酸の湖のほとりには、かつての巨大産業文明が築いた宇宙船の骸がさらされている。
「ウソかホントか知らねえが、星まで行ってたとかなんとか……」
トルメキア軍の参謀クロトワが呟く。
ナウシカは、この船の存在を知っていただろうか?
知っていたとして、では、この船に何を思っていたであろうか?
それとも、何も感じなかっただろうか?
僕は、多くのSF作家たちが――現在では、多くの科学者たちが、そう考えるように――人類は、やがて、宇宙に飛び出すように運命づけられていると思う。
別段、目新しいエポックを画するわけではない。
それは、人類の祖先たちが、母なる海を背に、未知なる陸に上がったのと同様のワンステップでしかない。
――やがてはそらへ。
それは、人類の近い将来の在り方を示唆するフレーズといえる。
人類は宇宙に飛び出し、より広い視野を手に入れる。つまり、地球という一つの惑星が、いかに、ちっぽけで、愛しいものであるか?
また、有史以来、その狭い地表で繰り広げられてきた人間どうしの醜い争いごとの数々が、いかに馬鹿らしいものであったか?
実感をもって、知ることができる。
現在では、こうした感慨は、一部の宇宙飛行士しか与ることができない。しかし、これを、人類全体の感慨に変えることができれば、民族紛争、国家間紛争の解決にもつながり得る。
――母なる地球を背に、未知なる宇宙へ。
21世紀は、間違いなく、現実味をもって人々に迎えられるテーマとなるだろう。
映画『風の谷のナウシカ』の世界の人々は、どう考えたであろうか?
そして、ナウシカは、どう考えたであろうか?
人類は、火の七日間によって、その高度科学技術文明を失った。そして、おそらく、この不幸は、大いなる大宇宙に、今まさに羽撃こうとしていたその翼を、自らの手で、もいだに等しかった。
人類は、やがて、宇宙に旅立つ。
地球という母親の下で培った科学技術の粋を集めて、住み慣れた我が家を巣立っていく。
そして、大宇宙のどこかで、自分たちとは異なる母親を持つ同胞たちと出会うに違いない。
いや、「出会えた」に違いない。
戦争が何もかも奪ってしまった。
すべてをなくしてから、一千年である。
気が付くと、自分たちの生存すら危ぶまれていた。腐海という得体の知れぬ森は、なけなしの耕地を踏み躙り、人類は、己の住みかさえ追われていった。辛うじて生き残ったものたちも、何十年と腐海の瘴気に脅かされて暮らすうちに、体が石のようになって、力尽きていく。
これが、大空に羽撃こうとした種族の末裔である。なんと惨めな末路であることか?
ナウシカは、酸の湖のほとりに立ち、何を思っただろう?
「遠く! もっと、遠く!」
瑞々しいフロンティアの精神に鼓舞された乗組員たちが、人類の技術と希望とにかけて、広大な星空を渡っていたかもしれないあの船に、当時の人々の見果てぬ夢を感じなかっただろうか?
やはり、一千年後の彼女には、もはや到底理解でき得ぬ夢となってしまっていただろうか?
それとも、遠い先人たちの偉業に思いを馳せ、ともに大空の彼方に自由な空想を描いただろうか?
ナウシカの涙は語る。
自然からの母なる愛を感じたナウシカは、その懐の深さに感謝し、これまでの自分たちの勝手な所業を詫びた。
そして、このとき、酸の湖の船のことが少しでも心にかかっていたら、彼女は感じたはずである。
もし、人類が宇宙に飛び出していたら……。
そして、別の惑星に居を構え、新たな生活の場を確保していたら……。
そうすれば、問題は何もなかったのだ、と……。
もちろん、人類は、汚し続ける種族として、宇宙を転々と逃げ回らなくてはならなかったかもしれない。
しかし、そもそも、太陽たちの生成した巨大なエネルギー塊を宇宙にばらまくことでしか暮らせないのが、僕たち生命体である。自然に甘えることなくして、人類が生きる術は残されていない。
人類が、地球を巣立ち、いつしか、そうした思索の頂きに立つことができれば、人類の未来は穏やかものとなるであろう。
しかし、人類は巣立てなかった。
母親の下を巣立てなかった子供は不孝である。
腐海によって、次々と生活の場を追われていく人類たち。
母親は、自らの手で、子供たちを死に追いやらなくてはならなかった。
ナウシカの涙は、自然の心を慮っての涙でもあったかもしれない。
否、自然そのものの涙だったかもしれない。
母なる海と同じ成分の一雫は、腐海の底の、まだ誰も踏み入れていない大地にしみ込んでいった。
――やがてはそらへ。
我々は、このスローガンを胸に、過ちを防がなければならない。