やはり、彼女は死んだのである。
子供向けエンターテイメントという枠組みを逸脱できたなら、ナウシカは、死んだままになっていたはずである。
そして、人々は見るのである。
死んだはずの少女が、金色の野に舞っている姿を……。
それは、風の谷の人々すべてが見た幻であった。
もし、ナウシカを「殺し」ていたなら、映画『風の谷のナウシカ』は純文学の要素を多分に含んだ作品と解釈されていたであろう。
カフカの『変身』で、主人公が最後まで人間の姿に戻れなかったことは、『変身』を純文学たらしめるゆえんである。
そうした要素を嫌い、わざわざエンターテイメントに撤した宮崎駿の選択は、ある種の尊敬を得てしかるべきだが、やはり、ひたすらに悲しい、悲しい結末というものも、捨て難い。
もし、「悲しい、悲しい結末」であったならば、映画『風の谷のナウシカ』は、別の角度からアニメーション業界を震撼させていたように思える。
しかし、ナウシカが、死を選んだことに変わりはない。
では、なぜナウシカは死を選んだのか?
ナウシカが、無念の死を遂げたのか、それとも本望の死を遂げたのかは、もっと議論がされてもいい。
つまり、彼女の選択は、
「私がやらなきゃ」
という、自己犠牲の極みとして死を選んだのか、それとも、何かに突き動かされ、衝動的に死を選んだのか、ということである。
こうした分析に気が引けるのは、自然なことだろう。
例えば、知人が自殺したときに、理由をあれこれと詮索することが、その人の死を冒涜しているように感じることと、似ているのかもしれない。
だから、無礼はやめよう。
彼女の死の動機は、永遠に謎であるほうが良いのかもしれない。
ただ、これだけは言えるような気がする。
彼女の死は、やはり、あの「発見」とは無縁ではなかった、と。
腐海が自然の回復のために設けられた一種の装置であると知って、ナウシカは、何を思ったのであろうか?
もちろん、自然のたくましさに感謝し、喜び、そして、人類の罪深さを改めて悲しんだであろうことは、前述の通りである。
では、その後に、彼女の考えたこととは、いったい、何であったのか?
危険を知らせるために、ガンシップを駆って、風の谷を目指した胸中に去来したものとは、いったい、何であったのか?
もちろん、風の谷の若き主として、風の谷の人々の救出を願っていたことに違いはない。
しかし、それだけであろうか?
ここで、ナウシカが腐海の底で見せた涙が、重要な鍵を握るように思える。それは、悲しみと喜びとの極みとして、流れ落ちたひとしずくであった。同時に、人間の無力さ、矮小さを、肌で感じとったはずであった。
そして、腐海の底の青い清浄の世界。そこは、人類の思惑を超越した別天地であった。
しかし、彼の地は、今後も別天地であり続けるであろうか?
人間は、彼の地をも、瞬く間のうちに、汚し尽くしてしまうのではないだろうか?
そうすると、今までの長い年月の間に、腐海の木々がしてきたことは、何だったのだろう?
それとも、人間には、浄化した大地にありつく権利でもあるのか?
まさか…。
では、どう考えればいいのか?
「わからない! 時間が足りない!」
ナウシカの悲痛な叫びが、聞こえてきそうだ。
こうした葛藤の結果が、あの壮絶な死ではなかった?
ナウシカは、そうした葛藤を経て、その体を、空中高く、舞い上がらせたに違いない。
ナウシカの選択の意義を即断することは避けよう。
しかし、ナウシカが、自分の命を賭してまで、人々に知らせたかったこととは、何であったのか?
考えずにはいられない。
ナウシカの気高さが、ここにも生きている。
リアリズムに基づいた気高さであるがゆえに、僕らは、ナウシカが物語の中の少女であることを忘れてしまう。