グラスの向こう側(3)


 住処に戻る道中、俺はずっと憂鬱だった。なにせ、俺はロベリアのことを...。いや、何でもねぇ。
 金づるを手放すはめになったんだからな。分かるだろ?ロベリアを手放したら、それまでみたいに楽な生活ができなくなるんだ。ロベリアは、そこそこの金を俺に間借り賃としてくれていたからな。住処に戻ると、珍しくロベリアが居た。あいつは、大抵昼間も外に出て、酒を飲んだり追いはぎしていたりしていて、下手すると一日中帰ってこないこともざらだった。だから、あいつが部屋にいるのを見て、俺は驚いた。
「珍しいな、お前が中にいるなんて。風邪でもひいたか?」
「そう見えるかい?」
「いや、そうも見えねぇな。一体どうしたんだ?」
「中にいようが、外にいようが、アタシの勝手だろ。アンタにとやかく言われる筋合いはない。」
「ふん...まぁ、いいさ。それよりどうだ、一杯やらないか? ヘネシーが手に入ったんだ。」
「ほう...アンタにしちゃ珍しく気が利くねぇ。ありがたく頂こうじゃないか。」
「全く、誰に似てこんな酒好きになったんだ?」
「酒を教えたのはアンタだろ。ま、自業自得、ってやつだな。」
「ったく...。痛いところをついてくれる。」
 俺らは、テーブルについて、酒盛りを始めた。昼間っから酒を飲むのは、俺らにとっては至って普通のことだった。
 他愛もない話をしばらくした後、俺は何気ない風を装って、今晩つきあってくれないか、と持ちかけた。
「つきあうって、どこへ?」
「いい仕事の口を見つけたんだがな、俺一人じゃ手に余るんだ。どうだ、昔みたいに一緒にやらないか?」
「場所を教えてもらえれば、アタシが一人でやってきてもいいぜ? アンタには情報料を少しばかりくれてやる。」
「いや、俺は二人でやりたいんだ。たまにはいいだろ、な?」
「ふーん...。二人で、ねぇ。じゃぁ、なおさら場所を教えてもらわないとな。じっくりと計画を練ろうじゃないか。」
「いや、そこまで難しい仕事じゃねぇから...。」
「下準備の要らない仕事が、アンタ一人の手に余る、って言うのか?」
 俺はロベリアの鋭い指摘に、しどろもどろになった。ロベリアの射るような視線が痛い。
「い、いや、要するにだな...。俺はただ単に二人で仕事をしたいだけなんだよ、な? 変に理屈つけて悪かった。そういうわけだからよ、ロベリア、今晩俺につきあってくんねぇか?」
「アタシに謝ることはそれだけか?」
 そう言って、奴は俺の方をにらみつけてきた。この時になって、やっと気づいた。ロベリアが全てを知っていることを。恐らくあいつは俺のことをつけていたに違ぇねえ。それで、俺とイレールのやりとりを全部聞いてたんだ。
 あいつは、俺の思った以上に成長していた。犯罪者としてもな。
 俺が黙っている間、ロベリアのやつもずっと黙っていた。俺の方から白状するのを待っているようだった。俺はついに覚悟を決めた。
「ああ、そうだ...。俺はイレールの奴にお前を引き渡すと、言っちまった...。」
「そんなことは分かってる。あのときアンタがウィと答えるのも無理もないことだと思う。でも、でもな...。」
 ロベリアの声は少し上ずっていた。意外なことに、やつは興奮していただ。
「その後アタシに何て言った? 『今晩つきあってくれ』、だと? アタシをだまして、奴の所に連れていくつもりだったのか?」
「 ...。」
「結局、アンタは自分の身可愛さに、アタシを奴のところへ連れていこうとした。 ...失望したよ、アンタには。そしてようやく分かった。」
「ロベリア...。」
「今更言い訳してももう遅い。アンタの本心はようく分かった。要するにアンタは他のチンピラ共と同じ、自分のことしか頭にないただのクズだ。」
 俺は、反論できなかった。ロベリアの言ったことは全部本当だった。
 イレールにウィと言っておいて、一緒に巴里を抜け出そう、ってロベリアに持ちかけることもできた。だが俺にはそんなことは言えなかった。5年前はできただろう選択が、今はできなかった。5年という月日は、俺の覇気を奪うのに十分な時間だった。情けねぇ話だ、女一人守ってやれないとはよ。
「人を少しでも信じたアタシがバカだったよ...。ここはもうイレールのやつらに囲まれている。アンタがアタシを連れて逃げ出すのを警戒してな。だが、屋上からなら逃げられるだろう。 ...アンタが教えてくれた手だ。」
「ちゃんと覚えてくれていて嬉しいよ、ロベリア。」
「 ...この、バカ野郎!」
 あいつは俺のことを殴り飛ばして、出て行った。去り際に横顔をちらりと見ることができたが、なんだか泣いているように見えた。ロベリアが涙...。いや、ありえんな。きっと俺の見間違いだろう。いやぁ、それにしてもあれは女だてらにヘビーなパンチだったな。3日の間痛み続けた。女ってのは怖いねぇ、ははは。


