巨大産業文明が崩壊してより一千年後。衰退の一途を辿っていった人類は、腐海によって、その短い余命すら脅かされていた。
腐海は、蟲たちの骸を苗床に生じるということからもわかるように、腐海の実態は、カビ類が巨大化したものと考えるとイメージがつく。腐海の中では、異形の蟲たちが跋扈し、奇っ怪な植物たちが瘴気を放ち、人間など蟲以外のすべての生命体の侵入を拒む。
この瘴気というのは、人間が作り出した毒ガスや放射能よりは、よほどましで、簡易な防毒用マスクで凌げる。だから、腐海は、人間の侵入を完全に拒絶しているわけではない。
人間の鼻と口とからは入っても、顔面の肌から侵入することはないという瘴気の性質は、グロテスクなSF映画を見慣れた目には稚拙にみえるのだが、この設定は重要な暗示をもたらす。
当初、僕は、腐海は人間が作り出したものと理解した。物語の中の人物たちも、そう考える。トルメキア軍やペジテ市の人々が、腐海を焼き払えると信じて疑わないのは、こうした根拠に依るものだろう。
少なくとも彼らは、腐海を自然の一部とは解釈していなかったようだ。なぜなら、もし、腐海が自然の一部であるならば、これほどまでに人間の手を患わすことはないであろう、と……。
思い上がった彼らには、そのように考えていた節がある。
自然の一部ならあっさりと焼き払えるはずだ。風や水が百年かけて育てた森も、たった一晩で焼き払うことができたではないか?
ところが、腐海は焼き尽くせない。
焼き尽くすどころか、ますます広まっていく。
このままでは、人類の存亡が危うい。
だから、腐海は自然の一部ではあり得ない。
おそらく、トルメキア軍やペジテ市の人々は、腐海を、極度に汚染され、自然の原形から逸脱してしまった環境系と解釈していたのではないか? つまり、人類の鬼子とみなしていたわけである。
有史以来、特に西洋において、自然は、概して、か弱いものであり、人間に征服されるべきものであった。
だからこそ、それを保護するという思想も生まれたのである。
その保護思想が敵対するもの、それが環境汚染の主体としての人間文明である。
――敵は自身にある。
こうして、トルメキアやペジテの人々は、己れの手で作り出してしまった怪奇な森の根絶を、目論んだ。
彼らは、そういう意味では、責任感の強い人たちなのである。自分たちの手で作り出してしまったものは、自分たちの手で取り除かなくてはならない。
だから、巨神兵という危険な切札を提示したりもした。
ところが、腐海は自然の一部だったのである。
腐海は、大地の汚れた成分を抽出し、その毒性を浄化させる役割を負っていた。腐海の誕生は、自然による人間への報復ですらなかった。
ぱっと出た新興の人間という種族が大地を散々に汚してしまった。
「では仕方がない」
と、自然は腐海を誕生させたのである。
「こんなに汚してしまうとは……」
自然のぼやきが聞こえてきそうだ。
人類の存亡が脅かされていたのは、実は二次的な結果でしかなかった。
あたかも、自然は人類の存在など、無視しているかのようである。人類を滅亡に追いやるまで、人類に執拗になれるとは思えない。
あるいは、こういう見方もできる。
自然の摂理に則って、ひたすら大地を浄化している腐海が、人類を根絶させることはないだろう。それは、地球と人類との関係を母と子になぞらえたとき、実はちょっとしたお仕置きではないのか。
例えば、子供が、重要な来客を控えた客間を散らかしたとき、不機嫌そうに後始末に取り掛かる母親の姿は、腐海を産んだ自然に重なる。母親は、罰として、子供に客間からの退去を命じるであろうが、子供を殺しはすまい。せいぜい、夕食を取り上げ、子供部屋に軟禁する程度のおしおきに違いない。四十五億年の年月を生きた自然にとって、二〇〇万年の歴史をもつ人類は、ただの子供以前の存在ですらあるように思う。
以上のような空想を可能にするのは、腐海の設定、すなわち、瘴気は簡易なマスクで防げるものであるという甘い設定である。
実は、前々から気にはなっていた。
なぜ、腐海の瘴気は、あれほどまでに手緩いのか?
ちょっとでも触れただけで皮膚が爛れるとか、少しでも吸い込んでしまえば致死量に至るとか、どうしてそのような設定にしなかったのであろうか?
実際は、深い意味が込められていたのである。
少なくとも、込められていたと判断できるのである。