序 オリエンティーナの家のこと


 ときどき、
(オリエンティーナ)
 という妻の家名を、羨ましく思うときがある。
 いや……。
 ただ単に、その音の響きが好きなだけだ。

 妻マリーに出会ったのは士官学校時代である。
 二人とも、まだ、ほんの十四、五歳だった。
 妻の弟たちと付き合い始めたのも、この頃のことである。

 珍しい事例かもしれない。妻やその弟たちとの付き合いが、結婚する十年以上も前から続いていたのである。
(いざ、結婚というときに、患わしさを感じなくて、済んだでしょ?)
 と、妻は笑った。
(たしかね……)
 と、私は笑ったが、本当によかったかどうかは、わからない。
 私は、多分、妻の弟たちのことを、知りすぎていた。おそらく、むこうもそうである。
 適度に尊敬しあいながら付き合っていくためには、互いのことは、あまり詳しく知らないほうがいい。特に若い時分は……。

 だが、現実は違った。
 私は妻だけでなく、妻の弟たちとも、公私にわたって、密に接した。
 妻の上の弟のジークは、戦闘操縦士学校時代、私の養父の家に下宿していた。また、下の弟リュージェは、兄の入隊と入れ替わる形で、やはり私の養父の家に居候した。

 養父というのは、叔父のことである。
 私の実父は、シュトミール家の嫡流に生まれたが、軍人になることを拒み、家督を継ぐことなく、法律学者になっていた。そして、私が生まれて間もなく、兵役に出て、戦死している。もちろん、私は実父の顔は覚えていない。
 だから、私を育ててくれたのは、父に変わってシュトミール家を継いだ叔父である。叔父は、家訓に従い、士官学校に通い、優秀な成績を修め、無事に提督号を付与された職業軍人でもあった。

 その叔父が、妻の弟たちの世話を買って出たのは、もちろん、世間が云うように、武家の名門オリエンティーナ家との縁を保ちたかったということはあろう。
 周知の通り、妻マリーの実家(さと)であるオリエンティーナ家は、歴代の当主が国軍最大級の艦団の司令官を拝命してきた家柄である。過去に何度も一族で国軍最高位の座を占めてきた。
 叔父は、政治家としても抜け目がない。当然、その辺を念頭におきながら、オリエンティーナ家と仲良くしていた節があった。
(じゃあ、私たち、政略結婚だ)
 と、妻は云う。
 向こうがそう云うので、こちらもそういうことにしてあったが、本当は違う。

 たしかに、祖父の代から高々二代でのし上がった新興の我が家にとって、オリエンティーナ家は格好の盟友相手であった。
 しかし、両家の交友は、実際は、妻の実父と私の叔父とが、古くから懇意にあったことに依る。叔父のオリエンティーナ家への気配りは、単なる政略の域を越えていた。少なくとも、私にはそのようのみえた。

 むろん、私の気持ちもそうである。
 私は、士官学校時代を通し、ずっと妻と同級だった。先代が戦死したばかりの旧家の若き当主と新興の武家の跡取り息子と……。
 互いのことを意識し合い、また、互いの苦労や悩みを分かち合うには、打ってつけの相手であった。
 妻と私とが自然と仲良くなっていったのは、家柄のせいもあるかもしれないが、単に、二人の境遇が似ていたからだと思う。
 少なくとも、私が妻に惹かれたことと、妻の家柄とは無関係だ。
 おそらく、妻も、わかってくれていたとは思うのだが……。

 そのようなわけで、私が「長兄」としてオリエンティーナ姉弟の四人目の構成員に迎え入れられたのは、妻と結婚する遥か以前からであったといってよい。
 四人とも両親を亡くしていたことが、お互いを引き付けた理由だったかもしれない。

 世間でよく云われているように、たしかに、オリエンティーナ姉弟には近付き難い雰囲気があった。
 長姉マリーは、夫の私などよりも遥かに優れた戦略家、戦術家であり、その将才をもって、早くからオリエンティーナの家権を掌握し、軍部内においても揺るぎない地位を確立した。
 次兄のジークは、優れた戦闘操縦士として、初陣以後、その武名を欲しいままにした。
 弟のリュージェは、優れた数理物理学者として、早くから学界で頭角を表わし始めていた。

 しかし、やっぱり、彼らはありふれた普通の姉弟でもあった。
 彼らを、世の表舞台に否応なしに引っ張り上げたもの――。
 それは、戦乱に明け暮れた当時の国際情勢であり、殺伐とした社会動向こそが、彼らを悲劇へと追いやった張本人であった。
 ちょうど青年期を迎えたばかりの彼らは、やがて、時代の荒波に呑まれていくことになる。

 以下の逸話は、後年、末弟のリュージェからきいたものだ。彼に断った上で、やや小説風に仕立て、この章の末尾に止めておくことにする。
 彼らも私も、まだ、ずっと若かった頃のことである。
 妻マリーは、まだ士官学校に在学中で、私はシュトミール家の後継指名を受ける少し前、妻はオリエンティーナ家の家督を継いだ直後のことである。
 当時、次兄のジークは、首都イフリディーティ市内の下宿から戦闘操縦士学校に通い、弟のリュージェは中学生で、首都北西のラントゥールの伯母の家に預けられていた。

――リウス・シュトミール『手記』より
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