 それっきり、ロベリアは俺の目の前に姿を表すことはなくなった。
 俺がロベリアを逃がしたんじゃないかと、グループの連中に疑われたが、俺のほっぺたを見てみんな黙った。そりゃそうだ、芝居にしちゃぁあまりにひどすぎる傷だったからな。
 こうして、俺とロベリアの間の奇妙な関係は終わった。今奴がどうしてるかなんてことは、俺よりもサツの方が詳しいだろう。


 そこまで話すと、リシャールはグラスの中身を一気に煽った。
「さ、これで話は終ぇだ。どうだ、閉店には間に合っただろう?」
「そうですね...。」
 大神は、少し笑いながらうなずいた。
「黙って聞いてくれた礼だ、一杯おごってやるよ。何がいい?」
 日本では薦められても一度は断るものだが、ここはフランスである。大神は即座に申し出を受けることにした。
「では...ヘネシーを。」
「はは、いいねぇ、分かってるじゃねぇか。マスター、俺にもおかわりをくれ。」
 大神は、運ばれてきたグラスに口をつけた。
 コニャック独特の豊かな香りが鼻に抜けてくる。コニャックの中でも、ヘネシーの味は格別だ。
「あの...リシャールさん」
 大神はグラスを見つめたまま呼びかける。
「あん?」
 リシャールはグラスを持ったまま大神の方に振り向いた。酔いが回っているはずだが、その顔は赤みを帯びている風でもない。欧州人だからか。
「ロベリアは...ひょっとしてあなたのことを...。」
「愛してた、ってか? よせやい。大体、俺のことをそんな風に思ってたんだったら、なんで俺の寝床への誘いを断り続けたんだ?」
「肉体的関係を持つことだけが恋愛ではないということぐらい、貴方には分かっているはずです。それに、あなただって...。」
「ロベリアのことを愛してた、と言いたいのか? 冗談じゃない、あんなメスガキのことなんざ、俺は...。」
「ロベリアのことを話している時のあなたの顔は、随分と温かいものでしたよ。それに、話の流れからも何となく分かります。」
「けっ、下らないことに気づきやがって...。」
 そう言って、リシャールは再びグラスを傾けた。
「ロベリアもあなたのことを愛していた。だから裏切られたと思ったとき、つい興奮してしまった...。」
「兄ちゃん、あんまり下らないこと想像してるといくら穏やかな俺でも許しちゃおかないぜ?」
 構わず大神は続ける。
「ロベリアが最後にあなたに望んだのは、謝罪の言葉だったんじゃないんですか? 裏切ろうとして悪かった、と一言あなたが言えば、ロベリアは...。」
「うるさい!」
 リシャールは急に立ち上がり、叫んだ。周りの客は何事かと、二人に視線を集中させる。
「俺だってそんなことぐらい分かってらぁ! あいつが...あいつが俺のことをどんだけ信頼してたかなんて...分からないわけねぇじゃないか...。そうさ、俺はあいつが好きだった。酒やタバコが大好きで、女らしからぬほど粗野で、乱暴で...。だが、俺はそれでもあいつのことが好きだった。だが、だがな...。俺はあのとき、ロベリアと別れる道を選んだ。巴里から逃げれば、イレールどもが追ってくる。脱退者はそれなりの罰を受ける、それがルールだ。怖かった。ずっと逃げ続けるのが嫌だった。俺はイレールから身を隠してひっそりと暮らすより、ロベリアと別れてそれまでの生活を保つことを選んだんだ...。」
 リシャールはどっかと座り、コニャックを一口飲んだ。その瞳にはうっすらと光るものが浮かんでいる。
「ここまで詳しく話したのは、あんたが初めてだ。あんたには不思議と話す気が起きた。 ...さ、これで本当に話は終ぇだ。これ以上俺に恥をかかせるのはやめてくれ。」
 大神は黙って席を立ち、店を出て行った。一人残されたリシャールはグラスの中身を空け、つぶやいた。
「ロベリア...。」
 グラスの中にぽつん、と雫が一滴、落ちていった。


<次回予告>
 春来たり
 川辺に桜
 咲けれども
 一輪の花
 未だ見えざる
 次回、「サクラ大戦番外編 十三色の虹 第4話 風に乗せて」
 太正櫻に浪漫の嵐...。
 我、君に言はまほし。

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