5 ナウシカの死


 やはり、彼女は死んだのである。

 子供向けエンターテイメントという枠組みを逸脱できたなら、ナウシカは、死んだままになっていたはずである。
 そして、人々は見るのである。
 死んだはずの少女が、金色の野に舞っている姿を……。
 それは、風の谷の人々すべてが見た幻であった。

 もし、ナウシカを「殺し」ていたなら、映画『風の谷のナウシカ』は純文学の要素を多分に含んだ作品と解釈されていたであろう。
 カフカの『変身』で、主人公が最後まで人間の姿に戻れなかったことは、『変身』を純文学たらしめるゆえんである。

 そうした要素を嫌い、わざわざエンターテイメントに撤した宮崎駿の選択は、ある種の尊敬を得てしかるべきだが、やはり、ひたすらに悲しい、悲しい結末というものも、捨て難い。
 もし、「悲しい、悲しい結末」であったならば、映画『風の谷のナウシカ』は、別の角度からアニメーション業界を震撼させていたように思える。

 しかし、ナウシカが、死を選んだことに変わりはない。

 では、なぜナウシカは死を選んだのか?

 ナウシカが、無念の死を遂げたのか、それとも本望の死を遂げたのかは、もっと議論がされてもいい。
 つまり、彼女の選択は、
「私がやらなきゃ」
 という、自己犠牲の極みとして死を選んだのか、それとも、何かに突き動かされ、衝動的に死を選んだのか、ということである。

 こうした分析に気が引けるのは、自然なことだろう。
 例えば、知人が自殺したときに、理由をあれこれと詮索することが、その人の死を冒涜しているように感じることと、似ているのかもしれない。

 だから、無礼はやめよう。
 彼女の死の動機は、永遠に謎であるほうが良いのかもしれない。

 ただ、これだけは言えるような気がする。
 彼女の死は、やはり、あの「発見」とは無縁ではなかった、と。

 腐海が自然の回復のために設けられた一種の装置であると知って、ナウシカは、何を思ったのであろうか?

 もちろん、自然のたくましさに感謝し、喜び、そして、人類の罪深さを改めて悲しんだであろうことは、前述の通りである。
 では、その後に、彼女の考えたこととは、いったい、何であったのか?
 危険を知らせるために、ガンシップを駆って、風の谷を目指した胸中に去来したものとは、いったい、何であったのか?

 もちろん、風の谷の若き主として、風の谷の人々の救出を願っていたことに違いはない。
 しかし、それだけであろうか?

 ここで、ナウシカが腐海の底で見せた涙が、重要な鍵を握るように思える。それは、悲しみと喜びとの極みとして、流れ落ちたひとしずくであった。同時に、人間の無力さ、矮小さを、肌で感じとったはずであった。
 そして、腐海の底の青い清浄の世界。そこは、人類の思惑を超越した別天地であった。

 しかし、彼の地は、今後も別天地であり続けるであろうか?
 人間は、彼の地をも、瞬く間のうちに、汚し尽くしてしまうのではないだろうか?  そうすると、今までの長い年月の間に、腐海の木々がしてきたことは、何だったのだろう?
 それとも、人間には、浄化した大地にありつく権利でもあるのか?

 まさか…。

 では、どう考えればいいのか?

「わからない! 時間が足りない!」
 ナウシカの悲痛な叫びが、聞こえてきそうだ。

 こうした葛藤の結果が、あの壮絶な死ではなかった?
 ナウシカは、そうした葛藤を経て、その体を、空中高く、舞い上がらせたに違いない。

 ナウシカの選択の意義を即断することは避けよう。
 しかし、ナウシカが、自分の命を賭してまで、人々に知らせたかったこととは、何であったのか?
 考えずにはいられない。

 ナウシカの気高さが、ここにも生きている。
 リアリズムに基づいた気高さであるがゆえに、僕らは、ナウシカが物語の中の少女であることを忘れてしまう。

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