自然の「親心」とは、どういうことか?
それは言葉面だけでは伝わらない。
実は、自然の「親心」に理解を示すというころは、人類には過酷な試練である。
端的に言えば、腐海に飲み込まれて、大勢の人間が息絶えていくことに我慢するということである。
むろん、腐海が人類を滅亡に追いやると信じて疑わない人には、到底、理解不能な我慢である。
しかし、映画『風の谷のナウシカ』の世界には、それを理解した人たちがいる。理屈で理解している人は少ないが、例えば、風の谷の古老たちは、皆、理屈抜きで理解していた。
人類は自然を無茶苦茶にしてしまった。その結果、腐海が生じ、人類の住みかを奪っていく。
それでもなお、腐海とともに生きようとする彼らの生きざまは、壮絶であり、美しくもある。
そんな彼らは、ナウシカの腐海の底での発見を、どう受けとめるだろうか。答えは明白である。
ナウシカが腐海の底で見せた涙は、むろん、悲しみの涙ではなかった。彼女は嬉しかったのである。自然の慈悲に感動したのである。
しかし、それは絶望に裏打ちされた倒錯的な喜びかも知れなかった。
少なくとも、腐海が汚れた大地を浄化しているという事実と、おそらく地球上のすべての大地が汚れているという事実とを照らし合わせれば、人類の子孫の大半は、腐海によって死滅するということである。あるいは、人類が絶滅に追い込まれても文句は言えないということである。
それは、事実上の死刑宣告に等しい。そして、それは、半ば予想していたことであった。
予想外であったのは、腐海が大地を浄化しているという事実である。
人類は、自然を破壊し尽くした。その後始末は自然が着けてくれるという。
なんと母性に満ちた慈悲であろうか。
それに引き替え人類はどうか?
腐海は、自分たちの代わりに自然を蘇らせつつある。その腐海を、焼き払おうとすらしている。その腐海を守る蟲たちを、忌み嫌い、異世界の生物とみなす。
何とも浅ましい限りではないか?
「許してだなんて言えないよね。ひどすぎるよね」
ナウシカの悲痛な語り掛けは、自然に対するものでもあった。
僕は、常々、思う。
昨今の環境保護の思想は、ちゃんと、こうした気分を原体験として持っているのだろうか?
もちろん、環境保護など必要ないと言うつもりはない。
しかし、環境を「保護」するという概念は、そろそろ捨て去ったほうがいいのではないか?
映画『風の谷のナウシカ』の世界では、人類が滅んでも、自然は何も困らない。むしろ、腐海の誕生というやっかいな手段に訴えなくてはならないくらいにできの悪い人類は、いないほうがましなのだ。
自然はよくわかっていた。
しかし、自然は、人類のわがままを許し続けてきた。
この先、僕らの世界にも腐海が誕生するかどうかは別にして、自然が人類のわがままを許し続けているということについては、状況は同じだろう。
それは、やはり、子供の成長を見守る母親の姿に重なる。
きっと、人類は、農耕時代の幕開けから、産業革命に至るまでの長い反抗期を終え、今、ようやく母親をいたわるという発想を知ったに過ぎない。それを「地球にやさしい」というフレーズで恩着せがましく喧伝するのは、どこか間違っている。
僕らは、腐海を焼き払おうとしたトルメキア軍やペジテ市の人々を、簡単に嘲弄することはできない。