は下町の下宿を選んだ。

 二人、また同じクラス――成績の競い合い――

 二人とも友達作りには関心がなかった。
 僕は毎日、一人で昼食をとり、アイツも一人で寮の弁当を食べた。
 二人とも、予備校では一匹オオカミだった。

 理由?

 さあ……。

 理由なんて、ない。

 きっとアイツも、
(理由なんかない)
 と答えただろう。そういう女だった。

 付かず離れず――
 こんな関係があってもいいんだと、僕は思っていた。

 なのに――
 アイツは去年の花火大会に僕を誘ったんだ。

 前代未聞のことだった。

(花火、行こう!)
(ええ?)
(花火!)
(なんで?)
(いいじゃん、たまには……)

 正直、乗り気になれなかった。
 上野から銀座線で浅草へ……?
 満員電車にもまれながら……?
 このオレが……?
 コイツと……?

 嘘だろう?

(それじゃぁ、そこらの阿呆なカップルどもと違わねえじゃねぇか!)
 僕の悪態に、アイツはぎこちない笑みをみせた。
 それが、今までのアイツのどの笑みよりも無気味だったので、結局、
(しょうがねえなあ)
 と僕は応じることにした。

 応じてやっても、アイツの笑みは変わらなかった。
(アタシ、浴衣を着てくるから……)
 と云ったときも、ぎこちないままだった。

     *

 浅草のビル街は人込みでウジャウジャだった。

 浴衣を着てくると云ったクセに、あいつは普段着のままで現われた。
 白いブラウスに紺のスカートである。

 アイツは僕の手をひき、人だかりを縫うようにして、花火のみえる場所を探し回った。

(みえりゃいいよ、どこだって!)
(だめ――)
 アイツの目は真剣だった。

(どこだって一緒だろ?)
(そんなこと云うな!)

 三〇分もして、ようやくアイツは歩くのをやめた。
(いいのかよ? ここで?)
 と訊いても、答えはなかった。
(変わんねえじゃん! さっきんとこと!)
 と文句を云うと、
(黙ってみてろ!)
 と怒鳴られた。

 僕は、のんきに苦笑した。
 相変わらず遠慮のないヤツ――と思った。
 だからこそ、こっちは付き合い易いんだけどね――と思った。

 本当に、のんきだった。

 そうやって――
 僕らは、しばらく夏の夜空を見上げていた。
 群集に埋没するのは不快だったが、天の火の粉は少しの感慨を与えた。

(なかなか、すげえじゃん……)
 と僕は云った。
(そうだね……)
 とアイツは答えた。

 そう答えたときのアイツの顔を、僕はみなかった。
 みたのはアイツの首筋だ。
 白いブラウスの襟の裏が汗で汚れていた。

 もっと顔を、ちゃんと、みておくべきだった。

     *

 江戸川の花火大会は、浅草のよりも規模が小さい。

 それでも――火薬が弾け、火花が乱れ散る。ズシンと腹に響く音――
 同じだった。去年の浅草も、今年の江戸川も……。

 夜空に飛びかう光の飛沫は、僕の心に素朴な感動を与えた。
 感動は、あの夏の花火よりも確かで、手応えがあった。

     *

 アイツがおかしくなったのは、フィナーレのときだった。

(なんだか、アンタみたいだね)
 とアイツは云った。
(何が?)
 と問うと、
(あの花火の音――)
(花火の音?)
(ぱっと散った後、音がするまで、ちょっと間がある)

 僕が黙っていると、アイツはムクれて舌を出した。
(……ま、確実に反応するだけ、花火のほうがマシかもね)
(鈍くて悪かったな)

 アイツは僕の顔を、もう、みなかった。
(本当に鈍いんだよ……)
(なんだよ?)
 僕が抗議しても、アイツの口調は変わらなかった。

(――アタシ、何してんだろう? こんなところで……、しかも、アンタなんかと……)
(テメーが誘ったんだろうが!)
(……なんで、アタシ、大学生じゃないんだろう? あんなに勉強したのに……)

 言葉が出なかった。
 このとき初めて、アイツがアイツでなくなっていることに気付いた。

(……なんで、こんなとこにいるんだろう? アンタなんかと……)
 返事ができなかった。
 恐ろしかった。

 あのときのアイツの顔を、僕は絶対に忘れない。
 だって――
 アイツは、笑ってさえいたんだから……。

     *

 盛大な拍手や歓声に惜しまれ、最後の花火が散り終えた。
 僕は、短くため息をつき、右斜め前に視線をやる。
 去年、アイツが立っていた場所――

     *

(さ、帰るか……)

 が――
 アイツは僕の顔をみなかった。

 代わりに――
(さよなら……)
 と云って、人込みの中に走って消えた。

(ちょっと、待てよ! ……おい!)
 慌てて追おうとしたが、そんな自分が恥ずかしく、すぐに立ち止まった。

 なんだ、勝手に帰りやがって……。
 置いてきぼりか?

 僕は腹が立った。
 ハラワタがムシャクシャっとした。

 けど、怒りは、すぐに不安に変わった。

 もしかして、本気だったのか?
 オレたちのことが――

 僕は急いで不安を打ち消した。
(なに、大丈夫。明日になりゃケロっとしてるさ……)
 自分に云いきかせた。

     *

 人々は家路につき始めた。
 江戸川の花火は完全に終幕したのである。

 それでも――
 フィナーレの熱気は江戸川の土手に痕跡を残していた。

 きっと、去年の浅草は、もっと凄かったはずである。
 それを僕は味わったんだ、アイツと二人で――

 あれから一年――

 アイツは、どこか遠くへ行ってしまった。
 多分、二度と会うことはない。
 生きているのか死んでいるのか――それすらも、わからない。

 アイツが失踪したのは、浅草の花火大会の次の日だという。
 唐突の失踪に、周囲は哀しみに沈んだ。
 けど、元来、頭の良すぎる女だっただけに、何となく納得しているふしも感じられた。

 ――やっぱりね。

 ――最近フツーじゃなかったもん。

 周囲の言葉が、今も僕に突き刺さる。
 彼らを非難する資格は、僕にはない……。

 あれから一年――

 もう一度、アイツと――
 この夏の花火がみたかった。

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